第120話 固いパン
【豊臣家滅亡まで 残り5,119日】
南蛮人との会談の翌朝、朝餉の膳に、見覚えのある塊が載っていた。
茶色い。丸い。そして、昨日の記憶どおり、硬そうだった。
「……きのうの、ぱん?」
「はい。昨日の南蛮人より献じられた残りにございます」
且元が、答えた。
昨日の外交の席で、俺も治長も、酸っぱくて硬いそのパンを齧った。お口に合うかと問われ、二人して、美味いと嘘をついたのだった。
パン。前の世では、朝の救いの神だった。バターを塗って、珈琲と一緒に。会議に遅れそうな朝でも、片手で食べられる。
ようやく再会した味は、昨日のひと齧りで、思い出とは別物だと知った。なのに、今朝も膳に載っている。外交は終わった。今日は嘘をつかなくてもよい。
両手で、持った。
昨日より、重く感じた。
嫌な予感がした。
もう一度、噛んだ。
歯が、また負けた。
「……拾様?」
「これ、たべもの?」
「南蛮の者は、毎日、食すそうでございまする」
「まいにち、はを、きたえてるの?」
侍女が、袖で口元を押さえた。
治長が、真顔で言った。
「……湯に浸せば、柔らこうなる、とのことにございます」
それは、パンではない。非常の食べ物だ。
湯に浸した。今度は、酸っぱかった。前の世の食パンでは、なかった。
通詞を、呼んだ。
「さとうは、いれないの」
「砂糖は、高うございまする」
「たまごは」
「入れるものも、ございます」
「ちちは」
「牛の乳を、使う国もございまする」
周りの家来たちが、一斉に、顔をしかめた。牛の乳を飲む者は、この国には、ほとんどいない。
「……拾様は、南蛮の食べ物に、ようお詳しゅうございますな」
且元が、探るように言った。
まずかった。七つの子供が、パンの作り方に詳しすぎる。
「……きのう、きいた」
「昨日は、火薬と銀の話でございました」
覚えのいい家来は、時々、困る。
話を変えた。
「この、ぱん。ふねで、なんにち、もつの」
「乾かせば、長う持ちまする」
なるほど。味ではない。長く持つ。持ち運べる。火を使わずに食べられる。兵糧。船乗りの食べ物。飢饉の備え。
そこで、自分の悪い癖に、気づいた。懐かしい味を求めていたはずなのに、たったいま、それを兵糧の話に変えている。前の世で、働きすぎて死んだのに。何も、学んでいない。
「……朝から、何をなさっておるのです」
淀殿が、入ってきた。
「なんばんの、たべものを、しらべてる」
淀殿は、パンを手に取った。少しだけ、端を噛んだ。眉を寄せた。
「固い」
「だよね」
「捨てなさい」
「ながもち、する、から、つかえる」
「食べる者が歯を失えば、兵には、なりませぬ」
正しかった。
結局、台所に試させることになった。台所の頭の料理人と、焼き味噌の太郎と、干し柿の太郎が呼ばれた。
小麦の粉。湯。少しの砂糖。卵。油。種。いくつかの組み合わせを、試した。
俺は、作り方を、正しくは知らなかった。前の世でも、パンは、買う側だった。知っていることと、作れることは、違う。
試しの一つ目は、膨らまなかった。二つ目は、焦げた。三つ目は、中が生だった。四つ目は、酸っぱかった。
料理人の顔から、少しずつ、自信が消えていった。
「……申し訳、ございませぬ」
「あやまらなくて、いい。しっぱいを、かきのこして」
料理人が、固まった。
「……しくじりを、でございますか」
「つぎに、おなじ、しっぱいを、しないため」
しくじった者を叱るのは、簡単だ。しくじりを書き残させるのは、難しい。書けば、自分の咎を認めた証になる。だから、隠す。
俺は、紙に書かせた。粉の量。湯の熱さ。寝かせた時。焼いた時。できたもの。
《南蛮ぱん 試し書き》
豊臣家の立て直しの正式な書き物の隣に、パンのしくじりの書き留めが、積まれていった。
翌日、増田長盛が、その束を見つけた。
「……これは、何の帳面でございまするか」
「たべものの、しらべ」
「費えに対して、何が得られまするか」
長盛は、一枚ずつ、読んでいった。
「……試しの四つ目、砂糖を使いすぎておりまする」
「あじは、いちばん、よかった」
「兵糧に、砂糖を使うおつもりで」
「こども、むけ」
「目当てが、変わっておりまする」
