第135話 疱瘡
【豊臣家滅亡まで 残り3,847日】
表書院に着いたときには、もう、声が重なっていた。
町奉行。蔵の役人。船場の町役。寺の係。城の番頭。治長。且元。誰もが立ったまま、誰もが自分の案を、一番大きな声で言おうとしていた。
「船場の病人の家を、閉じ切るべきにござる」
「閉じるだけでは足りぬ。焼き払え」
「まず祈祷を。天王寺と生玉に、使いを」
「城の門を閉ざしなされ。拾様に、万一のことがあっては」
「船場の者を、城下の外へ追い出せば」
怖さは、決めるのを速くする。ただし、正しくするとは限らない。前の世の会議室でも、一番大きな声が一番早く通って、三日後に一番高い代償を払うのを、何度も見た。
「静かに」
十の子供の声は、よく通らなかった。誰も止まらなかった。
治長が、代わりに、扇で床を叩いた。乾いた音が、書院の隅まで響いた。
「拾様の御前である!」
ようやく、声が止んだ。治長は、秀頼の方を振り向いて、小さく頷いた。反対役の男が、ここでは、静かにさせる役を買って出てくれていた。
「町役殿。はじめから、話してください」
船場の町役は、額の汗を拭った。
「三日前、船場の桶屋の子が、熱を出しました。六つの男の子にございます。頭が痛い、腰が痛いと申して、吐きました。次の日、隣の家の子が二人。昨日、向かいの長屋で五人。今朝、最初の子の顔に、赤い点が出て参りました」
「医者は、何と」
「……疱瘡、と」
書院の空気が、また固くなった。
疱瘡。前の世の言葉なら、天然痘。光秀だったころ、煕子の咳を、人から離し、手を洗わせて、十三年、延ばした。種痘という手で、世界から消した病。だが、この世には、種痘はない。熱を下げる薬も、息を助ける道具も、ない。秀頼が持っているのは、知っていることだけだった。そして、知っていることの多くは、道具がなければ使えなかった。
「患った子の家と、年と、熱が出た日と、一緒に暮らしている者と、使っている井戸と、近ごろ来た旅の者。全部、書いてください」
「全部、でございますか」
「分からないところは、不明と書いてください」
町役は、ぽかんとした。治長が、横から、低い声で言った。
「大坂では、分からぬことは、不明と書く決まりじゃ」
町役は、急いで、懐から紙を出した。
【新たな危うさ:疱瘡の流行 更新】
罹った者の推し量り 142人
見えていない者の推し量り 47人
三十日のうちに亡くなる者の見込み 86人~312人
幅が、広かった。広すぎた。それでも、少ない方の数でさえ、八十六人だった。
机の端を、握った。
「閉じ込めるのでは、ありません」
書院を見回した。
「病んだ人と、まだ病んでいない人を、分けます」
「……同じことでは、ござらぬか」
町奉行が、首をかしげた。
「違います。閉じ込めるのは、罰です。分けるのは、助けるためです。病んだ人には、水と粥と、看る者を届けます。まだ病んでいない人は、病の通り道から、少し離れてもらいます」
言葉が違えば、やることが違う。やることが違えば、人の顔色が違う。罰だと思えば、人は病を隠す。隠された病は、闇の中で、広がる。
「看る者は、毎日、替えないでください。同じ人が、同じ家を看ます。多くの家を出入りする人を、減らすためです」
「着物は、焼きまするか」
「全部は、焼きません。湯で煮られるものは、煮る。日に干す。寝具は、分ける」
「……亡くなった者は」
言葉が、一度、詰まった。
まだ、誰も死んでいない。だが、死ぬ。必ず。
「運ぶ者を、決めます」
息を吸って、言った。
「その人たちにも、食べ物と、銭を、出します。一番つらい仕事をする人を、一番後回しにしないでください」
亡くなった者を運ぶ者。汚れたものを片づける者。粥を届ける者。歴史の本には、名がほとんど残らない。だが、流行を止めるのは、その人たちだった。
評議が終わりかけたとき、襖が開いた。
淀殿だった。書院の者たちが、慌てて頭を下げた。母は、まっすぐ、秀頼の前に座った。
「秀頼。城を、閉じますか」
大坂城だけを守るなら、閉じるべきだった。城下と城とを切り離せば、秀頼が罹る見込みは、ずっと下がる。家来の半分が、それを望んでいるのも、分かっていた。
