第113話 確かな命と、あとの読み
【豊臣家滅亡まで 残り5,210日】
変える案を出すたびに、同じ言葉が、返ってきた。
「太閤殿下の、御遺志にございまする」
便利な言葉だった。反対にも使える。賛成にも使える。何もしない理由にも、急ぐ理由にもなる。
根拠を示せ、という決まりは、もう作ってあった。北政所に笑われた、あの決まりだ。日時。場所。関わった者。事情。
だが、皆、すぐに慣れた。根拠を、探してくるようになったのだ。
「奉公人の帳面を作りまする」
「太閤殿下も、人を大切になされた。天正十五年、九州の陣にて」
賛成。
「役目を、分けまする」
「太閤殿下は、すべてを御覧になられた。文禄二年、伏見の普請にて」
反対。
「蔵の出を、書き留めまする」
「太閤殿下は、要るときは、惜しまずお使いになった。天正十六年、刀狩りの折」
反対。
「傷を負うた者の扶けを、続けまする」
「太閤殿下は、兵を愛されました。慶長三年、朝鮮より帰す命」
賛成。
何でも言えた。根拠は、いくらでもあった。秀吉は、四十年、天下を駆け回った人だ。その四十年のどこかから、欲しい言葉を、一つ探してくればいい。
死んだ人は、何にでもなる根拠だった。しかも、言い返さない。
俺は、評議の真ん中に、紙を一枚、置いた。
《太閤殿下の御遺志》
その下に、欄を二つ。
《確かな命》
《あとの読み》
家来たちが、嫌な顔をした。
「……御遺志を、疑うのでございますか」
治長が、言った。
「うたがわない。わける」
「何を」
「とうさまが、ほんとうに、めいじたことと。とうさまなら、こうしたと、おれたちが、おもうことを」
書き物があるもの。朱印状。掟書。奉行への指図。誓紙。遺言。
書き物がないもの。誰かが宴の席で聞いた。誰かが廊下で聞いた。誰かの家来が、別の家来から聞いた。そして、書き物はあっても、今の事情に当てはめるために、誰かが読み替えたもの。
「あとの読みを、禁ずるのでございますか」
「ううん。あとの、よみって、かいて。めいれいじゃ、なくて、いけんとして、あつかう」
ざわめきが、起きた。
小さな変え方に見えた。だが、大きかった。
太閤殿下ならこうなされた、と言えば、話が終わった。これからは、なぜそう考えるのか、自分の口で説明しなければならない。死んだ人の言葉を、生きている者の力から、切り離す。
増田長盛が、最初に、筆を取った。
《確かな命》朝鮮より、全軍を帰すこと。
《あとの読み》帰った兵と遺族を、豊臣家が扶けるべきである。 増田長盛
「……これで、よろしゅうございますか」
「うん。あとの、よみは、まちがってても、いい」
「間違うても」
「うん。でも、だれの、よみかは、のこして」
責めが、生まれる。考えが、亡霊の声ではなく、生きた人の言葉になる。
次に、片桐且元が、筆を取った。
《確かな命》
且元は、そこで、手を止めた。それから、ゆっくりと書いた。
《秀頼を、頼む》
部屋が、静かになった。
秀吉が、何度も言った言葉だった。家康にも。利家にも。大名たちにも。女房衆にも。死ぬ前の、熱い手で、俺の手を握りながら、何度も。
「……あとの、よみは」
且元は、筆を持ったまま、長いこと、書けなかった。
やがて、ゆっくりと、書いた。
《あとの読み》秀頼様の命に、すべて従うことではない。秀頼様が誤るとき、止めることを含む。 片桐且元
治長が、顔を上げた。淀殿も、俺を見た。
俺は、且元に、頭を下げた。
「……その、よみを、のこして」
「は」
「とうさまが、おれを、たのむって、いったから、おれを、とめられない、いえ。それじゃ、とうさまの、ねがいを、まもったことに、ならない」
且元は、筆を置いてから、ぽつりと言った。
「……拙者は、太閤殿下のお側で、何度も、秀頼を頼む、と伺いました。そのたびに、はい、とだけ、申し上げました。……頼まれたことの中身を、一度も、伺いませなんだ」
