第143話 生存帳
【豊臣家滅亡まで 残り3,766日】
最後の病人の熱が下がってから、二十一日。新しく熱を出した者は、いなかった。
道悦が、見届帳の最後の一枚に、朱で線を引いた。
「……終わりに、ございまする」
その朝、千姫の部屋の障子が、開いた。
二か月ぶりだった。千姫は、両腕に木馬を二頭抱えて、廊下に飛び出してきた。そして、秀頼の前で、急に止まった。
「……殿」
「うん」
「痩せられました」
「千も」
千姫は、木馬を一頭、秀頼に押しつけた。秀忠の、鞍のある方だった。
「門番の、お役目、終わりにございます」
「ご苦労さま」
千姫は、それから、急に顔を歪めて、泣き出した。
「殿が、倒れられたと、聞きました。……障子の外で、侍女たちが、疱瘡やもしれぬと」
「疱瘡じゃ、なかった」
「知っておりまする。……でも、三日、分かりませなんだ」
千姫は、袖で、顔をこすった。
「三日、木馬に、お願いしておりました。蹴ってくれ、と」
「何を」
「病を」
笑った。千姫も、泣きながら、少し笑った。
城下でも、店が開いた。船が戻った。寺の鐘が、亡くなった者のためではなく、朝を知らせるために、鳴った。
人々は、元に戻ろうとしていた。
秀頼は、元に、戻したくなかった。
評議で、与市が、最後のまとめを読み上げた。
「見つかった病人、千八百七十二。亡くなった者、四百二十。親を亡くした子、七十四。看病のうちに病んだ者、百三十六。札をつけ直した井戸、八十九。病人を分けた小屋、十二」
数字が、並んだ。
戦なら、四百二十人は、小さな合戦と呼ばれるかもしれない。だが、敵の首はない。勝ち鬨もない。領地も増えない。ただ、家族が、減った。
家来の一人が、聞いた。
「豊臣家の、損は、いかほどで」
与市が、答えかけた。銀。米。止まった商い。減った年貢。
「違います」
口を挟んだ。与市が、こちらを見た。
「四百二十人です」
「……人を、損、として」
「数えます」
人を、銀に換えるつもりはない。だが、銀だけを損と呼べば、亡くなった者は、帳面から消える。
「国の強さを、測り直します」
ざわめきが起きた。
これまで、国の強さは、石高、兵の数、城、鉄砲、金銀、大名との縁組で、測られていた。全部、要る。だが、足りない。
「子供が、何人、生まれて」
評議の間が、静まった。
「何人、五つまで、生きて」
与市の筆が、止まった。
「何人、親を、亡くして」
且元が、顔を上げた。
「病人が、何日で、医者のところにたどり着いて」
治長が、腕を組んだ。
「井戸が、何軒に一つあって。飢えたときに、何日分の米を、配れるか」
誰も、笑わなかった。
「それも、国の強さです」
治長が、ゆっくり、言った。
「……兵を養うため、では、なく」
「人を、生かすためです」
「人が生きれば、兵も、商人も、百姓も、増えまする」
「結果としては、そうなります」
「では、国の力を増すための策、にございますな」
治長らしかった。間違っては、いない。だが、順番が、違った。
「国を強くするために、人を生かすんじゃ、ありません。人が生きるために、国を強くするんです」
長い、沈黙があった。
その沈黙を破ったのは、評議の間にいない男たちだった。
肥後の清正と、安芸の正則に、流行のまとめを送ったのは、ひと月前だった。二人の返事が、その朝、ちょうど、揃って届いていた。
清正の書状は、四行だった。
《城も同じ》
《城を守るために兵がおるのではない》
《兵と民が帰る場所を守るために、城がある》
《土は見たか》
いつもの四行目に、少し笑った。
正則の書状は、長かった。長くて、字が大きくて、途中で墨が何度も切れていた。要点は、一つだった。
《ならば、酒蔵も、国の力なり。兵と民が、帰りとうなる》
治長が、ぼそりと言った。
「……酒の運上も、入りまする」
向きは違ったが、二人とも、本気だった。
「酒の飲みすぎで、倒れた人の数も、測ります」
治長が、書状を、そっと畳んだ。
「……正則殿には、そのまま、お伝えいたしまする」
「横暴だ、って、返ってくると思う」
「左様にございますな」
少しだけ、評議の間に、笑いが戻った。
評議が終わりかけたとき、且元が、帳面を閉じて、言った。
