第122話 迷う理由を一つ
【豊臣家滅亡まで 残り5,090日】
百俵の米を船に積んだ。ところが大坂の蔵に着いたとき、売り物になる米は、九十八俵分しかなかった。
残りの二俵分は、どこへ消えたのか。
「海へ、落ちました」
大坂の船頭は、悪びれずに言った。
「米俵を小舟へ移す折、縄が切れましてな。落ちた俵を引き上げても、海水を吸うた米は、そのまま売れませぬ」
船頭が差し出したのは、先月の荷の帳面だった。船に積んだ数、蔵に届けた数、傷んで使えなくなった米の量が、別々に書いてある。
米が消えたのではない。運ぶ途中で、使い物にならなくなったのだ。
俺は、帳面に指を置いた。
「……だれが、にひょうぶん、そんをするの」
「それで、いつも揉めまする。船主は海が悪いと言い、荷主は船頭の扱いが悪いと言う。誰も引き受けねば、次から船を出す者がおりませぬ」
戦を防ぐ話をするために人を集めたのに、始まったのは、濡れた米二俵の話だった。
だが、どうやら、その二俵こそが大事らしい。
夏の初め、加藤清正が大坂に立ち寄っていた。肥後から伏見の家康のもとへ挨拶に向かう途中だ。関ヶ原のあと、清正は肥後五十万石を超える大名になった。
久しぶりに見る清正は、少し痩せていた。目の下の隈も、前より薄い。
「拾様。……石は、まだお持ちで」
「うん」
懐から、灰色の石を出した。清正が蔚山の城から持ち帰り、俺に預けた石だ。あの城で、帰れなかった兵たちのことを忘れないための。
清正は石を手に取り、しばらく黙って握った。
「……まだ、冷とうございますな」
俺が頷くと、清正は石を返した。
その清正も、評議へ引っ張り込んだ。
広間には、商人、船頭、蔵元、町役人、諸大名の大坂留守居、長盛、且元が集まっていた。武将と商人と船頭では、気にしていることが、まるで違う。
清正は、大坂の川と船着き場を描いた絵図をのぞいた。
「この川は、浅いところが多い。海を渡る大船を、蔵の前まで入れるのは難しかろう」
船頭が答えた。
「大船を川へ入れる要はございませぬ。沖に泊め、米や塩を小舟へ積み替えて、川沿いの蔵まで運びまする」
長盛が、先ほどの帳面を指で叩いた。
「その積み替えで、米が二俵分、傷んだというわけか」
「さようにございます。雨の日は濡れまするし、波が高ければ俵を落とすこともございます。縄が切れることも。人足の手間賃も、別に要ります」
「では、毎度、どれほど損をする」
「天気と荷の量によりまする。晴れた日は、傷まずに済むこともございます」
「ならば、まず、晴れの日と雨の日を分けて記せ」
長盛が言うと、船頭は困った顔をした。
「……海の荒れようも、帳面に書きまするか」
「書けるところまで、書く」
俺は、思わず笑った。長盛は相変わらずだった。
だが、必要なことでもあった。なくなった米、運び賃、遅れた日数。それを一緒くたに「船の損」と呼んでいたら、誰が何を直せばよいかも分からない。
「なくなった、おこめ。はこぶ、おかね。おくれた、ひ。みっつ、べつに、かく」
船頭が頷き、長盛が早速、紙を三つの欄に分けた。
そこでようやく、俺は今日の議題を示した。
《大名が一緒に使う、商いの道》
戦が始まれば、兵ばかりでなく、米を作る者も、運ぶ者も、買う者も困る。ならば、戦を起こす大名自身にも、失うものを増やせないか。
「きよまさ。いくさを、はじめにくく、したい」
清正は首を振った。
「商いで戦が止まるなら、とっくに止まっておりまする」
「とめるんじゃ、ない。はじめるまえに、まよう、わけを、ふやす」
肥後の米。瀬戸内の塩。紀伊の材木。堺の鉄。そして大坂の港と蔵。
品物も、土地も、持ち主は違う。それでも、一緒に運び、一緒に蓄える決まりを作る。どこかの大名が戦を始めて船や道を止めれば、その家も、必要な米や材木を受け取れなくなる。
「つまり、己の戦で、己の商いも傷つく、と」
