第140話 見えない手柄
【豊臣家滅亡まで 残り3,823日】
流行が、少しずつ、下り坂に入った。
病人は、まだ増えている。だが、増え方が、鈍くなった。一日に四十人増えていたのが、二十人。十五人。十一人。
数字だけ見れば、良くなっている。
だが、町の者には、そうは見えなかった。今日も、誰かが熱を出す。今日も、誰かの顔に、疱が出る。今日も、寺の鐘が鳴る。
鐘が鳴るたびに、城に、同じ訴えが届いた。
「何も、良うなっておりませぬ」
「御触れは、何の役に立ったのでございますか」
「井戸を調べても、手を洗うても、死ぬではございませぬか」
その通りだった。死ぬ。どれだけ防いでも、全員は救えない。
そして、防いだおかげで助かった者は、自分が助かったことに、気づかない。病にならなかった者は、何もしなくても、病にならなかったと思う。
前の世でも、同じだった。うまくいった備えは、手柄が見えない。手柄の見えない仕事は、褒められない。褒められない仕事は、続かない。
且元が、帳面を抱えて入ってきた。
「井戸改めへの不満が、増えておりまする」
「わけは」
「井戸のまわりを掘り返したため、商いが止まった、と」
「何日」
「半日から、二日」
「その町で、亡くなった人は」
且元は、答えなかった。
分かっていた。二日の商い。一人の命。比べること自体が、むごい。だが、政は、比べなければならない。
「不満のある町に、井戸を止めた日数と、病人の増え減りを、見せてください」
「……分かってもらえましょうか」
「分かってもらえないかも、しれません。それでも、話さなければ」
話さない善い政は、ただの命令だった。命令は、命じた者がいなくなれば、終わる。
その日の昼、書院に、人を集めた。町年寄。医者。僧。産婆。井戸役。ごみを運ぶ者。病人の家に粥を届ける者。
侍は、ほとんどいなかった。治長が、入り口で、少し不満そうな顔をした。
「……政の集まりに、これほど、侍がおらぬのは」
「これも、政だよ」
「されど」
「国が、人を生かす仕事を、政と呼ばないで、何と呼ぶの」
治長は、口を閉じた。それから、自分も、一番端に座った。
絵図を、二枚、広げた。
一枚目。何もしなかったとしたら、どうなっていたかの、推し量り。二枚目。井戸を分けて、看る者を決めて、着物を干して、人の行き来を減らした町の、本当の数。
差は、小さかった。だが、確かに、あった。
「この差が、救われた人です」
町年寄の一人が、目を細めた。
「名は」
「分かりません」
「何人で」
「はっきりとは、分かりません」
「では、なぜ、救われたと言えまする」
難しい問いだった。前の世の言葉が、頭の中で、いくつも浮かんでは、消えた。どれも、この部屋では、役に立たなかった。
「同じ頃に、同じような家が並んで、同じような井戸を使っていた二つの町で、決まりを守った町の方が、病人の増え方が、少なかったんです」
「たまたま、では」
「たまたま、かもしれません」
ざわめきが起きた。与市が、帳面から顔を上げて、こちらを見た。
「だから、書き留めを、続けます。一度うまくいったことを、奇跡にしない。一度しくじったことを、呪いにしない。何度も、比べる」
医者の一人が、静かに言った。
「……治すのではなく」
「はい」
「病まぬ者を、増やす」
「はい」
円海が、首をかしげた。
「病まなんだ者は、寺に、礼を言いには、参りませぬな」
「来ません」
「功徳が、見えませぬ」
「見えません」
お滝が、笑った。
「難儀な仕事で、ございますな」
「うん。難儀です」
治すのは、目の前の病人が良くなれば、ありがたがられる。防ぐのは、何も起きなければ、何もしていないように見える。
それでも、やる。
「病が終わっても、井戸改めは、続けます」
町年寄たちの顔が、曇った。
「疱瘡が、終わりましても」
「はい」
「なぜ」
「次の病が、来るからです」
誰かが、小さく、息を呑んだ。流行が終われば、元に戻る。それが、当たり前だった。
元には、戻さない。疱瘡を、一度きりの災いで終わらせない。次のための、仕組みにする。
お滝が、帰り支度をしながら、ぽつりと言った。
「……手を洗うようになってから、お産のあとで熱を出す母親が、減った気がいたします」
「本当?」
「気が、するだけでございます」
お滝は、首を横に振った。
「数えては、おりませぬ。……されど、次からは、小野様に、書いていただきまする」