「拾様。この二月の費えを、まとめて、一つだけ、分かったことがございます」
「なに」
「銀が一番役に立ったのは、薬でも、米でもございませなんだ。……運ぶ者と、看る者に出した、粥と、銭でございました」
且元は、自分の書いた数字を、指でなぞった。
「人が逃げずに、そこにおった。それが、一番、効き申した」
国の蔵を預かる男の言葉だった。
その日、新しい帳面を作った。
《生存帳》
生まれた者。亡くなった者。年。病。親を亡くした子。井戸。蓄え。医者。産婆。火事。大水。
全部を、一冊に詰めるわけではない。町ごとに書き留めて、月ごとに、集める。
「拾様が、すべて、ご覧になるのでございまするか」
与市が、聞いた。
「見ない」
与市が、目を見開いた。
「大事な数だけ、評議に、上げてもらいます」
「大事かどうかを、誰が」
「線を、決めます」
生まれる子が、急に減った。亡くなる者が、増えた。井戸が、使えない。米の値が、上がった。医者が、足りない。決めた線を越えたら、ひとりでに、知らせが来る。
秀頼が見つけるのではない。仕組みが、知らせる。
ただし、紙は、人が運ぶ。雨なら遅れる。字を間違える。書く者が病めば、止まる。
だから、代わりの者を決める。二つ、書き留める。受け取った印を、残す。地味だった。とてつもなく、地味だった。だが、国は、地味な仕事で、生きていた。
【豊臣家 国の評価】
財 S
戦う力 B
よその家とのつきあい C
政の回し方 C
病を防ぐ力 D → C
人が生き延びやすいこと E → D
そして、新しい項目が、増えていた。
【五つまで生きる子の割合 測れず】
測れず。今まで、誰も、ちゃんと数えていなかった、ということだった。
「……いつつまで、いきる、こどもが、どれだけ、いるか。だれも、かぞえて、ない」
呟くと、与市が、筆を置いた。
「数えます」
与市が、頷いた。
「……二十年ほど、かかりましょう」
「長いね」
「国の強さを測るのなら」
与市は、言った。
「一つの合戦より、長いものに、ございましょう」
長盛が言いそうな言葉だった。与市は、長盛の天秤を、今も、自分の机に置いていた。
その夜、玄朔の部屋に、《生存帳》の最初の頁を、持っていった。
玄朔は、寝床の中で、紙を、目の前にかざした。手が、少し、震えていた。
「……生まれた者、亡くなった者、五つまで生きた者」
「うん」
「わしが、若い頃から、作りたかった帳面でござる」
玄朔は、紙を、胸の上に置いた。
「医者の帳面より先に、国の帳面が、でき申したな」
「医者の帳面も、あります。見届帳」
「あれは、道悦のものでござる」
玄朔は、目を閉じた。
「わしの弟子も、ようやく帳面を書く癖が身につき申した。……拾様。わしが死んだら、わしの名も、この帳面の、亡くなった者の欄に、書いてくだされ。年と、病と、それから」
「それから」
「何を、変えたか」
玄朔は、それきり、眠ってしまった。胸の上の紙が、寝息に合わせて、小さく、上下していた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.2% → 94.8%
その夕方、千姫と、天守に上った。
千姫は、秀忠の木馬を、欄干の上に乗せた。木馬にも、町を見せてやりたいのだという。
大坂の町の屋根が、夕日に、赤く光っていた。
初めて、城下を、戦のための場所ではなく、生きている人の集まりとして、見た気がした。屋根の一つ一つに、暮らしがあった。病む者。子を産む者。老いる者。働く者。帰る者。
さよは、船場の寺に、引き取られた。寺の小僧たちと一緒に、字を習い始めたと、円海から聞いた。与吉の名を、自分で書けるようになりたいのだという。
「殿」
千姫が、屋根を指さした。
「あの屋根の下にも、誰か、おりまするか」
「いるよ」
「生きて、おりまするか」
「……うん。たぶん」
「たぶん」
「だから、数えるんだ」
千姫は、少し考えてから、木馬の頭を、町の方に向け直した。
国の強さとは、その人たちを、何人、戦場に送れるかではない。その人たちが、戦場に行かずにすむ日を、どれだけ長く、続けられるかだった。




