第141話 姉でいて
【豊臣家滅亡まで 残り3,815日】
北の病人小屋には、子供が、多かった。
大人より、顔に出る。怖い。痛い。母に会いたい。水が欲しい。眠れない。全部が、声になる。夜になると、その声が、小屋の外の松の木の下まで、聞こえてきた。
母の命で、城の女房衆が小屋を手伝い始めて、三日目の朝。弥七と、道悦と、三人で、小屋の入り口まで行った。
一人では、行かない。約束は、守った。
入り口の手前で、佐助が、柄杓を持って、待っていた。
「若様。お手を」
洗った。佐助は、指の間まで見てから、ようやく、頷いた。淀殿の真似をしているのかと思った。
道悦が、簾の前で、秀頼の袖を引いた。
「拾様。ここより内へは、お入りになりませぬよう」
「分かってる」
分かっていた。秀頼は、罹ったことがない。秀頼が罹れば、豊臣家が、傾く。秀頼の体は、もう、秀頼一人のものではなかった。それに、秀頼が病を運ぶかもしれない。英雄ぶった見舞いは、ただの迷惑になりうる。
「ここから、話します」
簾の向こうで、子供たちが、こちらを見た。顔に布をかけた子。目を腫らした子。まだ、疱の少ない子。
その奥に、小野がいた。
袖を襷で高く括り、髪を布で覆っていた。桶の水で手拭いを絞り、幼い子の額にのせている。
奥御殿で母に仕えてきた女房が、今は町の子の汗を拭っていた。脇には、城から運ばせた替えの布が積まれている。
小野は秀頼に気づくと、軽く頭を下げた。それからすぐ、子供の方を向いた。病人の前では、礼を尽くす暇さえ惜しかった。
簾の近くに、十ばかりの女の子が、座っていた。弟の手を、握っていた。弟は、七つくらい。顔じゅうに、疱が出ていた。
「……母上は」
女の子が、聞いた。
「母上は、どこに、おられますか」
「別の小屋に、います」
「生きて、おりますか」
道悦を見た。道悦は、目を伏せた。
昨日の夜、亡くなっていた。名簿で、名を読んだばかりだった。
言葉を探した。前の世では、悪い知らせを伝えるとき、人は、よく、遠回しに言った。だが、子供は、大人の曖昧さを見抜く。
「昨日、亡くなりました」
女の子は、泣かなかった。弟の手を、強く、握った。
「……では」
「うん」
「わたくしが、この子の、母に、なります」
その言葉が、胸に、刺さった。
十の子供が、弟の母になろうとしている。国が、その重さを、子供に押しつけている。
「あなたは」
言った。
「姉で、いてください」
女の子が、顔を上げた。
「母の代わりは、大人たちが、します」
言った瞬間、自分の言葉が、大きすぎると、分かった。大人たち。誰だ。誰が、この子たちを育てる。小屋を出たあと、家も、親も、食べるあてもない子供たちを。医者は、病を治せる。だが、そのあとの暮らしまでは、治せない。
簾の向こうで、小野の手が止まった。
「名は」
小野が、女の子に聞いた。
「……さよ、と申します。弟は、与吉」
「さよ」
小野は、さよの隣に膝をついた。
「若様のおっしゃるとおりです。あなたが、母の代わりをせずともよいのです」
「……でも、与吉は、わたくしがいないと」
「姉として、手を握ってあげてください。泣きたくなったら、泣きなさい。粥を運ぶことも、夜に起きて看ることも、大人がいたします」
小野は、さよの小さな手を、自分の両手で包んだ。
「今夜は、わたくしがおります。明日のことも、必ず誰かと決めておきます。あなた一人に、背負わせません」
さよは、そこで初めて、泣いた。
その日のうちに、親を亡くした子の名簿を、作らせた。与市が、筆を持った。
「子らを、一つところに集めますと、病が、かえって広がりまする」
「集めない」
「では」
「町ごとに、引き受ける人を、決めます。親族。隣の家。寺。商家。武家。一人の善い心に、任せない。食べ物。着る物。薬。学び。働き口。いるものを、分けて、持つ」
与市が、頷きながら、書いた。
「子供一人に、大人を、三人、書いてください」
「三人」
「引き受ける人。見届ける町役。困ったときに相談する、寺か、医者」
「一人が逃げても」
「二人、残る」
「二人が揉めても」
「三人目が、見る」
