第12話 手を洗う意味が違う
【豊臣家滅亡まで 残り6,097日】
翌朝、利家の屋敷の入口に、桶が置かれた。湯と、灰汁と、清潔な布。
木灰を水に浸して得た灰汁にはアルカリ成分(炭酸カリウムなど)が含まれており、油脂や皮脂汚れを落とす効果がある。
簡単な話だと思っていた。医師と看病人が、患者に触れる前と後に手を洗う。布は分ける。匙や器も分ける。前世なら、通知一枚で済む。
昼までに、その考えは粉々になった。
最初に来た前田家の侍医は、桶の前で止まり、床几に座った俺を見て、深く頭を下げ、そのまま通り過ぎようとした。
「て」
「朝、清めてまいりました」
「いま」
「冷えますれば、脈が取りにくく」
「ゆ、です」
湯である。逃げ道はない。侍医は渋々手を洗い、少し怒った顔で振り返った。
「……利家様が、汚れておられると申されますか」
違う。清潔の話は、一歩間違えると患者への侮辱になる。
「としいえ、きたない、ちがう。てから、てへ、うつる。みえない、もの」
「御穢れでございますか」
後ろの僧医が尋ねる。
「ちがう」
「邪気」
「ちがう」
「虫」
近い。だが、この時代の虫と、微生物は同じではない。
「……わからない」
侍医がさらに困った顔をした。五歳児に、分からないものを防ぐために手を洗えと言われているのだ。
「拾様の御命令にございます。洗わぬ者は、名を記します」
背後から三成の声がした。朝から記録板を抱えている。
【石田三成 出現条件】
「記録」「書式」「数字」のいずれかが発言された場合 出現率100%
いつから後ろにいたのかは、誰にも分からない。
「かかない」
「しかし、守ったかどうかを確かめるには」
「かかない。たりないものを、かく。ゆがない。ぬのがない。じかんがない」
守らない人を罰すれば、皆が守ったふりをする。守れない理由を書けば、手順を直せる。劉禅として何十年もかかって学んだことだった。
三成は不満そうだったが、筆を下ろした。
「……では、不足と障りを記します」
昼までに分かったことは、制度とは命令した中身ではなく、現場で実際に行われた行動だということだった。
ある者は、病室へ入る前の禊だと考えた。ある者は、豊臣家が前田家の清浄を疑っていると受け取った。ある者は、灰汁で洗えば薬が効くと思った。昨日と同じ布で拭く者、湯が熱すぎて手を入れたふりをする者。入口に桶が一つしかないから列ができ、忙しい者は横を通り抜けた。
【手洗い遵守率】
七パーセント
妥当だった。
「もうひとつ、おく。へやの、まえ」
「湯を保つ人手が要りまする。専任を置くと」
「せんにん、ちがう。いまの、しごとに、いれる」
三成は、少し考えただけで答えを出した。
「湯殿役と台所役に、刻限を分けて担わせる。布の洗いと交換は衣装方へ。使うた布は籠を分ける」
速い。人の感情を扱うのは苦手でも、手順を分ける力は異常に高い。
「桶の湯を、次の者が使うのは」
確かに。一つの桶に手を入れる方式では、湯そのものが汚れる。
「かける。ひしゃくで」
「掛け流し。受ける桶を分ける。……場所は入口ではなく、診察の手前に」
三成は図を描き始めた。俺より上手い。顔が少し明るかった。仕組みが形になる瞬間が好きなのだろう。俺も好きだ。だから、作り込みすぎる。
「項目を増やしまする」
「だめ」
先に止めた。
昼過ぎ、奥から声がした。
「その桶は、どこじゃ」
利家だった。側近に両脇を支えられ、寝衣の上に羽織をかけただけの姿で、廊下へ出てきていた。まつが後ろから、困り果てた顔でついてくる。
「としいえ、ねてて」
「聞いたぞ。医師どもが、わしを汚れ者扱いされたと怒っておるそうではないか」
侍医が青くなった。利家は、桶の前まで来ると、柄杓を取った。
「ならば、わしが先に洗おう。病人が洗うておるものを、医師が洗わぬわけにもいくまい」
利家は、震える手で湯をかけ、灰汁をつけ、布で拭いた。一つ一つ、確かめるように。
それから、並んでいた者たちを振り返った。
「これは、わしのためではない。わしの次に病む者のためじゃ。分かったら、洗え」
誰も何も言わなかった。黙って、列が動き始めた。
命令ではなかった。だが、どんな命令よりもよく効いた。利家は、自分の身体を使って、手洗いの意味を「疑い」から「思いやり」へ書き換えてしまったのだ。
