第144話 英雄にならない
【豊臣家滅亡まで 残り3,677日】
疱瘡が終わって、三月が経った。
井戸改めは、続いていた。病人を分けた小屋のうち、四つは、町医者の詰め所に変わった。親を亡くした子の帳面には、引き受ける大人の名が、三人ずつ入った。お滝のところには、大きな釜が届いた。蓋も、ついていた。
井戸役の弥助は、字を読めないまま、若い井戸役たちの、師匠になった。
「師匠では、ございませぬ」
本人は、毎回、そう言った。
「十三か所やった者を、師匠と呼ぶ決まりです」
与市が、毎回、答えた。
「十四か所目で、しくじりました。釣瓶の縄を、井戸に落としまして」
「しくじりを、知らせられる師匠は、得がたいのです」
与市が、妙に、いいことを言うようになった。長盛の天秤の前で、毎晩、帳面をつけているせいかもしれない。
その日の評議で、最後の流行の知らせが、読み上げられた。
「これをもちまして」
且元が、言った。
「疱瘡のための、臨時の評議を、閉じまする」
少し、間を置いた。
「閉じません」
且元の顔が、固まった。
「……臨時の評議は、閉じます。代わりに、《養生方》を、ずっと置きます」
町医者。井戸役。産婆。寺。町年寄。蔵の役人。それぞれから、決まった日に、知らせを上げる。流行のないときにも、井戸を見る。蓄えを確かめる。病人の増え減りを書く。
「何も起こらぬ年にも、病の備えを」
「はい」
「費えが、かかりまする」
「はい」
「何も起こらぬ年にも、でございますぞ」
「はい」
且元は、深く、息を吐いた。
「……商人たちに話すのが、難儀にございます」
「一緒に、行きます」
言ってから、且元の顔を見た。且元は、困ったように、首を横に振った。
「拾様がお出ましになれば、皆、断れませぬ」
「……じゃあ、行きません」
「話は、我らが」
「お願いします」
任せる。簡単な言葉だった。難しい行いだった。
自分が行けば、早い。自分が言えば、通る。だが、それを続ければ、また、秀頼がいなければ回らない家になる。倒れた三日の間、城は、止まらなかった。あれを、たまたまで終わらせては、いけなかった。
「病のときに、秀頼のところに集まった決め事を、町に、戻します」
治長が、聞いた。
「どこへ」
「決まりの中へ」
井戸をしばらく止めるかどうかは、町役と医者で決める。米を少し出すのは、蔵の役人と町年寄で決める。病人の小屋を開けるのは、病人の数が線を越えたら、ひとりでに始める。秀頼の許しを、待たない。
「拾様に、知らせる前に、動くのでござるか」
治長が、確かめた。反対役の顔だった。
「はい」
「誤りましたら」
「あとで、直します」
「責めは、誰が」
「決まりに従って動いた人を、罰しません」
治長は、長く、黙った。
この男には、難しいことだった。治長は、淀殿を守るために、何でも、先回りして、確かめたがる。確かめないで動くのは、落ち着かない。
だが、病のときには、間違えないことより、遅れないことの方が、大事なときがある。
「知らせてきた間違いを、隠した手柄より、高く、買います」
治長は、目を閉じた。しばらくして、開けた。
「……戦場と、同じにござるな」
「戦場」
「しくじりを申せば叱られる陣では、皆が隠しまする。隠されたしくじりで、次の戦に、負けまする」
治長は、扇を、ぱちりと閉じた。
「承知。……ただし、拙者は、反対役として、毎月、一つずつ、この決まりの穴を、申し上げまする」
「お願いします」
「穴が、なければ」
「ないとは、思えない」
治長は、少し笑った。
七日後、且元が、商人たちとの話から、戻ってきた。
「……まとまりましてござる」
「どうやって」
且元は、少し困った顔をした。
「はじめは、皆、渋っておりました。何も起きぬ年に、銭を出すのか、と。そこへ、清め役の佐助が、たまたま、通りかかりましてな」
「たまたま」
「たまたま、にございます。……柄杓を持っておりました」
嫌な予感がした。
「佐助が、申したのでございます。《旦那方。流行のとき、わしの柄杓で、手を洗うたお方が、この中に、何人おられまするか》と」
商人の半分以上が、目を逸らしたという。