与市は、筆を止めた。
「……三人とも、逃げましたら」
「決まりを作った人が、泣きます」
与市は、真顔で、書いた。
《三人とも逃げたとき、選び直す》
そうじゃない。だが、要った。
昼過ぎ、佐助が、小屋から、戻ってきた。手に、小さな包みを持っていた。
「若様。千姫様から、小屋の子らに、と」
包みを開くと、手拭いが、十本あった。全部に、木馬の刺繍が入っていた。前のものより、ずっと、形が揃っていた。部屋の中で、ずっと縫っていたのだろう。
「……一本ずつ、渡して」
佐助が、簾の中の小野に、包みを渡した。小野が、子供たちに、一本ずつ配った。
さよは、手拭いの木馬を、しばらく、指でなぞっていた。
「……馬でございますか」
「うん。木の馬。千姫っていう、七つの姫が、縫った」
「姫様が」
「部屋から出られないから、縫ってた。門番の馬なんだって。病が来たら、蹴るんだって」
さよは、手拭いを、与吉の額に、のせた。
「……蹴って、くださいまし」
小さな声だった。
夕方、小屋から、知らせが来た。与吉の息が、急に、苦しくなった。
道悦が、白湯を少しずつ含ませた。体を起こした。息の具合を確かめた。小野が、背中をさすった。できることは、少なかった。
簾の外で、待った。弥七が、隣に立っていた。日が暮れた。松の木の影が、長くなって、消えた。
夜になって、道悦が、出てきた。首を、横に振った。
与吉は、死んだ。
さよは、弟の手を、離さなかった。
「……わたくし、母になると、申しましたのに」
答えられなかった。
決まりを作っても、間に合わない命がある。前の世のことを知っていても、救えない。豊臣家の金があっても、救えない。
小野が、さよを後ろから抱いていた。何も言わなかった。ただ、さよの手を、自分の手で包んでいた。
夜じゅう、誰かが、手を握っていた。
母は城の奥にいる。そこから来た小野が、今、この子のそばにいる。
城を出ない母の手も、確かに、ここまで届いていた。
さよが、簾の方を見た。
「……若様」
「はい」
「弟の名を、書いて、くださいまし」
頷いた。
名を、聞いた。紙に、書いた。与吉。七つ。熱の出た日。亡くなった日。姉の名、さよ。母の名、しの。父は、去年、川の普請で、亡くなっていた。
一つの家が、消えた。歴史の本には、載らない。戦の勝ち負けにも、石高にも、何も響かない。それでも、国が守るべきものだった。
【疱瘡の流行 亡くなった者】
大人 131
子供 108
【親を亡くした子供 51】
【引き受ける大人が決まった割合 0%】
数字は、今日から、上げられる。亡くなった者は、戻らない。
与吉の名を書いた紙を、名簿の一番上に置いた。《この死から、何を変えたか》の欄には、《子供一人に、大人三人》と書いた。
小屋を離れるとき、小野が、簾の内から、声をかけてきた。
「拾様。お袋様から、お言付けが届いております」
「なに」
「《秀頼に、寝よと伝えよ》と」
「……ははうえは、寝てるの」
小野は、少し、黙った。
「奥御殿では、明日の粥と布の算段を続けておいでと聞いております」
「じゃあ、ははうえに、先に寝てって、伝えて」
「お伝えいたします。……お二人とも、同じことを申されますな」
小野は、困ったように、笑った。
屋敷に戻ったのは、夜更けだった。そのまま、名簿を、町ごとに分け始めた。引き受ける家の候補を、書き出した。明け方に、与市が来て、続きを引き取ろうとした。
「拾様。三日、お休みになっておられませぬ」
「あと、少し」
「昨日も、そう仰せでした」
「昨日の、少しは、終わった」
与市は、困った顔をした。
そのとき、封印スキルの空欄が、また、瞬いた。いつもより、長く。
見ないふりをした。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.4% → 95.5%
朝の評議に出ようとして、立ち上がった。
廊下が、斜めに、傾いた。
弥七の声が、遠くで聞こえた。与市が、何かを叫んでいた。額が、ひどく、熱かった。
最後に思ったのは、手を洗わなければ、ということだった。




