第126話 鯉と餌
【豊臣家滅亡まで 残り4,194日】
長安が江戸へ帰って、ひと月後、家康本人が、大坂に来た。
名目は、千姫の見舞い。
本当のところは、大坂信用座の見定め。豊臣家の財の立て直しの見物。そして、俺への、牽制。
千姫は、祖父の姿を見るなり、廊下を走っていった。
「おじいさま!」
侍女たちが、慌てて後を追った。家康は、膝をついて、孫娘を受け止めた。
家康の顔が、ほんの少し、崩れた。
天下の将軍の顔ではなかった。ただの、祖父の顔だった。
俺は、この顔が、苦手だった。悪人なら、扱いは簡単だ。人を愛する敵は、判断を難しくする。
「大きゅうなられましたな」
家康は、千姫の頭を撫でた。
「前に会うたときより、背が伸びた」
「たくさん、いただいておりますゆえ」
「大坂の飯は、うまいか」
「はい。……ただ、殿が、朝から固い南蛮のぱんを、召し上がれと」
「召し上がれとは、言っていません」
俺は、訂正した。
「試しです」
家康が、声を立てて笑った。
「秀頼公は、食い物まで、政にされるか」
「将軍様も、薬草まで、国の仕置にされていますね」
笑いが、止まった。家康の薬好きは、国じゅうに知られていた。自分で薬研を回して、煎じ薬を作る。昔、屋敷で見た通りだった。
家康は、目を細めて、俺を見た。
「……よう、覚えておられる」
家康は、千姫の手を引いたまま、本丸の書院まで歩いてきた。千姫は、祖父の袖を放さなかった。
淀殿が、書院で待っていた。
家康と淀殿が、同じ部屋で顔を合わせるのは、将軍宣下のあと、初めてだった。
家康は、淀殿の前で、深く頭を下げた。将軍が、豊臣の後家に、頭を下げた。
「御方様。千姫を、よう、お預かりくださっておる」
淀殿は、扇を膝に置いたまま、しばらく、何も言わなかった。
「……千姫は、よい子でございます」
それだけ、言った。
家康は、顔を上げて、少しだけ、笑った。
「……存じておりまする。わしの孫で、ございますゆえ」
「わたくしの姪でも、ございます」
千姫の母、お江は、淀殿の妹だった。千姫は、淀殿にとって、妹の娘でもあった。
部屋の空気が、一瞬、張り詰めた。それから、千姫が、祖父と伯母の顔を交互に見て、首をかしげた。
「……おじいさまと、伯母上は、仲が、およろしいのですか」
誰も、答えなかった。家康が、咳払いをした。淀殿が、扇を開いた。
庭へ出た。表向きは、千姫と祖父の散歩。本当は、財の話だった。
池のほとりを、ゆっくり歩いた。家康は、杖をついていた。二年前には、ついていなかった。
「信用座を、始められたそうですな」
「もう、二年になります」
「商人に、豊臣の名を、貸しておられる」
「貸してはいません。取引を書き留めて、約束が守られたかを、確かめているだけです」
「同じことでござろう」
「違います」
「名を貸し、約束が守られることを請け負う。違いは、言葉だけでござる」
悔しいが、半分は、正しかった。
決まりは、名前ではなく、誰が損を負うかで決まる。家康は、そこを見ていた。
「損が出たとき、豊臣家が払われるのか」
「わざと偽ったのを、見逃したときだけです」
「見逃したかどうかは、誰が決める」
「評議で」
「評議に出る者は、誰が選ぶ」
「商人と、寺と、蔵の役と、豊臣家から」
「豊臣家が外したい者を、外せぬ仕組みは」
問いが、止まらなかった。
家康は、決まりの穴を探していた。攻めているのではない。癖だった。
【人物評価:徳川家康】
新規表示:決まりの穴を見つける力 99/問いの終わる見込み 不明
最後の項目は、数字の方が、諦めていた。
俺は、一つずつ答えた。答えられないものは、答えられないと言った。
家康は、そこを、責めなかった。むしろ、少しだけ、満足そうだった。
「……分からぬことを、分からぬと、言えるようになられましたな」
「前は、言えませんでしたか」