「……うん」
「伺うておれば、殿下は、何と仰せになったか。……もう、分かりませぬ。ゆえに、読むしか、ございませぬ」
【太閤殿下に頼っている度合い】
89% → 79%
初めて、大きく、下がった。
だが、同時に、別の数字が、上がった。
【主人公依存度】
57 → 61
「……どうして」
【秀頼が、太閤殿下の威光を、読み直しました】
「ひつようだった」
【要ることと、頼られないことは、別です】
また、同じ罠だった。秀吉に頼るのを減らすために、俺が決める。俺が読む。俺が決まりを書く。その結果、豊臣家は、秀吉の影から出て、俺の影に入る。
「かつもと」
「は」
「これから、ごいしの、わけかたを、おれ、ひとりで、きめない」
「では」
「たしかめる、やく、さんにん。よむ、やく、ごにん。それと、はんたいする、やく、ひとり。かならず」
「反対する、役」
「うん。だれも、はんたいしない、ときは。はんたいする、やくを、きめる」
治長が、嫌そうな顔をした。
「……その役、拙者に回ってきそうでございますな」
「むいてる」
「褒められた気が、いたしませぬ」
「ほめてる」
【人物評価:大野治長】
反対を口にする力 38 → 42
少しだけ、笑いが起きた。
秀吉の影は、消えない。消す必要もない。影があることを、知る。どこからが、自分たちの考えなのかを、書き残す。それだけで、死んだ人は、命じる者ではなく、思い出になる。
次の議題で、さっそく、試した。
《城下の井戸を、新しく三つ掘る》
誰も、反対しなかった。当たり前だった。水は、要る。
「はるなが。はんたい、して」
治長が、心底嫌そうな顔をした。
「……拙者も、賛成にございますが」
「やく、だから」
治長は、長いこと、黙って考えていた。
「……井戸を三つ掘れば、掘る人足の賃が、要りまする。その賃で、古い井戸を、五つ浚えまする」
部屋が、静まった。
「古い井戸のうち、二つは、夏に水が腐ると、町の者が申しておりました。新しく掘るより、先に、浚えるべきかと」
玄以が、帳面をめくった。
「……確かに、北の井戸二つに、訴えが出ておりまする」
結局、井戸は、二つ新しく掘って、三つ浚えることになった。
治長は、決まったあとで、ぼそりと言った。
「……反対のつもりが、案を出してしまいました」
「それで、いい」
「役目としては、しくじりでは」
「せいこう」
治長は、納得していない顔をした。だが、少しだけ、口の端が上がっていた。
評議の終わりに、淀殿が、紙を一枚、置いた。
自分の字で、書いてあった。
《確かな命》秀頼を、頼む。
《あとの読み》秀頼を、秀吉にしないこと。
名は、書いていなかった。
俺は、母を見た。
母は、こちらを見なかった。ただ、扇を、閉じた。
それが、仲直りの、しるしだった。
治長の「反対」が、評議の書き留めに、初めて、役目として記された日だった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.7% → 95.5%
評議のあと、小野が、紙を一枚、持ってきた。
「拾様。……あとの読みを、わたくしも、一つ、書いてよろしゅうございますか」
「いい」
小野は、紙を置いた。
《確かな命》天下の者、身分を問わず、才ある者を取り立てよ。
《あとの読み》奥の女房も、天下の者に入る。 小野
「……とうさま、そんな、めいれい、したの」
「いたしました。天正の頃、大坂の町に高札を」
小野は、すました顔で言った。
「根拠は、書き物にて、ございまする」
「……いれる」
小野は、少しだけ、胸を張った。
その夜、「確かな命」の紙を、三成の七つの箱の一番上に、そっと置いた。
三成なら、何と言っただろう。たぶん、紙の端に、小さく朱を入れる。
《至言》
あるいは。
《あとの読みの欄、書式を統一すべし》
どちらでも、よかった。




