第129話 二本足の鼠
【豊臣家滅亡まで 残り4,020日】
道が整い始めると、次の困りごとが、見えた。
米だった。
豊臣家の帳面には、石高が書かれている。百万石。五十万石。十万石。数字だけ見れば、国の力が分かるように見える。
だが、蔵を開けると、数字は、嘘をついた。
同じ一万石でも、田の出来が違う。年によって違う。運ぶ道のりが違う。途中で減る。湿る。鼠に食われる。役人が抜く。百姓が隠す。蔵で腐る。戦で止まる。
帳面の一万石と、食べられる一万石は、同じではなかった。
「……石高は、国の力では、ございませぬのか」
治長が、聞いた。
「目安です」
「太閤殿下が、お定めになった」
また、父の影だった。
「父上が定めても、米は腐ります」
淀殿が、睨んだ。評議の隅に、座っていた。
「言い方」
「本当のことです」
「本当のことにも、言い方がございます」
治長が、わずかに頷いた。
十になっても、俺の雑談の力は、まだ低いらしかった。
淀殿の隣に、千姫が座っていた。千姫は、母と伯母の顔を知っている。淀殿を、伯母上と呼んだ。淀殿は、千姫の前では、少しだけ、声が柔らかくなった。
「千姫。米は、何のためにあると思いますか」
淀殿が、聞いた。
「……食べるためでございます」
「そうですね」
「それと、おじいさまが、数えるため」
淀殿の扇が、止まった。
「……数える」
「おじいさまは、いつも、何かを数えておられまする。お米も。お薬も。お馬も」
淀殿は、しばらく、黙っていた。
「……殿下は、数えられませなんだ。数えずに、配られました」
母は、それだけ言った。
米は、食べ物だ。年貢だ。扶持だ。兵糧だ。進物だ。借りの形だ。値の物差しだ。そして、力だった。
誰が米を集めるのか。誰が蔵に置くのか。誰が売るのか。誰が値を知るのか。それで、国の力が決まる。
大坂の蔵を、見て回った。千姫が、ついてきた。近頃、評議にも、時々、座るようになっていた。
一つ目の蔵。乾いていた。よく手入れされていた。
二つ目の蔵。湿っていた。床下の風が、悪かった。
三つ目の蔵。帳面と、中の量が、合わなかった。
蔵の役人が、青くなった。
「……盗んだ?」
「ち、違いまする」
「じゃあ、どうして、減ったんです」
「鼠に」
「鼠が、三百石、食べたんですか」
「大きな、鼠で……」
治長が、蔵の役人を、じっと見た。
「……その鼠は、二本足か」
蔵の役人は、泣き出した。
不正だった。
だが、斬れば終わりではない。なぜ抜けたのか。誰が見逃したのか。どこで、帳面が合わなくなったのか。
与市が、調べた。
数日後、知らせが来た。蔵の役人一人の盗みでは、なかった。運ぶ途中の減り。受け渡しの減り。乾いて軽くなった分。鼠。古い米との入れ替え。小さな差が、いくつも重なっていた。最後に、蔵の役人が、一部を売った。
「罰は、要りまする」
与市が、言った。
「ええ」
「ただし、帳面の形も、変えまする」
与市は、三成の顔を、知らない。長盛から、話を聞いただけだ。それでも、人を罰して終わりにせず、仕組みも見ていた。
米の書き留めを、量だけでなく、質、蔵に入れた日、どこの米か、湿り具合、どう動いたか、減ったわけ、で書くことにした。
前の世のような、細かい量り方はできない。だから、匂い。色。虫。手触り。炊いたときの様子。現場の目を、皆が使える言葉にした。
「古い米から、先に、出します」
蔵の役人たちが、驚いた。
「良い米から、先に出すのでは」
「良い米だけ先に出したら、古い米が、いつまでも残ります」
前の世なら、先入れ先出し、と呼んだ。この世では、言い方を変えた。
《古米先渡し》
時代に合う言葉が、要った。
次に、値。
米が多い年は、値が下がる。百姓と領主が困る。米が少ない年は、値が上がる。町人が困る。誰かが得をすると、誰かが苦しくなる。
「値を、決めてしまいまするか」
