第142話 名もなき者、零
【豊臣家滅亡まで 残り3,811日】
目を開けると、天井が、見えた。
自分の部屋の天井ではなかった。奥の、小さな部屋。前に、玄朔が、病人を分けるために使えと言っていた部屋だった。
額に、冷たい布が、のっていた。
誰かが、手を握っていた。
「……ははうえ」
声が、かすれた。
淀殿だった。奥御殿で働く人々の差配を続けてきた母が、今は秀頼の枕元に座っていた。
「動くでない」
「小屋は」
「小野と、おくにに任せてあります。今朝も米と薪を届けさせました」
「ははうえは、ずっと城に?」
「ええ。城から出ずとも、することは山ほどございます」
母は、真顔で付け加えた。
「佐助には、手を洗え、着物を替えよと、何度も言われました。……あの船頭は、わたくしの顔を知らぬのでしょうか」
「知ってて、言ってると、思います」
「でしょうね」
母は、少しだけ、笑った。それから、布を取り替えた。
「三日目です」
「三日」
「あなたは、三日、目を覚ましませなんだ」
その間のことを、あとから、少しずつ、聞いた。
秀頼が廊下で倒れたとき、弥七が、叫んだ。与市が、医者を呼びに走った。道悦が来て、脈を取って、熱を見て、青くなった。
疱瘡かもしれない。
城じゅうが、凍りついた。治長は、廊下で、柱に額をつけて、動かなくなったという。且元は、評議の間で、何も言わずに、帳面を開いたまま、一刻、座っていたという。千姫は、障子の前の木馬を、二頭とも、秀頼の部屋の方へ向け直したという。
一日目、疱は、出なかった。二日目も、出なかった。三日目の朝、道悦が、口の中を見て、手のひらを見て、背中を見て、長い息を吐いた。
「疱瘡では、ございませぬ」
淀殿は、そのとき、道悦の前で、初めて、声を上げて、泣いたという。
「……では、何の病じゃ」
「疲れにござる」
道悦は、はっきり言った。
「三日、寝ずに、食わずに、名簿を分けておられた。十の子の体が、もたぬのは、当たり前にございます」
その話を、道悦から聞いたとき、恥ずかしくて、布団に顔を埋めた。
「……ごめんなさい」
淀殿は、首を横に振った。
「謝るのは、わたくしにでは、ございませぬ」
「じゃあ、誰に」
「あなたの体に」
母は、秀頼の手を、両手で、包んだ。
「あなたは、皆に、休めと、申します。看る者に。清め役に。井戸役に。……ならば、なぜ、あなただけ、休まぬのです」
答えられなかった。
封印スキルの空欄が、視界の端で、瞬いた。
劉禅だったころ、休んだ日を、木簡に書き続けた。《私の、休んだ日》。四十八年で、年に四日。丞相に休めと言い続けた男の、休んだ日の数だった。
【封印スキル:???】
[解放条件:託された者が、――を休ませること]
空欄の中で、文字が、一画だけ、浮かびかけた気がした。すぐに、消えた。
「……休みなさい」
淀殿が、言った。
「はい」
「今度は、努めます、ではなく」
「……休みます」
そして、休んでいた三日の間のことを、与市が、帳面を持って、話しに来た。
驚いたことに、城も、町も、止まっていなかった。
井戸の赤い札を外すかどうかは、町役と医者で、決めていた。小屋の病人の粥の数は、焼き味噌の太郎が、台所の帳面で、回していた。辻の札の数は、与市が、毎朝、書き換えていた。親を亡くした子の引き受け手は、且元が、寺と商家を回って、十九人、決めていた。
「拾様に、お伺いを立てられませぬゆえ、決まりに書いてあるとおりに、いたしました」
与市は、少し、得意そうだった。
「決まりに、書いてないことは」
「三人で決めて、不明と、書きました」
帳面を開くと、ところどころに、《不明 三人で決める 与市・且元・治長》と書いてあった。
そして、もう一つ。
褒美の話が、まとまっていた。
「病の中で働いた者に、褒美を出したい、と、拾様は、前に申されておりました」
「うん」
「どう決めるかで、揉めましてござる」
医者なら、診た病人の数。町役なら、受け持った家の数。井戸役なら、さらった井戸の数。数にはできる。だが、一番つらい家に、一番長く通った者を、どう測るか。誰も見ていない夜に、逃げなかったことを、どう確かめるか。
「治長様は、自分で申し出させよと。且元様は、それでは偽りが出ると。治長様が、では、近所に聞けと。且元様が、それでは、好かれておる者だけが得をすると」
