第115話 大坂という怪物
【豊臣家滅亡まで 残り5,150日】
城から町を見ると、遠くからなら、整って見えた。
屋根が並び、道が走り、川には船が浮かぶ。人が動き、荷が動き、金が動く。本丸の窓から見下ろす大坂は、よくできた箱庭のようだった。
だが、近づけば、全部が違った。
関ヶ原のあと、初めて、城の外へ出た。
供は、片桐且元。大野治長。護衛が十二人。町役人が三人。それに、淀殿が付けた侍女が二人。弥七は、頼まれもしないのに、草履を二足持ってついてきた。
「……おおくない?」
「少のうございます」
且元が答えた。
「まちを、みるだけ」
「町が、拾様を見るのでございます」
城の門を出た途端、町の者たちが、一斉に道の端に座った。魚をさばいていた者も、炭を担いでいた者も、手を止めて、頭を下げた。
これでは、いつもの町は見えない。
前の世でも、同じだった。社長が工場を見に来る日は、床が前の晩に磨かれ、不良品は奥に隠され、説明のうまい者だけが前に出てきた。
「……みんなに、たって、はたらいて、って、いって」
町役人が、困った顔をした。それでも、触れ回ってくれた。町の者たちは、恐る恐る立ち上がって、恐る恐る仕事に戻った。誰も、こちらを見ないようにしていた。見ないようにしているのが、よく分かった。
道端に、俺とそれほど年の違わない少年がいた。背中に、大きな炭の籠を負っていた。縄が肩に食い込んで、肌が赤く腫れていた。
「おもい?」
「重うございませぬ」
嘘だった。
「どこまで、はこぶの」
「天満まで」
「ひとりで?」
「はい」
俺は、且元を見た。且元は、町役人を見た。町役人は、炭問屋の番頭を見た。番頭は、地面を見た。
責めが、順番に、下へ落ちていった。
「だれが、この、りょうを、きめたの」
誰も、答えなかった。
大坂城の中と、同じだった。誰が決めたのか分からない。ただ、仕事だけが、動いている。
「きょうは、かごを、おろして」
且元が、小声で言った。
「拾様。同じ子は、町に百人おりまする」
「わかってる」
百人いるから、目の前の一人を助けなくていい、ということにはならない。
だが、一人を休ませれば、その家族が飢えるかもしれない。
「……母と、妹が、おりまする」
少年が、言った。
仕事を取り上げれば、別のところが壊れる。町は、城より、ずっとややこしかった。
弥七が、黙って、持ってきた草履の一足を、少年の前に置いた。少年の草履は、底が抜けかけていた。
少年は、草履と弥七の顔を、何度も見比べた。それから、深く頭を下げて、新しい草履を履いた。炭の籠は、背負ったままだった。
市へ進んだ。
魚。味噌。紙。油。薬種。材木。酒。古着。刃物。
城では、話す者が決まっている。町では、全員が、同時に話していた。値を言う。断る。怒る。笑う。押し返す。まけさせる。
人物評価の数字が、追いつかなかった。
【対象が多すぎます】
【一人ずつの評価を止めます】
「……やくに、たたない」
「何か、仰せで」
「なんでも、ない」
市の角で、怒鳴り合いが始まった。
味噌屋と、浪人ふうの男だった。男は、腰に刀を差していた。着物は、泥と汗で色が変わっていた。関ヶ原のあと、主家を失った者たちが、大坂の町に、毎日のように流れ込んでいた。
「銭は、明日払う!」
「昨日も、そう申されました!」
男の手が、刀の柄にかかった。
町の者たちが、さっと引いた。護衛の侍たちが、俺の前に出た。
「……まって」
俺は、侍たちの間から、顔を出した。
浪人の男が、こちらを見た。子供がいる、と思ったのだろう。それから、子供の後ろの、豊臣の紋の入った着物を着た侍たちを見た。顔色が、変わった。
「……な、何でもござらぬ」
男は、柄から手を離した。
「なにを、かおうと、したの」
男は、しばらく黙っていた。
「……味噌を、一椀分」
「どうして、ぎんが、ないの」
「主家が、なくなり申した。美濃で」
西軍の家の者だった。
「……なまえ、おしえて」