「病のさなかに、息子や娘を小屋に預けた商人も、おりました。……そこから先は、話が、早うございました」
且元は、肩の力を抜いた。
「拾様が行かれたら、皆、断れなんだ。佐助が行ったら、皆、断らなんだ。……同じようで、違いまするな」
「うん。全然、違う」
その日の夕方、淀殿に、呼ばれた。
母の部屋には、北の小屋へ届けたものと同じ手拭いが、一枚、きれいに畳んで置いてあった。城から送り出す布の見本として、残してあるのだという。
「町で」
母は、言った。
「秀頼様が、疱瘡を退けた、と、申しておるそうです」
「退けてません」
「民は、そう、思いたいのです」
「困ります」
「なぜ」
「次も、秀頼が退けると、思われます」
淀殿は、少しだけ、笑った。
「天下人とは、そういうものです」
「なりたく、ないです」
「殿下も、はじめは、そう申されたやもしれませぬ」
胸が、少し、冷えた。
秀吉も、はじめから、全部を自分で決めたかったわけでは、ないのかもしれない。頼られた。当てにされた。うまくいった。また、頼られた。その繰り返しで、誰にも代われない天下人になった。
秀頼も、同じ道の上にいた。
「母上。秀頼が病を退けた、という話を、止めてください」
「止まりませぬ」
「……じゃあ」
考えた。英雄の話を、打ち消すだけでは、人は、聞かない。別の話が、要る。
「町の人が、町を守った、と、伝えてください。医者。産婆。井戸役。寺。看る者。清め役。運んだ人たち」
「秀頼ではなく」
「はい」
「民は、あなたの名を、求めまする」
「なら」
言った。
「秀頼の名も、その中の、一つに、してください」
真ん中ではなく。並んだ名の、一つとして。
淀殿は、長く、黙っていた。畳んだ手拭いに、そっと、手を置いた。
「……難しい、望みです」
「分かってます」
「英雄に、ならぬことは」
母は、言った。
「英雄になるより、難しいのかも、しれませぬ」
それから、母は、付け加えた。
「わたくしの名も、その中の、一つに」
「……茶々、って、書いてありました」
「あれは、与市が、勝手に」
「消しますか」
「……消しませぬ」
母は、扇で、口元を隠した。
その夜、城下の知らせが、届いた。
新しい病人、零。おかしな井戸、二つ。親を亡くした子の、引き受ける大人の決まった割合、九十四。養生方の、人の揃い具合、八十一。
そして、数字が、開いた。
【主人公依存度 61 → 54】
【国の強さの測り方 更新】
前:敵を倒し、領地を保つ家
今:危うさのあとにも、人と決まりが残る家
静かに、息を吐いた。
戦に勝ったわけではない。領地を増やしたわけでもない。家康を弱らせても、いない。病人を書き留めた。井戸をさらった。親を亡くした子に、大人を三人つけた。しくじりを、知らせられる仕組みを作った。そして、秀頼が寝ている間に、城が、回った。
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.8% → 94.1%
生き残る家とは、滅びない家ではない。病も、飢えも、戦も、起きる。人も、死ぬ。しくじりもする。それでも、次の日に、井戸をさらう者がいる。粥を炊く者がいる。間違いを知らせる者がいる。子供の手を取る者がいる。
家が、もう一度、動き出す。その力を持つ家のことだった。
灯りを消そうとしたとき、見慣れない数字が、一つ、開いた。
【新しい人物が近づいています】
真田信繁
いる場所:紀伊国 九度山(父・昌幸とともに押し込め)
軍略 97
後の世で語り草になる度合い 82%
会うまで およそ九十日
目を、閉じた。
真田信繁。前の世では、真田幸村の名で、誰もが知っている男。大坂の陣で、徳川の本陣に三度突っ込んだ男。そして、大坂城と一緒に、死ぬ男。
「……来ないで」
誰もいない部屋で、呟いた。
九度山に押し込められている男が、どうやって大坂に来るのか、分からなかった。分からないのに、数字は、減っていった。
【会うまで およそ八十九日】
「減るの、早くない!?」
障子の外で、弥七が、びくりとした気配がした。
病の次は、伝説の武将だった。豊臣家の帳面の、一番危うい頁が、静かに、めくられようとしていた。




