第110話 太閤の欠け
第110話 太閤の欠け
【豊臣家滅亡まで 残り5,230日】
父を、責める。
それは、死んだ人を斬ることに、似ていた。言い返してこない。直しもしない。だからこそ、軽々しくやってはいけなかった。
奉公人の帳面の、最初のまとめができた日、俺は、それを皆に見せた。
淀殿。京から来てくれた北政所。片桐且元。大野治長。前田玄以。増田長盛。それに、奉行衆の何人か。
数字は、ひどかった。
《同じ仕事を、何人もが持っておる》 六十八件
《最後に誰が決めるのか、分からぬ》 四十一件
《太閤殿下の口頭の命だけで、書き物がない》 百二十七件
《跡を継ぐ者が、決まっておらぬ》 五十三件
沈黙。
「……間違いでは、あるまいな」
治長が、言った。
「三度、照らし合わせ申した」
且元が、答えた。
「太閤殿下は」
長盛が、慎重に言った。
「御自身で、すべてを、御覧になられた」
「うん」
俺は、言った。
「それが、もんだい」
部屋の空気が、凍った。
淀殿の扇が、止まった。
「……秀頼」
「うん」
「今、何と、申しました」
逃げなかった。
「とうさまが、ぜんぶを、みていたことが、もんだい」
言った。
秀吉は、天才だった。人を見つけた。人を動かした。百姓の子から、天下人まで上った。誰も見つけられなかった者を、拾った。使った。褒めた。競わせた。
だが、天才は、自分にできることを、他の人にもできる形に、直さなかった。
「とうさまは、ひとを、みぬけた」
「当然です」
淀殿が、言った。
「天下人であられた」
「でも」
俺は、帳面を開いた。
「とうさまが、どうして、そのひとを、えらんだか。かきのこしが、ない」
一人の祐筆。一人の蔵の役人。一人の船頭。秀吉は、その場で見て、使えると決めた。正しかった。だが、死んだあと、その理由は、一緒に消えた。
「しくじった、ひとを、べつの、やくに、うつすことも、できた。でも、どうして、しくじって、どうして、つぎの、やくでは、うまくいったか。だれも、せつめい、できない」
北政所が、静かに、帳面を見ていた。
「……殿は」
太閤とも、殿下とも言わず、北政所は、ただ、殿と呼んだ。
「人の顔を、一度見れば、忘れぬ男でございました」
「うん」
「ゆえに、書かなんだのでしょう」
「うん」
「自分が、忘れぬから」
「うん」
その通りだった。
秀吉の覚える力が、豊臣家の人の決め方だった。秀吉の勘が、取り立ての物差しだった。秀吉の機嫌が、値打ちの量り方だった。秀吉の一言が、役替えの命だった。
生きている間は、速い。強い。誰よりも、よく動く。
死んだ瞬間、全部が、消える。
【人物評価:豊臣秀吉】
人を取り立てる力 100
人を育てる力 68
権を任せる力 21
跡継ぎを育てる力 12
自分がいなくても同じようにできる形 4
最後の数字を、見た。低かった。あまりにも、低かった。
「……殿下を」
玄以が、言った。
「否まれるのでございますか」
「ちがう」
俺は、首を振った。
「とうさまが、えらかったことと。とうさまの、つくった、しくみが、とうさまが、いないと、うごかないことは。どうじに、なりたつ」
「それを」
淀殿の声が、低かった。
「欠け、と、申すのですか」
怒っていた。だが、震えてもいた。
「いう」
俺は、答えた。
「とよとみけを、のこすために。いわないと、いけない」
淀殿は、立ち上がった。
そのまま、何も言わずに、部屋を出ていった。
襖が、閉まった。
治長が、すぐに淀殿の後を追って、出ていった。長盛と玄以は、目を伏せていた。且元は、帳面を持ったまま、固まっていた。
北政所だけが、長い息を吐いた。
「……よう、申されました」
「おこられた」
「怒りまする」
「……だよね」
「されど」
北政所は、机の端に置かれていた、秀吉の古い印判を、指でそっと撫でた。
「誰かが言わねば、この家は、あの人の、墓になりまする」
北政所は、印判を、俺の方へ、少しだけ押しやった。
