第133話 認めたくない才
【豊臣家滅亡まで 残り3,889日】
家康が、優れている。
それは、もう、分かっていた。
分かっていたが、認めたくはなかった。
わけは、簡単だった。敵だからだ。
人は、敵のしくじりを喜ぶ。敵の弱みを探す。敵が、たまたま勝ったと思いたがる。
前の世でも、同じだった。張り合う会社がうまくいくと、「運がよかった」「市場が伸びただけ」「広告に金をかけただけ」と言い続ける会社があった。そういう会社は、学ぶ機会を、失った。そして、負けた。
分かっている。だが、気持ちは、別だった。
家康は、父が死んだあと、豊臣の威光を奪った。三成を追い詰めた。大名たちを従えた。将軍になった。
そして、俺は、この先を知っている。十年あまり先の、燃える大坂城まで。
その男を、優れていると、認める。
不快だった。
そんなとき、家康から、一通の書状が届いた。
《大坂の病人の書き留め、江戸にて試した》
《宿場三か所にて、熱のある者の足止めを、早く掴めた》
《ただし、旅人が病を隠すこと、多し》
《罰を恐れぬ仕組みが、要る》
最後に、一行。
《豊臣の工夫、役に立った》
その一行を、何度も読んだ。
家康が、豊臣の決まりを、認めた。自分の手柄に、しなかった。
思っていなかったことだった。
淀殿に見せると、母は、鼻で笑った。
「油断させるためでしょう」
「……かもしれません」
「ならば、喜ぶ要は、ございませぬ」
「でも、役に立ったのは、本当です」
淀殿は、俺の顔を見た。
「……家康を、褒めたいのですか」
「褒めたいわけじゃ、ありません」
「同じことです」
違う。……いや、少しだけ、同じかもしれなかった。
返書を、三つ、書いた。
一つ目。《当然である》
感じが悪かった。三成なら、書きそうだった。
二つ目。《御採用、ありがたく存ずる》
下手に出すぎていた。
三つ目。《試した結果を、分けていただきたい。大坂の決まりも、改める》
これだった。敵からも学ぶ。相手にも学ばせる。勝ち負けにしない。
ひと月後、江戸から、細かい知らせが届いた。
旅人が、病を隠すわけ。宿代。足止め。仕事の遅れ。村での扱い。役人への恐れ。
わけは、医の話だけではなかった。暮らしと、決まりの話だった。
大坂の養生の係に、知らせを回した。熱のある者を届け出た宿には、費えを少し補う。病人本人は、罰しない。治ったあとの通り手形を出す。
家康の指摘で、豊臣の決まりが、よくなった。
悔しかった。だが、救われる人は、増える。ならば、気持ちは、あと回しだった。
返書を出した夜、小野が、三つの下書きを見て、言った。
「……若殿。一つ目は、治部様のお書きになりそうな文でございますね」
「……わかる?」
「わたくし、治部様の文を、何十通も取り次ぎましたゆえ」
小野は、一つ目の下書きを、指でなぞった。
「治部様の文は、いつも、当然である、から始まりました。……そして、いつも、最後に、一行だけ、丁寧でございました」
「……最後に」
「はい。《御身、お大事に》と」
知らなかった。三成の文の最後の一行を、俺は、一度も読んでいなかった。取り次ぎの小野だけが、知っていた。
数日後、本多忠勝が、また大坂に来た。
「上様が、若殿の返書を、喜んでおられました」
「将軍様が」
「はい」
「どうしてです」
忠勝は、少しだけ、笑った。
「上様の見落としを、責めずに、直させたゆえ、と」
嫌な予感がした。
「……将軍様、試したんですか」
「さて」
忠勝は、答えなかった。
家康。本当に、面倒くさい。
【人物評価:徳川家康】
新規表示:学ぶ力 98/人の案を取り入れる力 87/手柄を独り占めしたい心 64
最後の数字は、人間らしかった。全部が完璧なわけではない。それでも、高かった。
自分の数字も、開いた。
【豊臣秀頼(拾)】
敵の案を取り入れる力 72
気持ちの上での抵抗 81
