第112話 母の試験
【豊臣家滅亡まで 残り5,220日】
母は、それから、さらに三日、政の話をしなかった。
同じ城にいる。同じ膳を食べる。朝の挨拶もする。だが、帳面の話も、評議の話も、しない。
これは、かなり、怖かった。怒鳴られる方が、まだ分かりやすい。
侍女たちも、困っていた。淀殿付きの侍女が、俺付きの侍女に、そっと様子を聞きに来る。俺付きの侍女が、淀殿付きの侍女に、そっと様子を聞きに行く。廊下の角で、二人の侍女が鉢合わせして、どちらも黙って頭を下げて、すれ違っていくのを、三度見た。
四日目、自分から、淀殿の部屋へ行った。
「ははうえ」
「何です」
「はなしが、ある」
「わたくしには、ございませぬ」
速かった。
「じゃあ、おれが、はなす」
「聞くとは、申しておりませぬ」
「きこえるように、はなす」
扇が、少し動いた。怒っていた。
俺は、座った。
「とうさまを、わるく、いうつもりは、なかった」
「悪く、申しました」
「かけが、あったって」
「申しました」
「……あった」
扇が、閉じた。
「秀頼」
声が、低かった。
「父上のおかげで、今のあなたが、あるのです」
「うん」
「父上が天下を取られたから、あなたは、この城におる」
「うん」
「父上の名があるから、家来は、あなたに頭を下げる」
「うん」
「その父上を、死んだあとで、裁くのですか」
「さばかない」
「では、何です」
「ひきつげない、ところを。ひきつげないって、いってる」
淀殿が、立った。
「引き継ぎなさい」
「むり」
「なぜ」
「おれは、とうさまじゃ、ない」
沈黙。
その言葉は、母を、傷つけた。分かった。だが、止められなかった。
「とうさまみたいに、ひとの、かおを、いちどで、おぼえられない。とうさまみたいに、ひゃくにんの、はなしを、いっぺんに、きけない。とうさまみたいに、てきを、わらわせながら、したがわせることも、できない」
「ならば、できるように、なりなさい」
「できない、ひとが、できる、ふりを、するほうが。とよとみけを、ほろぼす」
淀殿の顔が、白くなった。
言いすぎた。分かった。それでも、取り消せなかった。
「……ははうえは。おれが、とうさまみたいに、なったら。あんしん、する?」
「当然です」
「ほんとうに?」
淀殿は、答えなかった。
秀吉のようになる。それは、大名を競わせることだ。大きな城を作ることだ。富を集めることだ。朝廷の威光を使うことだ。海を越えて、兵を出すことだ。跡継ぎのために、力を一つに集めることだ。
淀殿が、本当に望んでいるのは、その全部ではなかった。淀殿が望んでいるのは、俺が、生きていることだった。
「ははうえ。おれは、てんかびとに、なりたいんじゃ、ない」
「……何を、申すのです」
淀殿の声が、震えた。
「とよとみけを、のこしたい」
「同じことです」
「ちがう」
「同じです」
「ちがう」
子供の喧嘩のようだった。だが、違った。天下人であり続けることと、家を残すことは、同じではない。時には、反対になる。
「……天下を、手放せと、申すのですか」
答えられなかった。
北政所の前で、書けなかった二文字。
《てんか》
まだ、手放せなかった。
「……いまは、きめられない」
淀殿は、俺を見た。怒り。悲しみ。少しの安堵。少しの、がっかり。全部が、一つの顔に、あった。
「ならば。父上を卒業するなどと、軽々しく、申されますな」
正しかった。
俺は、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「謝れば済むと、思うておりまするか」
「おもってない」
「では」
淀殿は、扇を、開いた。
「しるしを、お見せなさい」
「……しるし」
「父上を超えぬと申すなら。父上と違うやり方で、この家を残して、みせなさい」
試しだった。
母は、反対したのではなかった。証を、求めたのだ。
「……わかった」
部屋を出ようとしたとき、淀殿が、呼んだ。