男の顔が、固まった。名を聞かれるのは、捕らえられることだと思ったのだろう。
「つかまえない。ちょうめんに、かく。しごとを、さがすため」
「……帳面」
且元が、懐から紙を出した。奉公人の帳面の、白紙だった。いつも持ち歩いているのだ。
男は、ためらった末に、名を名乗った。且元が、書き留めた。どこの家に仕え、何ができるか。槍と、算用が少し。
治長が、味噌屋に、銭を払った。一椀分。
男は、何度も頭を下げて、人混みに消えていった。
「……拾様」
治長が、低い声で言った。
「今の者のような浪人が、大坂に、何千とおりまするぞ」
「なんぜん」
「数えた者は、おりませぬが」
数えた者は、いない。また、それだった。
川へ向かう途中、寺の前を通った。
関ヶ原のあと、傷ついた者たちを受け入れた寺だった。本堂の縁側に、まだ、何人かが座っていた。足に布を巻いた者。片腕を吊った者。
その中に、見覚えのある顔があった。
宇喜多の足軽の妻。戦後簿の「不明」の頁に、紙切れを挟んでいった女だった。女の隣に、痩せた男が座っていた。片足に、添え木を当てていた。
女は、俺に気づいて、立ち上がった。それから、隣の男の肩に手を置いた。
「……若様。見つかりました。播磨の寺に、おりました」
男は、立ち上がろうとして、よろけた。女が、支えた。
「……そのまま、すわってて」
男は、座ったまま、深く、頭を下げた。額が、縁側の板についた。
戦後簿の「不明」が、一つ、「確か」に変わった。
且元が、懐の帳面を出して、その場で書き直した。筆が、少しだけ震えていた。
川へ出た。
船が、途切れずに入ってきていた。米俵。材木。塩。魚。炭。人。噂。
大坂は、城下町ではなかった。海と川と道が、全部を集めて、また別の場所へ流す。大きな心の臓のようなものだった。
「いちにちに、なんそう、ふねが、はいるの」
町役人は、答えられなかった。
「こめは、どれくらい」
答えられなかった。
「きょねんの、かじは」
答えられなかった。
「いどの、かずは」
答えられなかった。
「かわやは」
治長が、咳払いをした。
「……拾様。町じゅうの厠を、数えるおつもりで」
「いる」
誰も、やりたくなさそうだった。だから、要るのだ。
火が出れば、一夜で焼ける。病が出れば、船と道で広がる。米が止まれば、何万人が飢える。一つの命では動かせない。だが、一つの誤りで、大勢が死ぬ。
城へ戻る途中、数字が出た。
【新しい評価の対象】
大坂
人の数 推し量れず
物の流れ 推し量れず
清潔さ 不明
火の危うさ 高
これから伸びる力 SS
治められる度合い D
「……おつかれですか」
且元が、聞いた。
「ううん」
俺は、町を振り返った。夕日の中で、何千もの屋根が、赤く光っていた。
「かいぶつを、みつけた」
「怪物」
「おおさか、という、かいぶつ」
父は、城を作った。だが、その周りに生まれたものは、もう、父のものではなかった。この怪物を、支配するのではない。生かさなければならない。
城に戻ってから、治長に、厠の数を数える役を、誰に任せるか聞いた。
治長は、しばらく考えてから、答えた。
「……寺の小僧が、よろしいかと。数えるものがないと、足の指を数えると申しておりましたゆえ」
「……ひきうける?」
「喜んで、引き受けましょう。数えるものなら、何でも」
三日後、小僧は、天満の一町分の厠を数えて戻ってきた。百十七。井戸は、九つ。そのうち、二つは、厠のすぐ隣にあった。
玄朔が、その知らせを読んで、顔色を変えた。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.6% → 95.8%
門をくぐるとき、弥七が、空になった草履の包みを、畳んで懐にしまった。
「……やしち。あの、くつ」
「予備でございました。拾様の」
「……おれの、は」
「わたくしのを、お貸しいたしまする」
弥七は、にこにこと笑っていた。自分の草履の鼻緒が、切れかけていた。