気持ちの抵抗の方が、高かった。数字は、正直すぎた。
「……忠勝殿」
「は」
「将軍様に、伝えてください」
「何と」
「大坂でも、江戸の帳面を、参考にした、と」
忠勝は、少し、驚いた顔をした。
「……よろしいのでございますか」
「本当のことです」
「豊臣の家来衆が、嫌がりましょう」
「嫌がると思います」
俺も、嫌だった。
だが、認める。敵が優れていることを。優れた敵から学べることを。そして、学んだからといって、従うわけではないことを。
「敵を低く見る方が、豊臣を、危なくします」
忠勝は、深く頷いた。
「……上様も、同じことを、申されまする」
「また、将軍様と、同じですか」
頭を抱えた。嫌だった。とても、嫌だった。
だが、いい判断は、敵か味方かで、変わらない。
忠勝が帰る前、千姫が、廊下の角から、そっと顔を出した。忠勝を見て、目を丸くした。
「……大きい」
忠勝は、膝の痛みをこらえて、千姫の前に、しゃがんだ。
「姫様。平八郎にございます。姫様がお生まれになった年、伏見で、一度、お目にかかりました」
「……覚えておりませぬ」
「赤子でございましたゆえ」
千姫は、忠勝の顔を、じっと見ていた。それから、恐る恐る、手を伸ばして、忠勝の、白くなりかけた鬢に、そっと触れた。
「……おじいさまと、同じ色」
忠勝は、しばらく、動かなかった。
「……左様で、ございまするな。上様と、同じ色に、なり申した」
忠勝が帰ったあと、千姫は、しばらく、自分の指を見ていた。
「……殿。おじいさまは、いつ、白うなられたのでございますか」
「わからない。俺が五つのときには、もう、少し白かった」
「わたくしが大坂に来るとき、おじいさまは、泣いておられませなんだ」
千姫は、指を握った。
「……泣いておられぬのに、手が、震えておられました」
家康が、門で手を振ったときと、同じだった。
「おじいさまは、泣かぬお方でございますか」
「……泣いたことは、あるそうです。三度」
鳥居元忠の話を、千姫にするのは、まだ早い気がした。
千姫は、その夜、忠勝の鬢の色の話を、祖父への文に書いたらしい。
ひと月後、家康から、千姫宛ての返事が届いた。千姫は、それを、俺に見せに来た。
《平八郎も、わしも、白うなった。姫が大きゅうなる分、年寄りは白うなる。釣り合いじゃ》
千姫は、その文を、二頭の木馬の間に、そっと挟んだ。
俺は、その文を、しばらく見ていた。家康の字は、昔、将棋のあとに見た字と、同じだった。少しだけ、震えていた。
敵の手が震えているのを見て、喜ぶべきなのか。悲しむべきなのか。
家康が年を取れば、豊臣家が生き残る見込みは、上がるのかもしれない。だが、この先を知っている俺には、分かっていた。家康は、自分の震える手を、誰よりも先に、数えている。そして、震えが止まらなくなる前に、片付けておくべきものを、片付けようとする。
大坂の城は、その片付けるものの中に、入っている。
数字に出ない震えを、俺は、数え始めていた。敵の老いを数える自分が、少しだけ、嫌だった。
嫌だったが、数えるのを、やめられなかった。数えなければ、備えられない。三成が、長盛が、与市が、そう教えてくれた。
【徳川家康への見方】
危うい敵 → 危うくて、学ぶ値打ちのある敵
たった一行だった。だが、俺にとっては、大きな負けだった。そして、要る育ちだった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
94.7% → 94.6%
その夜、治長が、報告に来た。
「拾様。江戸の帳面を参考にした、と、忠勝殿にお伝えになった件。……家中に、もう、広まっておりまする」
「……早い」
「文句が、十一件」
治長は、紙を差し出した。
「それと。……よう言うた、という声が、四件」
四件。少なかった。だが、零ではなかった。




