第138話 赤札の井戸
第138話 赤札の井戸
【豊臣家滅亡まで 残り3,834日】
手を洗う人が増えると、今度は、水が足りなくなった。
船場。天満。堀江。城下のあちこちで、井戸の水が、下がった。汲む人が、増えたからだった。
そして、疱瘡とは別の病人も、増え始めた。ひどい下り腹。腹の痛み。吐き気。熱。疱瘡の病人の家族に、重なるように出ていた。
「……同じ病で、ございまするか」
町奉行が、青い顔で聞いた。
「たぶん、違います」
疱瘡の流行の中に、汚れた水の病が、重なっている。病人を一つところに集め、水をたくさん使い、汚れたものを近くに捨てれば、当然、起きることだった。
「城下の井戸を、全部、調べてください」
「全部、でございまするか」
「全部です」
「数百は、ございまするぞ」
「なら、数百です」
町奉行は、目を白黒させた。
「……何を、調べまする」
井戸だけではなかった。井戸のまわり。厠。ごみ穴。溝。染物屋。皮を扱う職人の家。馬屋。魚をさばく場所。亡くなった者を、しばらく置いておく場所。そして、雨が降ったとき、水がどちらへ流れるか。
「そこまで見れば、町の者が、怒りまする」
「どうして」
「商いを止めよと、申すことになりますゆえ」
正しかった。水をきれいにするのは、ただではない。染物屋に移れと言えば、商いが止まる。厠を作り直せと言えば、銭がかかる。ごみ穴を埋めれば、新しい捨て場が要る。
「命じるだけじゃ、動きませんね」
「左様」
紙に、書いた。
一、危ない井戸には、赤い札。
二、直せば使える井戸には、黄色い札。
三、まず心配のない井戸には、白い札。
ただし、白い札は、何があっても安全という証ではない。井戸の周りを調べた時点で、目立った危なさが見つからなかったというだけだ。白札でも、飲み水は煮て冷ます。赤札の水は、煮たからといって飲んでよいことにはしない。そのことも、札の脇に書き添えさせた。
「白い札の井戸を使う者から、銭は、取りまするか」
「取りません」
「手入れの費えは」
「まわりの町の組と、豊臣家とで、半分ずつ」
「赤い札の井戸の持ち主には」
「直す費えの一部を、貸します」
「返せぬ者は」
「井戸の番をして、働いて、返してもらいます」
町奉行は、秀頼を見た。
「……拾様は、何でも、仕事になさいますな」
褒められているのか、呆れられているのか、分からなかった。
調べが、始まった。
最初の井戸は、見た目は、きれいだった。石組み。蓋。釣瓶。どこにも、おかしなところはなかった。
だが、三間ほど上手に、長屋の厠があった。雨が降れば、汚れた水が、ゆっくり井戸の方へ流れてくる。
【井戸の汚れの危うさ 89】
赤い札が、かかった。
町の者たちが、集まって、怒った。
「先祖の代から、使うております」
「今まで、誰も、死んでおりませぬ」
「城は、水まで、取り上げるのか」
井戸を閉じる前に、代わりの水を運ぶ手筈を、整えた。桶一杯ごとに、どこからどこまで、何人で運んだかを、書かせた。
二日で、人足が、足りなくなった。
そこで、船着き場の、あの若い侍に、頼んだ。大水のとき、三百十二人を救うた数を、自分の字で書き入れた男だった。
若い侍は、浪人を、二十人、集めてきた。刀を差した男たちが、水桶を担ぐことになった。
初めは、文句が出た。
「武士のする仕事では、ござらぬ」
若い侍が、先に、答えた。
「人を守る仕事にござる」
「敵を斬るのでもなく」
「水を運ぶ方が、多く守れまする。……拙者は、大水の晩に、それを覚え申した」
浪人たちは、黙った。
次の日、若い侍は、肩を真っ赤に腫らしながら、また来た。浪人たちも、半分以上が、戻ってきた。
夕方、若い侍が、秀頼のところに来て、聞いた。
「拾様。……水を運んだ家の者は、救うた者の数に、入れてよろしゅうござるか」
「どう思う」
若い侍は、しばらく考えた。
「……分かりませぬ。運んだ水で、誰が助かったか、見えませぬゆえ」
「じゃあ、別の欄を作って」
「別の欄」
「《水を届けた家》。救うたかどうかは、分からない。でも、届けたことは、確かだから」
若い侍は、それを、自分の帳面に、書き足した。字は、二年前より、ずっと上手になっていた。
井戸役を募ると、最初に来たのは、左の袖が空っぽの男だった。三十を少し過ぎたくらいに見えた。
「……関ヶ原の年に、美濃で、腕を、なくし申した」
どちらの側で、とは、言わなかった。聞かなかった。
「戦で、何も、守れませなんだ。国元の母も、その冬に、死に申した。……片腕でも、井戸の蓋は、閉められまする」
男は、残った右手で、井戸の蓋を、持ち上げて見せた。重い木の蓋だった。
「雨のあとは、濁りを見る。朝は、蓋を確かめる。汲む順で揉めたら、止める。できる?」
「できまする」
「揉めてる人が、大きな男でも」