治長が、聞いた。
「決めたら、米が消えます」
安すぎる値を命じれば、商人は売らない。隠す。よその町へ運ぶ。
「では、好きにさせれば」
「任せたら、飢饉のときに、買い占めが起きます」
どれでも効く答えは、なかった。
平らかなときの値は、命じなかった。代わりに、大坂の主な市で、毎日の値と量を書き留めさせた。ひどく上がる。ひどく下がる。一人の商人に集まる。その兆しを、見る。
そして、飢饉や戦のときには、豊臣家の蓄えの米を、少しずつ出す。一度に全部は、出さない。市が壊れるから。少しずつ、要るところへ。
「……米を売るだけで、国が、動くのでございますか」
千姫が、聞いた。
「米を売るからじゃ、ありません」
俺は、答えた。
「米が、どこに、どれだけあって、いつ届くか。それが分かるから、です」
「分からないと」
「皆が、怖くなります」
怖くなると、買い占める。隠す。奪う。兵を出す。
戦は、野心だけで始まるのではない。足りなくなる恐れからも、始まる。
家康が、道と蔵を大事にするわけが、見えてきた。天下を取ったから、米を押さえたのではない。米の流れを押さえられたから、天下に近づいたのだ。
「将軍様は、米を、見ておられまするな」
治長が、言った。
「ええ」
「我らは、何を、見まする」
「米の先に、いる人を」
百姓。船頭。蔵の役人。商人。足軽。町の人。病人。子供。数字の向こう側。ただし、人を見るために、数字が要る。
その夜、蔵の知らせが、まとまった。
【大坂の主な蔵】
中身を掴めている割合 47% → 73%
平均の減り 12% → 8%
いざというときに米を出すまでの日数 9日 → 4日
まだ、全部ではない。だが、国は、少しだけ、飢えにくくなった。
千姫の案を、評議の書き留めに、そのまま書いた。《半分高く、半分安く 千姫》。
治長が、目を丸くした。
「……姫様の御名を、評議の書き留めに」
「言ったことは、書く。誰が言ったかも」
「七つの姫様でございますぞ」
「七つでも、案は、案です」
千姫は、自分の名が書かれた紙を見て、嬉しそうに、何度も読み返していた。
「……殿。わたくしの名、字が、間違うております」
千姫が、紙の一か所を指した。「姫」の字が、一画、足りなかった。直した。
千姫は、直された字を見て、満足そうに頷いた。
治長は、まだ、何か言いたそうな顔をしていた。
【豊臣家】
財 S
物を運ぶ力 B
町の回し方 B
戦が続いたときに持ちこたえる力 C
徳川に頼っている度合い 38%
最後の項目に、眉を寄せた。
徳川の天下の中で生き残るなら、頼るのは、零にはできない。だが、高すぎれば、呑まれる。低すぎれば、敵とみなされる。また、ほどほど。一番難しい数字だった。
夕方、蔵の役人の処分が決まった。役目を解く。売った分は、少しずつ返させる。ただし、家族の扶持は、止めない。
蔵の役人は、泣きながら、与市の前で頭を下げた。
「……帳面が変われば、拙者のような者は、もう、出ませぬか」
与市は、しばらく考えてから、答えた。
「出まする。……されど、早う、見つかりまする」
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.3% → 95.1%
最後に、家康から、書状が届いた。
《江戸の米の値、今月上がる。大坂より、米を買いたし》
笑った。大坂がなければ、江戸も困る。最初の一歩だった。
ただし、治長が言った。
「高う、売りましょう」
且元が言った。
「困っておるときに、足元を見るのは」
千姫が言った。
「半分は高く、半分は安く、売ればようございます」
全員、勝手だった。そして、全員、少しだけ、正しかった。
千姫の案は、正則が言いそうなことだった。それを言うと、千姫は、きょとんとしていた。福島正則の顔を、千姫は知らない。
評議は、今日も、長くなった。