「殿はね、拾。死ぬ前の年、わたくしに、申したことがございます。……わしが死んだら、この家は、どうなるかのう、と」
「……なんて、こたえたの」
「知りませぬ、と申しました」
北政所は、少し笑った。
「本当に、知らなんだのです。わたくしも。あの人も。……誰も、教えてはくれなんだ」
北政所は、立ち上がった。
「茶々殿の所へ、参りましょう」
「……ははうえの、ところに?」
「怒っておられるでしょうから。怒っておる者の隣には、誰か座っておらねばなりませぬ」
利家と同じことを言った。怒っている清正の隣に、先に座っていた利家と。
北政所は、廊下に出ていった。
廊下に出ると、治長が、待っていた。淀殿の部屋の前から、戻ってきたところだった。
「拾様」
治長の声は、低かった。いつもの柔らかさが、なかった。
「御方様を、泣かせなさいますな」
「……ないてた?」
「泣いてはおられませぬ。……泣いてはおられぬゆえ、申し上げておりまする」
治長は、廊下の先の、淀殿の部屋の襖を見ていた。
「拙者は、御方様が、小谷から北ノ庄、北ノ庄から太閤殿下の御元へ移られるのを、そばで見て参りました。御方様は、一度も、人前で泣かれたことが、ございませぬ。……泣かぬ御方が、泣かぬまま、どれほど、こらえておられるか」
【人物評価:大野治長】
淀殿を守る心 100
百だった。
「……わかった」
「分かっておられませぬ」
治長は、そう言って、頭を下げた。
「分かっておられぬのは、拾様が、七つだからでございます。……ご無礼を、申しました」
治長は、去っていった。
この男は、この先、最後まで、淀殿の傍にいる。燃える城の中まで。書物には、そう書いてある。
その夜、淀殿の部屋の灯りは、遅くまで消えなかった。二つの影が、障子に映っていた。話し声は、聞こえなかった。ただ、ずいぶん長いこと、二つの影は、並んで座っていた。
治長が去ったあと、玄以と長盛が、廊下の隅で、声をひそめて話しているのが見えた。
「……拾様の申されることは、分かる」
長盛の声だった。
「分かるが、怖い。太閤殿下を欠けと申して、それで何が残る」
「残るのは、我らでございましょう」
玄以が、答えていた。
「太閤殿下の欠けを埋めるのは、我ら奉行の仕事。……それが、怖いのでござる。殿下のせいにできなくなる」
二人は、俺に気づいて、慌てて頭を下げた。
俺は、聞こえなかったふりをした。二人の言葉は、正しかった。
俺は、部屋に戻って、帳面を開いた。秀吉の口頭の命だけで、書き物のない、百二十七件。
一件ずつ、読んだ。
《堺の某に、船三艘を預けよ》
《伏見の某に、庭の松を任せよ》
《奥の某に、姫の守りを任せよ》
秀吉が、その場で、その人を見て、決めたこと。理由は、どこにもない。だが、百二十七件の一つ一つに、秀吉の目があった。人を見る目が。
消すことはできなかった。書き直すこともできなかった。ただ、その横に、一行ずつ、書き足していくしかなかった。
《なぜ この ひとか ふめい》
その夜、数字が開いた。
【太閤殿下に頼っている度合い】
92%
【直し方】
太閤殿下を否むことではありません
太閤殿下がいなくても、決められる物差しを作ってください
俺は、数字を閉じた。
父を超える。そんな言葉では、足りなかった。超える相手として見ている限り、俺は、まだ、父の中にいる。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.0% → 95.9%
明け方、廊下で、北政所とすれ違った。京へは帰らず、しばらく且元の屋敷に逗留するという。
「……ははうえは」
「眠っておられまする。明け方に、ようやく」
北政所は、それだけ言って、俺の頭に、手を置いた。
「拾。あなたの母は、強い人です。……わたくしより、ずっと」
北政所の手は、少しだけ、秀吉の手に似ている気がした。熱くはなかった。だが、大きかった。




