第111話 卒業の単位
【豊臣家滅亡まで 残り5,225日】
父を超える。
その言葉は、便利だった。物語になる。少年が、偉大な父を越える。家来も喜ぶ。母は、たぶん、喜ばない。そして、俺も、違うと思った。
三日後、片桐の屋敷に、北政所を訪ねた。
淀殿とは、まだ、政の話をしていなかった。朝の挨拶はする。夕餉も一緒に食べる。だが、帳面の話になると、淀殿は、黙って箸を置いた。
先に、秀吉を一番長く見てきた人の話を、聞きたかった。
且元の屋敷の奥の間は、狭かった。北政所は、そこで、一人で茶を点てていた。
「……とうさまは、なにを、こわがってたの」
北政所は、茶筅を動かす手を、止めなかった。
「恐れぬふりを、することをでございます」
「……それ、こたえに、なってる?」
「なっておりまする」
北政所は、茶碗を置いた。
「殿は、自分が低い生まれであることを、一日も、忘れませなんだ。ゆえに、誰よりも、上へ行こうとした。上へ行けば、安心できると、思うておったのでしょう」
「あんしん、できた?」
北政所は、笑った。悲しい笑いだった。
「天下を取ったあとが、一番、不安そうでございました」
俺は、黙った。
秀吉は、天下を取った。だが、取ったあと、その天下をどう終えるかを、決められなかった。戦を終えるために、さらに戦をした。海の向こうへ。威光を守るために、さらに威光を示した。大仏を建て、聚楽第を建て、伏見の城を建てた。跡継ぎを守るために、大名たちに誓紙を書かせた。
だが、誓いは、死んだ者には、届かない。
「……とうさまを、こえようと、おもってた」
「そうでしょうね」
「むり」
「早う、気づかれましたな」
「いつつの、ころから、おもってた」
「今は、七つ」
「にねん、かかった」
北政所が、笑った。
「十分、早うございます」
俺も、少し笑った。
「とうさまより、おおきい、りょうち。とうさまより、おおきい、しろ。とうさまより、おおくの、だいみょうを、したがえる。……それは、ぜんぶ、とうさまの、きょうぎ」
北政所の目が、細くなった。
「競技」
「とうさまが、つくった、かちかた。その、かちかたで、とうさまに、かとうとしたら。とうさまから、はなれられない」
「では、どうなさる」
「そつぎょう、する」
言葉にした。
長政に、橋の袂の飯屋で言ったのと、同じ言葉だった。だが、あの時は、ただの思いつきだった。今は、少しだけ、重さがあった。
父を超えるのではない。父の続きにならない。豊臣家が、秀吉の物語の、最後の章ではなく、新しい物語の、最初の章になる。
「てんかびとの、いえじゃ、なくて。ひとが、くらして、はたらいて、こどもを、そだてて。あるじが、しんでも、つづく、いえに、する」
北政所は、しばらく、俺を見ていた。
「……地味で、ございますな」
「ひどい」
「殿なら、嫌がりまする」
「……だよね」
「されど」
北政所は、茶碗を、俺の前に差し出した。
「わたくしは、好きでございます」
茶を、飲んだ。苦かった。七つの舌には、まだ苦かった。顔に出たらしい。北政所が、声を立てずに笑った。
「一つだけ」
北政所が、言った。
「卒業なさるなら、捨てるものを、決めなされ」
「すてるもの」
「天下人の家には、持っておるだけで、人を殺すものが、ございまする」
領地。金。城。血筋。名乗り。太閤の遺志。
それは、財だった。同時に、戦を呼ぶ、借りでもあった。
「……ぜんぶは、もてない?」
「殿も、そう思うておりました」
北政所は、静かに答えた。
「ゆえに、最後まで、手放せませなんだ」
北政所は、茶碗を片付けながら、ふと、言った。
「殿はね、拾。長浜の城の頃、干し柿を、いつも懐に入れて歩いておりました」
「……ほしがき」
「百姓の家の軒に吊るしてあるのを、見るたびに、一つ分けてくれ、と。銭を払うて。城の主が、百姓に、干し柿を一つ、売ってくれと頭を下げる」