清正が言った。
「うん。すこしでも」
「それでも、斬り合わねばならぬときは、斬り合いますぞ」
「……わかってる」
分かっている。清正と三成は、互いにどれだけ損をすると知っていても、退けなかった。
話を米に戻した。
「肥後の米を、毎年、大坂へ送るとしましょう」
清正は、すぐに言った。
「送りすぎれば、肥後の民が飢えまする」
「のこす、ぶんを、さきに、きめる」
「不作の年は」
「むりに、はこばない」
長盛が口を挟んだ。
「誰が不作と確かめまするか。米を出したくない大名は、皆、不作と申すでしょう」
「げんちの、やくにんと、しょうにんが、いっしょに、しらべる」
「双方が口裏を合わせれば」
「……そのときは、おおさかから、ひとを、だす」
「着くまで、時がかかりまする」
また、難題が一つ増えた。
前の世なら、長い会議を嫌っただろう。だが、戦になってから米が足りないと気づくより、今、長盛に困らされる方がいい。
そのとき、蔵元の一人が、紙の端に小さな四角を描いた。
「大坂に、皆で使う蔵を設けてはいかがでございましょう」
「みんなで?」
「それぞれの家が、出せる分の米を預けまする。蔵には、誰の米を何俵預かったか書き留め、預けた者には証文を渡すのでございます」
蔵元は、四角から、細い線を二本引いた。
「たとえば肥後の米を預けた方は、証文を堺の商人に売れまする。買うた商人は、その証文を持って大坂の蔵へ来れば、約束の米を受け取れる。米俵を、売り買いのたびに運び直す必要がなくなります」
ようやく、誰が得をするのかが見えた。大名は預け先ができる。商人は荷運びを減らせる。町は米を手に入れやすくなる。
「でも、しょうもんを、もってきたら、おこめが、なかったら?」
「それが、恐ろしゅうございます」
蔵元は、苦笑した。
紙だけ増やして、蔵の米がなければ、詐欺と同じだ。
決めた。蔵にある米の量と、渡した証文の量を、毎日、突き合わせる。預かった米を勝手に貸し出さない。蔵元だけでなく、商人の代表と町の役人も立ち会って数える。預けた米が傷んだときに、誰がどれだけ負担するかは、預ける前に決めて書く。
長盛が、顔をしかめた。
「……帳面が、また増えまするな」
「ながもり、うれしくないの?」
「嬉しゅうございませぬ。読まずに済む帳面が、一番よい帳面にございます」
嘘だ。少し、嬉しそうだった。
すると視界の端に、俺だけが読める文字が浮かんだ。
【皆で使う蔵・試案の見込み】
物の流れの安定 +14
値の乱れ -9
戦を思いとどまらせる力 +2
「……に?」
思わず、声が出た。
「何が二でございまするか」
且元が尋ねた。
「……なんでも、ない」
戦をためらわせる力は、たった二。蔵一つで天下泰平、などという都合のよい話ではなかった。
けれど、米が届くのを待つ町人には、その蔵の方が、立派な平和の誓いより役に立つかもしれない。
「……戦になれば、その蔵はどうなさる」
清正が問うた。
「まちの、ひとと、にげてきた、ひとに、さきに、だす」
「兵には」
「のこった、ぶんだけ。どちらの、ぐんにも、おなじ、きまりで」
清正の目が細くなった。
「敵兵にも、米を渡すのか」
「ひょうろうを、うるのは、こわい。でも、どちらかの、ぐんだけを、ひいきしたら、くらが、いくさの、えものになる」
宗薫の言葉を思い出した。片方にしか売らねば、もう片方に奪われる。先日、商人たちとの評議で聞いたばかりだ。
「兵に渡す量は、全部、書き残す。それでよいのでございますか」
長盛が念を押した。
「うん。でも、まちに、だす、おこめは、のこす」
「値を吊り上げる者が出まするぞ」
「ねだんの、うえを、きめる」
今度は商人が首を振った。
「安すぎれば、危ない道を通ってまで運ぶ者がおりませぬ」
「じゃあ、はこぶ、おかねは、べつに、だす」
「船を守る人足の賃も」