「太閤殿下は、言えぬお方でございました」
父の欠けが、また一つ、増えた。
家康は、池の鯉に、餌を投げた。千姫が、隣で、同じように投げた。鯉が、一か所に集まって、水面が泡立った。
「餌を一か所に投げれば、鯉は、争いまする」
「分けて、投げればいい」
「分ければ、今度は、投げる者が、多く要る」
「役目を、決めればいい」
「役目を決めれば、役目を取られた者が、怒りまする」
「……じゃあ、何もしないんですか」
家康は、首を横に振った。
「何をしても、別の困りごとが起こる。それを、知っておくのでござる」
それが、家康の危うさへの備えの、正体だった。困りごとを消す力ではない。困りごとが、どこへ移るかを読む力。
「……将軍様は、天下を、どうしたいんですか」
家康は、餌を持ったまま、止まった。
「……また、その問いでござるか」
「前と、答えが変わったかもしれません」
「変わりませぬ」
「戦を、終わらせる」
「その後は」
「終わった戦が、戻らぬように、する」
「豊臣家は、その中で、何ですか」
家康は、すぐには、答えなかった。
千姫が、池の向こう側へ走っていった。鯉を追いかけているのだった。家康は、孫の背中を、しばらく見ていた。
「……まだ、決めておりませぬ」
正直な答えだった。だから、怖かった。
豊臣家の居場所は、まだ決まっていない。つまり、こちらの動き次第で、変わる。
「秀頼公」
「はい」
「強うなりすぎれば、残せぬ」
「弱すぎれば」
「守る値打ちが、なくなる」
最悪の二択だった。
「……ほどほどに、強くなれ、と」
「それが、一番、難しゅうござる」
家康は、笑った。
本当に、嫌な老人だった。
帰り際、家康は、小さな帳面を一冊、俺に渡した。
中には、江戸の普請の費えが、細かく書かれていた。材木。石。船。人足。食べ物。病人。逃げた者。遅れた日数。
そして、最後の頁に、一行。
《見込みと、出来たものの差を、係の者の恥とするな。次の見込みを直す、材料とせよ》
誰の言葉か、書いていなかった。
「……これは、将軍様が」
「誰が書いたかは、どうでもよろしい」
「どうしてです」
「使えるなら、残せばよい」
家康は、そう言って、杖をついて、門の方へ歩いていった。
名がなくても、考えは残る。俺が「大坂改め」に自分の名を入れなかったのと、同じだった。
門のところで、家康は、一度だけ振り返った。千姫が、侍女に手を引かれて、手を振っていた。
家康も、手を上げた。杖を持たない方の手だった。その手が、少しだけ、震えていた。年のせいか。そうではないのか。分からなかった。
家康が去ったあと、千姫が、池のほとりに戻ってきた。手のひらに、まだ餌が少し残っていた。
「殿。……おじいさまと、何を話されておられたのですか」
「鯉の話です」
「鯉の」
「餌を、どこに投げるか」
千姫は、首をかしげた。それから、残りの餌を、池の三か所に、少しずつ、分けて投げた。
鯉は、三つに分かれた。どこでも、争いは起きなかった。
「……こうすれば、ようございます」
七つの子供が、祖父の問いに、あっさりと答えを出していた。
俺は、千姫の投げた三か所の餌を、しばらく見ていた。
分けて投げる者が、一人なら、手間はかかる。だが、争いは起きない。家康は、投げる者を増やすことばかり考えていた。千姫は、一人で、分けて投げた。
子供の答えは、時々、大人の問いを飛び越える。
池の鯉は、三つの群れのまま、夕方まで、ゆっくりと泳いでいた。
【人物評価:徳川家康 豊臣家への見方】
敵とみなす度合い 62
力を合わせられる見込み 48
互いに学ぶ 始まり
最後の一行を、消そうとした。消えなかった。
敵から学ぶ。それは、負けではない。たぶん。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.7% → 95.5%