北政所は、少し笑った。
「皆、笑いました。されど、その村の者たちは、戦になると、真っ先に、殿の兵糧を運んでくれた。……殿は、それを、分かってやっておったのか、ただ干し柿が好きだったのか。わたくしにも、分かりませなんだ」
「……りょうほう、だと、おもう」
「そうかもしれませぬ」
北政所は、茶碗を布で拭いた。
「拾。父上を超えぬと申すなら、殿の、干し柿の方だけ、お継ぎなされ。天下の方ではなく」
且元の屋敷を出るとき、且元の妻が、門まで見送りに出てきた。小柄で、よく笑う人だった。
「若様。うちの人は、近頃、寝言で、帳面の話ばかりいたしまする」
「……ごめん」
「いえ。前は、寝言で、謝ってばかりおりましたから」
且元の妻は、笑った。
「誰に謝っておるのか、聞いても、覚えておらぬと。……帳面の寝言の方が、よほど、ましでございます」
且元が、後ろで、赤い顔をしていた。
帰りの駕籠の中で、帳面に、新しい欄を二つ、書き加えた。
《とよとみけが、まもるもの》
《とよとみけが、てばなせるもの》
一つ目の欄は、すぐに埋まった。
人。家。大坂。家来。町の人。医者。商人。子供たち。弥七。且元。治長。小野。焼き味噌の太郎と、干し柿の太郎。
二つ目の欄は、空白だった。
《てんか》
と、書こうとして、筆が止まった。
書けなかった。
父を卒業する、と言った。だが、父が取った天下を手放す覚悟までは、まだ、できていなかった。
【太閤殿下に頼っている度合い】
92% → 89%
三。たった三。
「……そつぎょう、せんげん、だけじゃ、たりないの」
【行いが、要ります】
「……がっこう、みたい」
【卒業には、修めねばならぬ項目があります】
数字の言葉遣いが、近頃、腹立たしかった。
だが、正しかった。卒業は、口で言うものではない。何を選んだかで、示すものだった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
95.9% → 95.8%
城に戻ると、弥七が、門の前で待っていた。
「拾様。北政所様の茶は、いかがでございました」
「……にがかった」
「では」
弥七は、懐から、小さな包みを出した。
「干し柿の太郎から、預かっておりまする。苦い茶のあとには、これが一番だと」
包みの中には、干し柿が一つ、入っていた。
帳面に名前を書かれた太郎が、帳面を書いた子供に、干し柿を寄越したのだ。
噛むと、甘かった。
駕籠の揺れの中で、北政所の言葉を、繰り返した。殿の、干し柿の方だけ、お継ぎなされ。
天下の方ではなく。
干し柿を一つ、頭を下げて分けてもらう。銭を払って。それで、村の者たちが、戦のときに兵糧を運んでくれる。
前の世の言葉なら、それは、信用の貯金だった。秀吉は、天下を取る前から、干し柿一つずつ、信用を貯めていた。天下を取ったあと、それをやめた。やめなくても、天下人の命令で、人は動いたからだ。
そして、死んだあと、貯金は、残っていなかった。
城に着く頃には、日が落ちていた。大坂の町の家々に、灯りがともり始めていた。あの灯りの一つ一つに、干し柿を吊るす軒がある。そう思うと、城の窓から見る町が、少しだけ、違って見えた。
その夜、淀殿の部屋の前を通ると、中から、声がかかった。
「秀頼。……北政所様は、何と」
政の話を、しなかった母が、初めて、聞いてきた。
「……とうさまの、ほしがきの、はなし」
障子の向こうで、しばらく、沈黙があった。
「……殿下は、長浜の頃から、干し柿がお好きだったのですね」
「うん」
「わたくしの前でも、よう召し上がっておられました。懐から、出して」
それだけ言って、母は、灯りを消した。
干し柿の太郎は、焼き味噌の太郎と、同じ台所で働いている。明日、焼き味噌の太郎にも、何か返さなければならない。
その夜、「まもるもの」の欄の一番下に、もう一つ、書き足した。
《ほしがき》