返す言葉が、なかった。
長盛は、紙の束を閉じて、ぽつりと言った。
「……治部殿が見られたら、同じことを申されましたろうな」
長盛は、そう言ってから、少しだけ、目を伏せた。
その日の昼、正則が、城に上がってきた。関ヶ原のあと、安芸の国を与えられて、広島へ移る途中だった。
試しのパンを、一つ、齧った。
「……ははっ! 戦場で、敵に投げれば、石の代わりになりますな!」
「なげないで」
「濡れれば、使えぬか」
「つかいかたを、かんがえないで」
正則は、腹を抱えて笑った。笑いながら、二つ目を齧っていた。
結局、柔らかい菓子のパンは、できなかった。
だが、薄く焼いた、長持ちする小麦の餅と、乾かした船乗り用のパンが、できた。うまくはない。だが、長く持つ。水で戻せる。量を揃えられる。
台所の試し帳には、皆の見立てが並んだ。
《持ち運べる食べ物の試し》
日持ち よい
腹持ち まずまず
味 よくない
歯ごたえ 石のよう
最後の項目を書き足したのは、正則だった。自分で齧って、確かめた結果らしい。
正則は、帰る前に、俺の前に膝をついた。
「拾様。広島は、遠うございまする。次に上れるのは、いつになるか」
「……うん」
「拾様。あのときの、お約束は、守れましたかな」
「せきがはらで、みつなりに、めしを、くったか、って、きいたね」
「……あれしか、申せませなんだ」
「それで、よかった。かたなより、さきに、ことばが、でた」
視界の端に、俺だけが見られる数字が浮かんだ。
【人物評価:福島正則】
感情制御 27 → 28
正則は、もちろん、その数字を知らない。だから、俺は数を告げずに頷いた。
正則は、しばらく黙っていた。それから、大きな手で、俺の頭を、ぐしゃりと撫でた。
「……あれは、腹が減っておっただけじゃ。わしの」
昼過ぎ、台所で、試しの六つ目を焼いた。
料理人は、今度は、しくじりを先に書いてから、焼いた。
《六つ目の見込み たぶん、固い》
焼き上がった。固かった。
「……あたった」
料理人が、少しだけ、胸を張った。
「しくじりを、当てるのでございますな。……当たると、妙に、嬉しゅうございます」
見込みを書いて、当たったか外れたかを確かめる。前の世なら、仮説と検証と呼んだ。台所では、当たり外れと呼ばれるようになった。
長盛は、その日、試しの書き留めの束に、一枚、表紙をつけていた。
《台所 試し帳》
長盛の字だった。
「……ながもりも、ぱん、すき?」
「好きではございませぬ」
長盛は、真顔で言った。
「されど、しくじりを書く者が出たのは、城が始まって以来でございまする。……それは、残さねばなりませぬ」
表紙の裏に、小さく、書き添えてあった。
《治部殿に 見せたかった》
その日の夕方、淀殿が、台所の試し帳を、ちらりとのぞいていったと聞いた。
「干し柿を入れてみなさい」と、一言だけ、料理人に言って、帰っていったという。
料理人は、それを、試し帳の「次の見込み」の欄に、書き留めた。《御方様の御案 干し柿》。
その日のうちに、七つ目が焼かれた。干し柿入り。少しだけ、柔らかかった。
料理人は、試し帳に、七つ目の見込みと、当たり外れを、並べて書いた。《見込み 柔らかい 外れ》。
夕方、町の子供たちに、砂糖を少し塗った試しのパンを、配った。
子供たちは、固いパンを湯に浸して、笑いながら食べた。
「うまい?」
一人に、聞いた。
「……甘いです」
うまい、とは言わなかった。正直な客だった。
【新しい試み】
南蛮ぱんを、国で作る
判定 保留
ほっとした。国の命運まで、パンに背負わせるところだった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.3% → 95.3%
変わらなかった。当たり前だった。
その夜、干し柿の太郎が、試しの五つ目を、こっそり持ってきた。干し柿を刻んで、練り込んであった。
少しだけ、柔らかかった。少しだけ、甘かった。
「……これ、かきのこした?」
「……いえ」
「かいて」
太郎は、困った顔で、頭を掻いた。字が、書けないのだ。
「……じゃあ、おれが、かく」
《五つ目 干し柿入り 干し柿の太郎 いちばん うまい》




