第127話 江戸と大坂
【豊臣家滅亡まで 残り4,153日】
家康が置いていった帳面には、江戸の絵図が、挟まっていた。
城。堀。入江。川。武家の屋敷。町人の町。寺。これから普請する場所。
出来上がった町ではなかった。泥と水の多い、途方もなく大きな普請場だった。
「……このような土地が、大坂を超えるのでございますか」
治長が、言った。侮る声だった。
俺は、その言葉を、止めた。
「超えるかもしれません」
部屋が、静かになった。
大坂の者は、大坂が日本の真ん中であることを、疑わない。海がある。川がある。京に近い。堺が近い。商人がいる。蔵がある。豊臣の城がある。
強い。確かに、強い。
だが、強い町ほど、自分が強いわけを、忘れる。
「江戸の、何が、強いのでございますか」
且元が、聞いた。
「まだ、強くはありません」
「では」
「強くできる余地が、大きい」
大坂には、もう人が住んでいる。商いがあり、権があり、寺があり、道がある。何かを変えれば、誰かが困る。
江戸は、まだ、空いているところが多い。家康は、その空いたところに、自分の絵図を描ける。
「何もないことが、強みなのでございますか」
「何もないわけじゃ、ありません」
湿地がある。水がある。坂がある。海がある。周りに村がある。それをどうつなぐかが、まだ決まっていない。
決まっていないことは、危うい。同時に、好機でもある。
江戸から来た絵図の係と、大坂の船頭と、人足の頭と、商人を、呼んだ。
絵図の係だけでは、町は分からない。絵図は、歩く人の足を痛めない。船を座礁させない。荷を担がない。雨で寝床を失わない。
現場の者に、聞いた。
「江戸で、一番困ることは」
江戸の船頭が、答えた。
「水の道が、変わることにございます」
「川ですか」
「はい。雨が続けば、昨日通れたところが、今日は通れませぬ」
人足の頭。
「土が、沈みまする」
商人。
「店を構えても、お武家の屋敷が移れば、客の流れが変わりまする」
絵図の係。
「……普請の途中で、上様のお考えが、変わりまする」
最後のが、一番、大変そうだった。
「将軍様は、よく、考えを変えるんですか」
「よく、では、ございませぬ」
絵図の係は、慎重に言った。
「ただ、お変えになるときには、もう、次の絵図が、ございまする」
備えてある変更。思いつきではない。
家康は、一つの案に、全部を賭けない。いくつもの案を持っていて、事情に合わせて変える。
江戸の強さは、土地ではなかった。変えられること。そして、変えることを受け止められる家来たちだった。
俺は、大坂の絵図を、隣に並べた。
二つの町。
大坂。今ある力を、集める町。
江戸。新しい力を、置いていく町。
「大坂も、作り直しまするか」
治長が、聞いた。
「全部は、無理です」
「では、負けまする」
「同じことをして競えば、負けます」
江戸の真似をして、大坂を江戸にする要はない。大坂には、江戸にないものがある。長い商人の信用。海の運び。堺。京との近さ。西国とのつながり。寺と職人。
違う強さだった。
「大坂は、何に、なるのでございますか」
且元が、聞いた。
「天下の、蔵です」
米。銀。薬。布。知らせ。人。物を集めるだけではない。要るところへ、送る。
「江戸は」
「天下の、役所になるでしょう」
徳川が、政の真ん中を作る。ならば、豊臣は、商いと暮らしの真ん中を作る。
競いながら、一緒にいられる役目。それが、豊臣家を残す道になるかもしれなかった。
【町の戦い方】
江戸に張り合う 見込み21%
江戸と違う道を行く 見込み63%
後の方を、選んだ。
「……勝たぬのでございますか」
治長が、言った。
「同じ勝負を、しないんです」
「逃げでは」
「違います」
前の世の商いでも、一番の会社の真似をして潰れた会社を、いくつも見た。強い者の土俵で、強い者と同じ戦いをする。それが、一番分かりやすい負け方だった。