「おこめが、ぬれたときの、そんも」
気づけば、朝の米二俵の話に戻っていた。
そうか。米を守る仕組みと、人を戦わせにくくする仕組みは、別々ではない。米が途中で失われても、その損を誰かに押しつければ、次の船は来ない。届くはずの食べ物が届かない町では、どんな約束も長続きしない。
話し合いは夕餉まで続いた。
台所から、握り飯が運ばれてきた。清正は三つ、商人たちは遠慮して一つずつ。船頭は二つ。長盛は、半分だけ取った。
清正が、船頭に自分の握り飯を一つ差し出した。
「食え。海の話は、腹が減ると荒うなる」
「……では、遠慮なく」
船頭が笑う。商人たちも、つられて手を伸ばした。
同じ米を食べていても、米の値段に困る者、運ぶ危うさを負う者、税として集める者がいる。その違いを知らずに、一枚の命令書で片づけることはできない。
評議の終わりに、清正が言った。
「拾様。これで戦は止まりませぬ」
「うん」
「されど、戦が起きたあと、飢える者は減りましょう」
それが、今日、確かに得られた答えだった。
評議のあと、清正は新しい蔵の予定地を見に出た。戻ってきた手には、一握りの土があった。
「拾様。あの場所に、そのまま蔵を建ててはなりませぬ」
「……どうして」
「土が柔らかい。昔、川の流れた跡でございましょう。重い米を積めば、蔵が傾きまする」
「なおせる?」
「杭を、今の見込みより多く打つことです。少なくとも、まずは倍の数を見ておきなされ。費えは増えますが、蔵が潰れるより安い」
清正は、湿った土を俺の掌に載せた。
「石垣も、蔵も、帳面どおりには立ちませぬ。……帳面の前に、土を見なされ」
正しかった。俺は遠くの国を結ぶ絵図ばかり見て、その絵図の下にある泥を見ていなかった。
【大坂の、皆で使う商いの道】
加わりたい家 13
条件つきで加わりたい家 21
断った家 7
【豊臣家が残る見込み】
36% → 37%
一だけ、上がった。
戦をためらわせる力は、たった二。それでも、積み替えで傷む米を減らし、飢える人を減らせるなら、始める意味はある。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.1% → 95.0%
その夜、清正と二人、縁側に座った。
月が出ていた。昼の賑わいが嘘のように、庭は静かだった。
「……拾様。治部の、最後の書状。読ませていただけましょうか」
俺は、懐から取り出した。三成から届いた、あの書状だ。
清正は月明かりに紙をかざした。《清正殿に、お伝えくださいませ。生きて戻れとの仰せ、承り申した》の一行で、手が止まった。
「……戻れぬと、分かっておったのか」
清正は、しばらく、続きを読めなかった。
「懐の一番奥にしまい申した、と。……あやつの懐は、帳面でいっぱいであったろうに」
書状を丁寧に畳み、俺に返した。
この二人は、互いを分かり合えぬまま、片方が帰らぬ人になった。商いの道を一本増やしたくらいで、人の意地や悲しみが消えるはずもなかった。
やがて、清正は立ち上がった。
「拾様。石は、握っておられまするか」
「うん」
「あれが、いつか手の中で温まっても、蔚山で帰らなんだ兵は戻りませぬ。……それだけは、お忘れなきよう」
そう言って、清正は庭へ下りていった。足音が、夜の奥へ消えていった。
翌朝、清正は伏見へ発った。出立の前、広島の正則から預かったという書状を置いていった。
《拾様。米を出さぬ者は、斬ればよろしい》
その下に、別の墨で一行。
《今のは、なし》
思わず笑った。
正則も、一度は怒りに任せて筆を走らせたのだろう。だが、書状を送る前に立ち止まった。最初の言葉を消さず、間違いまで見せてきた。
人を戦わせない仕組みは、まだできていない。
それでも、斬ると書いたあとに、やめると書ける男が一人いる。
迷う理由が、一つ増えた。