「……それで」
「拙者が、申しました」
与市は、帳面の一枚を、見せた。
《決まった務めを果たした者、皆に、同じ褒美》
《とりわけの働きは、別に書く》
《書くかどうかは、町役、医者、寺、病人の家族、四つで確かめる》
「……与市が、決めたの」
「はい。……拾様なら、こう申されると、思いましたゆえ」
胸の中で、何かが、ゆっくり、ほどけた。
【主人公依存度 68 → 61】
数字が、下がっていた。秀頼が寝ている間に。
褒美の日は、流行が始まって、四十七日目だった。新しい病人は、一日三人まで、減っていた。
大坂城の大広間に、侍ではない人たちが、集まった。髪の白い産婆。指の荒れた洗濯の女。背の曲がった井戸役。寺の小僧。荷車を引く男。片腕の、元の足軽。
名を呼ばれるたびに、本人が、まわりを見回した。自分のことではないと、思っているのだった。
「船場、井戸役、弥助」
「へ、へい」
弥助は、広間の真ん中まで出てきて、額を床につけた。
「顔を、上げてください」
上げなかった。
「弥助さん」
「恐れ多う、ございまする」
「井戸を、十三か所、さらいましたね」
「務めに、ございます」
「病人の家に、水も、運びました」
「近うございましたもので」
「火が出た家から、二人、助け出しました」
「火が出ましたゆえ」
「あなたも、熱を、出しました」
「寝たら、治りました」
全部、本人にとっては、大したことでは、ないらしかった。
「豊臣家は、あなたたちの名を、書き留めます」
弥助が、初めて、顔を上げた。
「わしの、名を」
「はい」
「……何に、使われまする」
「次の流行のときに、教える側に、なってください」
「わしは、字が、読めませぬ」
「読めなくても、井戸は、さらえます。十三か所やった人より、うまく教えられる人は、いません」
弥助は、泣いた。なぜ泣いたのか、分からなかった。銀か。名を呼ばれたことか。自分の仕事が、次に残ると知ったことか。全部かも、しれなかった。
お滝も、呼ばれた。病んだ母親のお産を手伝い、母を亡くした赤子に乳をくれる女を、町じゅう探して回った。
「褒美は、要りませぬ」
「じゃあ、何が、要りますか」
「湯を沸かす、釜を」
「釜」
「毎度、借りるのが、難儀で」
笑いそうになって、笑えなかった。国は、手柄を立てた者に、名誉を与えたがる。現場は、次の仕事に要る道具を、求める。
「大きいのを、出します」
「蓋も」
「蓋も」
横から、与市が、身を乗り出した。
「寸法は、いかほどで」
お滝と与市が、釜の大きさの話を始めた。褒美の場が、買い物の相談になった。
それで、よかった。名誉だけで、次の命は、救えない。
最後に、亡くなった者を運んだ人たちが、呼ばれた。広間に入るのを、ためらっていた。自分たちは、穢れた仕事をしたと。
「亡くなった人を、捨てたんじゃ、ありません。家族のもとから、弔いの場所まで、運んだんです」
「……されど」
「誰かがしなければ、町に、亡骸が残りました。あなたたちが、町を守ったんです」
一人の男が、震える声で、言った。
「……名を、残して、くださいまするか」
「残します」
【病の中で働いた者 書き留め】
医者 29
僧・寺の役 38
産婆・看る者 74
井戸・掃除・運び 112
名もなき者 0
最後の数字を見て、首をかしげた。零。全員の名を、書き留めたからだった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.5% → 95.2%
褒美の場が終わってから、淀殿が、秀頼の横に来た。
「……これほど多くの者が、名を残したのですね」
「母上の名も、入ってます」
淀殿は、眉を上げた。与市が、急いで帳面を開いて見せた。働いた人々の名を集めた頁の、奥御殿の支え手の欄だった。
《茶々 奥御殿 三夜 小屋へ米と布を送り、人手を整える》
淀殿は、長いこと、その字を見ていた。
「……茶々、と、書いたのは、誰です」
「拙者にございます」
与市が、震える声で言った。
「看る者だけでなく、看る者を支えた方の名も、残そうと思いまして。……御名で、ございましょう」
淀殿は、扇で、顔を隠した。今度は、耳だけではなく、首まで、赤かった。