気がする、を、数に変える。それが、防ぐ仕事の、最初の一歩だった。
【病を防ぐ決まり】
その場しのぎ → いつも置くための支度
町の者の分かっている度合い 18%
この決まりが続く見込み 7%
低かった。あまりにも、低かった。
「……治すより、難しいじゃないか」
思わず、声に出た。与市が、帳面から顔を上げずに、言った。
「長盛様が、よう申しておられました。算盤より、人を頷かせる方が、ずっと重い、と」
いなくなった人の言葉が、ここでも、役に立っていた。
帰りかけた井戸役の年寄りが、振り返って、言った。
「……若様。わしらの仕事も、見えぬ手柄で、ございますな」
「うん」
「井戸がきれいなら、誰も、井戸役のことなど、思い出しませぬ」
「うん」
年寄りは、少し寂しそうに、笑った。
そのとき、与市が、手を挙げた。
「拾様。……見えぬ手柄を、見えるようにする帳面を、作ってはいかがで」
「どうやって」
「起きなんだことを、書くのでございます」
与市は、帳面の新しい頁に、書いてみせた。
《赤札をかけた井戸のまわり 下り腹 この十日 出ず》
《清め役のいる小屋 看る者の病 この十日 一人》
「起きなかったことは、数えられませぬ。されど、前と比べることは、できまする」
井戸役の年寄りが、その字を、じっと見ていた。字は、読めないはずだった。
「……何と、書いてございまする」
与市が、読んで聞かせた。年寄りは、黙って、頭を下げた。
《起きなかったことの帳》。その日のうちに、表紙が、ついた。
集まりが終わって、皆が帰りかけたとき、北の小屋から文が届いた。おくにの熱が下がり、顔の疱も乾き始めたという。文の末には、本人の言葉が書き添えられていた。
《子らが泣いております。治りましたら、また看る側へ戻らせてくださいまし》
「まだ、休ませて」
道悦が頷いた。
「疱のかさぶたがすっかり落ちるまでは、ほかの者に近づけませぬ」
お滝が、横から言った。
「一度かかって治った者は、同じ病にはかかりにくいと、昔から申します」
前の世でも、疱瘡から回復した者には強い守りが残ると知られていた。ただし、それを理由に休息や清潔をおろそかにはできない。
「戻る日を決めるのは、おくにじゃなく、体の具合と、道悦の見立てだよ」
子供たちを案じる気持ちまで、止めるつもりはなかった。
そして、その夜、分かった。
北の小屋では、看る者が、足りなくなっていた。熱を出した者。疲れて倒れた者。家族に止められて、来なくなった者。残った者は、三日、ほとんど寝ていなかった。
「前に疱瘡にかかって、治った者を、探してください」
小野に頼んだ。小野は、自分の腕に残る古い痕を見せて、頷いた。
「女房衆の中に、七人、ございまする」
「無理に、とは、言わないで。休む人の代わりも、決めて」
「承知しておりまする」
小野が、急ぎ足で、奥御殿へ向かった。
その晩遅く、弥七が、息を切らして戻ってきた。
「拾様。北の小屋に、七人のほか、もう一人、向かいました」
「八人目?」
「小野殿にございます。自ら世話役を引き受けられました」
「小野まで……。母上には、伝わっているの?」
弥七は、妙な顔をした。
「伝わっているどころでは、ございませぬ。お袋様が、奥御殿で皆の役目をお決めになったのでございます」
母が?
「お袋様は、城の外にはお出ましになりませぬ。けれど、御台所に米と味噌を出させ、蔵から替えの着物と手拭いを運ばせ、女房衆の留守を補う者まで、お決めになりました」
思わず、黙った。
淀殿は、戦場に立つことも、町の長屋に足を運ぶこともない。だから何もできない。秀頼は、いつの間にか、そう決めつけていたのかもしれない。
「お袋様から、お言葉を預かっております」
弥七は、姿勢を正した。
「《秀頼が病人の家に一人で行かぬと約したのなら、母も城を出ませぬ。その代わり、城におる者にしかできぬ支えをいたします。命じて終わりにせず、明日の粥まで見届けます》と」
母は、約束を守っていた。しかも、秀頼が考えつかなかった仕事を、引き受けていた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.4% → 95.4%
数字は、変わらなかった。
けれど、北の方角の暗い空に、今夜も灯りがともっている。その火を絶やさぬために、城の奥でも、誰かが働いている。
見えない手柄が、また一つ、増えた。