男は、少しだけ、笑った。
「戦場の大男に比べれば、長屋の大男は、かわいいものにござる」
その男は、天満の三つの井戸を、受け持つことになった。十日で、三つの井戸のまわりから、ごみが消えた。
井戸を調べると、病だけでなく、町の形が、見えてきた。
貧しい家ほど、白い札の井戸から、遠い。川の下の方ほど、溝が詰まる。城に近い町ほど、掃除の人足が多い。
水がきれいかどうかは、一人一人の心がけだけでは、決まらない。どこに住むか。いくら持っているか。町に、どれだけの力があるか。それで、決まる。
《井戸役》を、置くことにした。
井戸のまわりを掃除する。蓋を確かめる。雨のあとに、濁りを見る。病人が増えたら、知らせる。水を汲む順で揉めたら、止める。
地味な役だった。だが、数字は、こう出た。
【町の水を守る働き 高】
井戸役の多くは、年寄りだった。足を痛めた、元の人足。夫を亡くした女。戦で片腕をなくした、元の足軽。
戦場では、もう役に立たないと言われた人たちだった。だが、井戸の水は、守れた。
その晩、千姫が、障子越しに、聞いてきた。
「殿。白い札の井戸は、よい井戸でございますか」
「うん。今のところ」
「では、木馬にも、白い札を、つけとうございます」
「どうして」
「よい門番の、しるしでございます」
侍女が、紙を切って、小さな白い札を二枚、作ってくれたという。次の朝、障子の影の木馬の首に、白い札が、下がっていた。
赤い札をもらわないように、木馬たちは、前より少し、背筋を伸ばして見えた。
七日目、赤い札、二十八。黄色い札、六十一。白い札、百四十二。まだ調べていない井戸、三百あまり。
「全部終わるまで、何日かかりますか」
町奉行は、真顔で答えた。
「拾様が、新しい仕事を増やされなければ、四十日」
「増やしたら」
「終わりませぬ」
失礼だった。だが、たぶん、正しかった。
その日の夕方、下り腹の病人が多かった一角で、井戸を切り替えてから、新しい病人が、減り始めた。
【水にかかわる病 新しく出た数】
一日23人 → 一日11人
【わけと結果のつながり 確かめられず】
また、確かめられず。
だが、人は、確かめられるまで、待っていられないことがある。害が少なく、筋が通り、あとで直せるなら、先に動く。
まだ日が残っていたので、白い札の井戸を見に行った。
井戸役が蓋を開け、縄と釣瓶を確かめている。隣では、町の女が、小さな釜に湯を沸かしていた。
「若様。白い札がついた井戸なら、そのまま飲んでもよろしいので?」
人垣の中から、声が上がった。
「いいえ。白い札は、今のところ、周りに大きな危なさが見つかっていないという印です。飲む水は、煮てからにしてください」
「……若様も?」
「秀頼も、そうします」
女が、煮て冷ましておいた水を、木椀に注いでくれた。それを受け取り、皆の前で飲んだ。
「決まりを作った秀頼が、守らないわけにはいかないから」
町の者たちが、笑った。今度の笑いは、井戸を閉じたときの怒鳴り声とは違っていた。
人垣がほどけかけたところで、長屋の年寄りが一人、前に出た。最初の井戸に赤い札がかかったとき、誰よりも大きな声で怒っていた男だった。
「……若様。あの赤札の井戸、うちの孫が、毎朝、汲んでおりました」
年寄りは、下を向いた。
「赤札を貼られたときは、城がわしらの水を取り上げると思うて、腹が立ち申した。ですが、代わりの水を運んでもろうてから、孫は腹を下しておりませぬ」
「……よかった」
「井戸を替えたおかげか、わしには分かりませぬ。それでも、礼だけは、申し上げとうございました」
年寄りは深々と頭を下げ、長屋の方へ戻っていった。
病が減った理由は、まだ断言できない。だが、井戸を閉じるだけでなく、代わりの水を届けたからこそ、あの家は新しい水を使えたのだ。
城へ戻ったのは、日が暮れてからだった。
奥御殿で待っていた母、淀殿は、秀頼の顔を見るなり言った。
「秀頼。町の井戸の水を、飲んだそうですね」
もう、伝わっている。
「飲みました。でも、ちゃんと煮て、冷ました水です」
「白い札の井戸でも?」
「白い札でも」
「ならば、よろしい。ですが、病の流行る町へ出るときは、身を守ることも考えなさい」
母は秀頼の手を取り、指の間まで確かめた。
「それから、手を洗いなさい」
「はい」
「今すぐに」
「……はい」
井戸には赤札、黄札、白札がある。母の言葉には札がない。それでも、どの札より逆らいにくかった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.6% → 95.5%
その夜、北の病人小屋から、知らせが来た。
看る者が、一人、足りなくなった。熱を出したのだ。
小屋の子供たちを、夜通し看ていた女だった。