部屋へ戻る利家の背中に、俺は小さく頭を下げた。この人の仕事は、やはり調停なのだ。人と人の間だけでなく、人と仕組みの間まで。
午後、曲直瀬玄朔が来た。玄朔は文句一つ言わず、柄杓の湯をかけ、石鹸代わりの灰汁を使い、指の間と爪の周りまで丁寧に洗った。
「そこまで?」
「目に見えぬ汚れであれば、隠れるところへ入りましょう」
玄朔が洗うと、他の医師たちも黙って真似をした。命令より、尊敬される専門家の振る舞いの方がよく広がる。
「最初から、曲直瀬殿に命じればよかったのでは」
三成が小声で言った。
「めいじる、ちがう。やって、もらう」
玄朔は、俺たちのやりとりを聞いていた。
「拾様。これは、利家様だけに行うのでございますか」
利家だけに行えば、利家が特別に汚れているように見える。
「みんな。きず。こども。あかご。おさん」
玄朔の表情が変わった。
「……御産の前にも。産婆にも。まず城内で試し、よければ門人に伝えましょう。膿む傷の数、産後に熱を出す者の数。長く記せば、違いが見えるやもしれませぬ」
「しんだ、かずも」
部屋が静まった。死を数にすることへの抵抗は、この時代にもある。
「……御名も、記しますか」
「うん」
数だけではない。名前も残す。数えるのは、人を数字に消すためではない。同じ死を減らすためだ。
夕刻、遵守率は三十一パーセントになった。一日目としては悪くない。
そのとき、廊下の向こうで器が落ちる音がした。
若い侍女が一人、壁に手をついていた。顔が赤い。息が荒い。今朝から何度も、利家の部屋に膳を運んでいた娘だった。
「どうした」
三成が近づこうとした。
「さわらない!」
俺は叫んだ。全員が止まった。
玄朔が湯で手を洗い、布を一枚取って、侍女の額と首に触れた。
「熱がございます」
侍女は、真っ青になった。熱のせいではなかった。
「今朝から、少し寒うございましたが……大事ございませぬ。まだ、働けます」
「べつの、へや。やすむ」
侍女は、その場に崩れるように伏した。
「お役を、外されるのでございますか。お許しくださいませ。小萩は、まだ働けます。郷の母と、弟が……」
声が震えていた。名は小萩というらしい。十四か十五くらいだろうか。加賀の村から奉公に上がり、扶持のほとんどを母と弟へ送っているのだと、あとで聞いた。
病を隠す一番の理由は、仕事を失う恐れだ。前世の会社でも見た。熱があっても出社する。咳をしながら会議に出る。休めば評価が下がり、居場所がなくなるからだ。
俺は床几から降りて、小萩の前にしゃがんだ。
「こはぎ」
「……はい」
「わるくない。いった。えらい」
小萩が顔を上げた。
「なおったら、もどる。ごはんも、くすりも、でる。やすむのが、しごと」
小萩は、しばらく意味が分からないという顔をしていた。それから、ぼろぼろと泣き出した。
「申し訳、ございませぬ。申し訳……」
「あやまらない」
玄朔が、小萩を別室へ連れていった。三成が、黙ってその背中を見送っていた。
「……拾様」
「なに」
「病を申し出た者を罰すれば、病は隠される。申し出た者を守れば、早う見つけられる。そういうことにございますな」
「うん」
三成は記録板に何かを書いた。覗き込むと、こうあった。
――熱を申し出た者、扶持を止めぬこと。
俺は頷いた。この男は、違反者を探すためではない記録の書き方を、少しずつ覚え始めている。
感染対策は、手を洗えという命令ではない。手を洗える場所を作り、熱を言っても責められず、休んでも食べていける仕組みまで含めて、初めて制度になる。
その夜、別室の前を通ると、中から小さな声が聞こえた。小萩が、看病役の年かさの女房に、郷の弟の話をしていた。弟は八つで、字を習い始めたばかりなのだという。
「休んでも、扶持が出るのでございますか。本当に」
「拾様が、そう仰せられたのですよ」
「……五つの若様が」
小萩の声が、少し笑った。熱で掠れた、弱い笑い声だった。
それだけで、今日一日の遵守率よりも、確かな手応えがあった。
一つ手順を作れば、次の問題が見える。見えない問題より、見える問題の方がずっと扱いやすい。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.8% → 97.4%
小萩が笑った分だけ、と思うことにした。
三日後、利家の枕元に八人の医師が集まった。そして、なぜか、石田三成も。