だが、秀頼が守ろうとしているのは、城ではなかった。
「閉じません」
「あなたが病めば」
「豊臣家は、秀頼一人を守るための家じゃ、ありません」
淀殿の顔が、固くなった。扇が、飛ぶかと思った。
飛ばなかった。母は、目を伏せた。
「……ならば」
静かな声だった。
「病むな」
無茶だった。
「努めます」
「努めて、疱瘡を避けられるのですか」
「避けられません」
「ならば、約束なさい」
「何を」
「一人で、病人の家へ、行かぬことを」
返事に、詰まった。行くつもりだった。自分の目で見ないと、分からないことがある。前の世でも、そうやってきた。
「秀頼」
「……約束します」
母は、ようやく、少しだけ肩を下ろした。
評議のあと、淀殿は、廊下で、秀頼を呼び止めた。家来たちが、遠ざかるのを待ってから、言った。
「わたくしは、幼い頃に、一度、疱瘡を患いました」
知っていた。だが、母の口から聞くのは、初めてだった。
「北ノ庄へ移るより、前のこと。……熱で、何も見えませなんだ。目を開けても、白いばかりで。怖うて、泣いておると、誰かが、夜じゅう、手を握っておりました」
淀殿は、自分の手のひらを見た。
「母上でした」
お市の方。小谷の城から娘たちを連れて逃れ、北ノ庄で、娘たちを残して、夫と死んだ人。
「治ったあと、母上は、ご自分の手を、何度も湯で洗うておられました。……幼いわたくしは、それが、嫌でございました。わたくしが、汚いのかと」
「……違います」
「今は、分かります」
母は、少し笑った。
「妹たちに、移さぬためでございました」
淀殿の顔には、跡は、ほとんど残っていなかった。額の端に、よく見ないと分からない、小さなへこみが、一つだけあった。秀頼は、初めて、それに気づいた。
「わたくしは、もう、罹りませぬ」
母は、それだけ言って、背を向けた。
その言葉が、何を言おうとしていたのか、そのときの秀頼には、まだ、分からなかった。
千姫の部屋の前を通った。障子は、閉まっていた。侍女が一人、入り口に座っていた。
「千」
障子の向こうで、ぱたぱたと、足音がした。
「殿でございますか」
「うん。開けないで。そこで、話そう」
「……伯母上が、出てはならぬと」
「そう。しばらく、我慢して」
「木馬を、二頭とも、障子の前に置きました」
「どうして」
「門番でございます」
障子の影に、小さな馬の形が、二つ、並んでいた。家康の古い木馬と、秀忠の鞍のある木馬。徳川の馬が二頭、豊臣の城で、七つの姫を守る門番をしていた。
「……いい門番だね」
「病が来たら、蹴りまする」
笑いそうになった。笑うと、泣きそうだったので、やめた。
台所に寄ると、焼き味噌の太郎が、大鍋を三つ、並べて、火を起こしていた。台所頭になってから、太郎の声は、前より大きくなった。
「若様。北の小屋へ運ぶ粥、今夜は、六十人分にございます」
「足りる?」
「明日は、足りませぬ」
太郎は、はっきり言った。
「米は、ござる。薪も、ござる。足りぬのは、運ぶ手でございます。粥を運ぶ者が、病人の家に入れば、皆、嫌がりまする」
「入らなくていい。戸口に置いて、声をかけて、帰る。器は、あとで煮る」
「……器を、煮る」
「うん」
太郎は、少し考えてから、鍋の横の壁に、炭で、大きく書いた。《器 煮る》。字は、相変わらず、太かった。
「覚えられぬ者が、おりますゆえ」
台所の若い者たちが、その字を見て、頷いていた。
その夜、知らせが来た。
見つかった病人、三十一人。亡くなった者、一人。
最初に熱を出した、桶屋の子だった。六つ。名は、清太。
町役の書いた紙に、父親の字で、名の横に、小さく書き足してあった。《桶の箍を、はめるのが、うまかった》。
【名もなき者の生存率 算定開始】
初期値 62%
その数字を、しばらく、消せなかった。
箍をはめるのがうまかった子供。前の世の数字の中では、決して見えなかった一行だった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.3% → 95.6%
灯りを消す前に、清太の名を、自分の帳面に、書き写した。
その下に、一行、空けておいた。この死から何を変えたかを、あとで書くための、一行だった。