「大坂は、江戸より大きくならなくていい。大坂がなければ、江戸も困る町に、する」
部屋の空気が、変わった。
天下を取る、ではない。要るとされる。武将には、少し分かりにくい。商人には、よく分かる。
評議のあと、千姫が、絵図をのぞき込みに来た。
「……これが、江戸でございますか」
「ええ」
「わたくしの、生まれたところは、どこでございましょう」
千姫は、伏見で生まれた。江戸には、まだ、行ったことがないはずだった。
「江戸じゃ、ないですよ。伏見です」
「では、父上は、どこに」
俺は、絵図の、城の印を指した。まだ、半分しか描かれていない城だった。
千姫は、その印を、小さな指で、そっと撫でた。
「……父上は、泥の中に、おられるのですね」
「今は、そうです」
「泥の中で、何を、なさっておられるのですか」
「町を、作っています」
千姫は、しばらく、絵図を見ていた。それから、大坂の絵図の方も、同じように撫でた。
「殿も、町を、作っておられますね」
「……ええ」
「では、父上と殿は、同じお仕事でございますね」
言い返せなかった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.5% → 95.4%
その夜、江戸の絵図を、もう一度、一人で広げた。
泥と水の町。家康は、そこに、何十年もかけて、自分の町を描くつもりなのだ。自分が死んだあとも、描き続けられるように。
大坂の絵図を、隣に並べた。
父が描いた町。父が死んで、描き手がいなくなった町。それでも、商人と船頭と職人たちが、勝手に、描き足し続けている町。
描き手が一人でない町の方が、長く続くのかもしれない。
翌日、堺の宗薫が来た。
「若殿。江戸へ売る米の量を、増やしてもよろしゅうございますか」
治長が、驚いた。
「敵に、米を売るのか」
宗薫は、不思議そうに答えた。
「買う方に、売りまする」
俺は、笑った。
町と町の、一緒に生きる形は、もう始まっていた。武士が、気づいていないだけで。
宗薫は、帰り際に、もう一つ、付け足した。
「若殿。江戸の米の値が上がれば、大坂の米の値も、つられて上がりまする。江戸へ売れば売るほど、大坂の町人が、高い米を買うことになる」
「……じゃあ、どうする」
「江戸へ売る分と、大坂に残す分を、先に決めておかれませ。決めておかねば、商人は、高う売れる方へ、全部運びまする」
宗薫は、にこりと笑った。
「手前も、含めて」
正直な男だった。どちらにも顔が利いて、どちらにも嘘をつかない。
その日のうちに、与市が、江戸へ売る米の上限を書いた紙を作った。大坂の蔵の米の、三割まで。それを超えるときは、評議にかける。
宗薫が帰ったあと、千姫が、また絵図の部屋に来た。今度は、筆と紙を持っていた。
「殿。わたくしも、町の絵を描きとうございます」
「……どこの」
「大坂と、江戸の、間の町」
千姫は、紙の真ん中に、川を一本描いた。その両側に、家を並べた。片方の岸には「おおさか」、片方の岸には「えど」と、仮名で書いた。
川には、橋が、三本、架かっていた。
「……みっつ」
「一本では、混みまするゆえ」
鯉の餌と、同じ考え方だった。
千姫の絵は、翌日、評議の部屋の、江戸と大坂の絵図の間に、貼られた。誰も、剥がそうとしなかった。
橋の数を、三本から増やす者は、まだ、いなかった。
その夜、治長が、一人で部屋に来た。
「……拾様。先ほどの、江戸より大きくならぬ、というお話。御方様には、まだ、お伝えなさいますな」
「どうして」
「御方様は、大坂が一番でなければ、夜、眠れぬお方でございますゆえ」
治長は、少しだけ、困ったように笑った。
「拙者が、少しずつ、お伝えいたしまする。……鯉の餌のように、分けて」
治長も、千姫の話を、聞いていたらしかった。