「秀頼」
「うん」
「わたくしは」
少し、間があった。
「父上のようになれと、申したいのでは、ございませぬ」
振り返った。
「父上のように。……皆に、捨てられることを、恐れておるのです」
秀吉は、死ぬ前、何度も誓わせた。秀頼を頼む。豊臣家を頼む。頭を下げた。天下人が、家来に。それでも、死んで一年で、誓いは崩れた。
母が恐れているのは、秀吉の栄華を失うことではなかった。秀吉が死んだあとに起きたことを、俺が死んだあとにも、繰り返すことだった。
「……ははうえ」
「何です」
「すてられない、いえを、つくる」
「違います」
すぐに、返された。
「捨てられても、残る家を、お作りなさい」
言葉を、失った。
母は、俺より先に、決まりの芯に、辿り着いていた。
忠義は、保証できない。裏切りを、消すこともできない。だから、裏切られても、一緒に崩れない家を作る。
淀殿は、それだけ言って、扇を少し下ろした。目元が、赤かった。泣いてはいなかった。治長の言った通りだった。泣かないまま、こらえていた。
俺は、しばらく、何も言えなかった。
「……ははうえ。それ、ちょうめんに、かいて、いい?」
「……帳面に」
「いえを、のこす、じょうけんの、ところに」
淀殿は、しばらく黙っていた。それから、扇で、口元を隠した。
「……わたくしの名は、書かずにおきなさい」
「どうして」
「帳面に名が残るのは、治部と、あなたの仕事でございましょう」
扇の陰で、母が、どんな顔をしていたのかは、分からなかった。
部屋を出ると、廊下に、治長が控えていた。
「……拾様」
「きいてた?」
「聞こえてしまいました」
治長は、少しだけ、目を伏せた。
「御方様が、ああいうことを、口に出して申されたのは、初めてでございます。……捨てられることを、恐れておる、など」
「……はるなが」
「は」
「ははうえを、ひとりに、しないで」
治長は、顔を上げた。長いこと、俺を見ていた。
「……それは、拙者の、望む役目にございます」
治長は、深く頭を下げた。
部屋に戻って、弥七に聞いた。
「やしち。ははうえに、しるしを、みせろって、いわれた」
「しるし、でございますか」
「うん。とうさまと、ちがう、やりかたで、いえを、のこす、しるし」
弥七は、しばらく考えた。
「……拾様が、夜、ちゃんとお休みになることでは、ございませぬか」
「……それが、しるし?」
「太閤殿下は、ほとんど、お休みにならなかったと、聞いておりまする」
弥七は、真面目な顔だった。
俺は、笑おうとして、笑えなかった。
その夜、弥七の言葉を試してみた。灯明を消して、帳面を閉じて、布団に入った。
眠れなかった。目を閉じると、帳面の数字が浮かんだ。不明の文字が、いくつも。七つの箱。干し飯の袋。清正の石。
結局、夜中に起き出して、帳面を開いた。
休むのは、帳面を作るより、ずっと難しかった。弥七は、隣の部屋で、すうすうと寝息を立てていた。雨の日でもないのに。
隣の部屋では、弥七が、すうすうと寝息を立てていた。雨の日でもないのに、よく眠る少年だった。少しだけ、羨ましかった。
【人物評価:淀殿】
危うさを察する力 98
失うことを避ける心 96
人を信じる度合い 21
母であること 100
最後の数字を見て、目を閉じた。
母は、豊臣家を守りたいのではなかった。俺を守りたいのだ。そのために、豊臣家が要るのだ。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.8% → 95.9% → 95.7%
一度上がって、下がった。母との話は、いつも、こういう形をしていた。
その夜、「家を残す条件」の帳面に、一行、書き足した。名前は、書かなかった。
《すてられても、のこる、いえを、つくる》
翌朝、淀殿付きの侍女と、俺付きの侍女が、廊下の角で鉢合わせした。二人とも、今度は、少しだけ、笑って頭を下げた。




