第108話 太郎が多すぎる
【豊臣家滅亡まで 残り5,270日】
奉公人の帳面は、作り始めて三日で、行き詰まった。
字の読めない者がいる。自分の年を知らない者がいる。同じ人が、名字を二つ使っている。幼名と、通り名と、官名がある。
そして、誰も、自分の生まれた日を、確かには覚えていなかった。
「とし、は。だいたいで、いい」
俺が言うと、役人が、真顔で聞いた。
「だいたい、とは、何歳まで違うてよろしいので」
「に、さんさい」
「十ほど違う者も、おりまする」
「ほんにんが、じぶんを、なんさいだと、おもってるかを、かいて」
「……それは、本当のことでは、ございませぬ」
「ほんとうのことが、わからないのが、ほんとうのこと」
役人は、近頃、俺の言い方に、慣れてきていた。嫌な慣れ方だった。
次の問題は、名だった。
太郎が、多かった。次郎も、多かった。源左衛門も、多かった。
「おなじ、なまえが、おおすぎる」
「拾様」
且元が、言った。
「人の名とは、そういうものにございまする」
「ばんごうを――」
言いかけて、止めた。
人を、番号で呼ぶ。前の世の会社では、社員番号は便利だった。だが、この世で人を番号で呼べば、囚人か、兵糧の俵に見える。
「しょぞくと、うまれたところと、ちちの、なまえを、くみあわせる」
「長うなりまする」
「ながくて、いい」
《大坂城台所 摂津の生まれ 父弥助 太郎》
長かった。だが、間違えるよりは、いい。
次の問題。書き直しだった。
死んだ。役目が変わった。嫁を取った。病になった。借金ができた。誰が、それを知らせるのか。
「ほんにん」
「忘れまする」
「うえの、ひと」
「隠しまする」
「かぞく」
「城に、入れませぬ」
「おてら」
「皆が、同じ寺では、ございませぬ」
「まちの、くみ」
「侍は、町の組に、入りませぬ」
家が、込み入りすぎていた。
俺は、紙に、図を描いた。本人。上役。家族。寺。町の組。蔵の役人。医者。それぞれから、知らせが入って、真ん中の帳面に集まる。
「……拾様」
役人が、図をのぞき込んで、言った。
「蜘蛛の巣に、ございますな」
「うん」
「人を、捕らえるのでございますか」
「……ちがう」
だが、言われてみれば、見張りの網にも見えた。
決まりは、使い方を誤れば、人を守る網から、人を捕らえる網に変わる。
「かいては、いけないことも、きめる」
「何を」
「うわさ」
「噂は、役に立ちまするが」
「だから、あぶない」
噂は、早い。安い。面白い。そして、間違っていても、消えない。
「病は」
玄朔が、聞いた。
「いる、ぶんだけ」
「要る分とは」
「やくめを、かえるために」
「……瘡毒は」
部屋が、静かになった。
「……てあてに、いる、ひとだけ」
「上役へは」
「つたえない」
「戦に出す場合は」
難しかった。一人の秘密と、家の安全。この世には、人の秘密を守る決まりなど、ない。だが、秘密が守られなければ、誰も、本当のことを言わない。
「ちょうめんを、わける」
人の帳面。病の帳面。扶けの帳面。軍役の帳面。全部を、一冊に集めない。要る者が、要る分だけ、見る。
且元が、感心したように言った。
「同じ人のことを、別々に書くのでございますか」
「うん」
「帳面が、増えまするな」
「ふえる」
皆が、また、絶望した顔をした。だが、守るためには、分けなければならなかった。
その日の午後、最初の揉め事が起きた。
若い足軽が、自分の病を書かれたくない、と言った。
「役を、失いまする」
男は、足を引きずっていた。関ヶ原で、傷を負ったのだ。傷は塞がった。だが、長くは走れない。
上役は、男を、怠け者、と書いていた。男は、痛いと言えなかった。言えば、禄を失うと思ったからだ。
玄朔が、診た。骨が、曲がってついていた。治せない。だが、走らない役目なら、できる。
「てっぽうの、ていれは」
俺が聞いた。
「……できまする」
「えんしょうぐらの、かきとめは」
「字は、少しだけ」
「ならう?」
男は、目を見開いた。
「……役を、奪わぬのでございますか」
「やくは、かえる」
「侍では、なくなる」
「さむらいの、まま」
「走れませぬ」
「はしれない、さむらいも、いる」
焔硝蔵は、走らない。だが、一度間違えば、城が燃える。走らない者の、慎重な目が要る場所だった。
男は、深く、頭を下げた。
「……妻と、子が、二人おりまする。禄がなくなれば、四人で、飢えまする」
男は、そう言って、顔を上げなかった。肩が、震えていた。
【人の配り直し】
一人
合う見込み 88
辞めずに済んだ者 1
暮らしが保たれた者 4
四人。本人と、妻と、子が二人。一人の役目を変えると、四人が残る。
数字は、時々、人の顔を見せる。
夕方、その足軽の妻が、城の門の前に来た。子を二人連れていた。一人は背中に負い、一人は手を引いていた。
門番に止められて、帰されそうになっているところに、ちょうど俺が通りかかった。
「……夫が、焔硝蔵の役になったと、聞きました」
女は、膝をついた。
「夫は、ずっと、痛いと言えずにおりました。わたくしにも、言いませなんだ。……帳面に書かれて、初めて、言えたのだと」
手を引かれていた子が、俺をじっと見ていた。四つか、五つか。俺より小さかった。
「……おとうの、あし、いたいの?」
子が、聞いた。
「うん。でも、はしらない、やくめに、なった」
「はしらないの?」
「はしらない。すわって、かぞえる」
子は、少し考えてから、言った。
「おとう、かぞえるの、へた」
母親が、慌てて子の口を押さえた。俺は、笑った。
「じゃあ、ならう」
子は、母親の手を振りほどいて、俺の前まで来た。そして、小さな手で、俺の袖を、ちょんと引っ張った。
「わかさま。おとうに、かぞえかた、おしえて」
「……おれも、へた」
「うそ」
「ほんと。うまいのは、てらの、こぞう」
子は、首をかしげた。
後日、焔硝蔵の足軽は、寺の小僧に、数え方を教わることになった。十の固まりで見る方法を。二人並んで、蔵の前に座って、樽を数えている姿を、何度か見かけた。
その夜、帳面の名が決まった。
《奉公人名寄》
前の世の言葉なら、家臣の台帳の、仕組み。心の中では、そう呼んだ。口に出すと、また説明が長くなるからだ。
【本日の豊臣家滅亡確率】
96.3% → 96.2%
夜、玄朔が、一人で俺の部屋に来た。
「拾様。……病の帳面の件。医者として、御礼を申し上げとうございます」
「……どうして」
「太閤殿下の御病のときも、何も書き残せませなんだ。殿下の御病状を書けば、天下が揺らぐ。ゆえに、書くな、と。……拙者の頭の中にしか、ございませぬ」
玄朔は、自分のこめかみを、指で叩いた。
「拙者が死ねば、消えまする。次に同じ病を得る方がおられても、誰も、何も、分からぬまま」
「……かいて」
「よろしいのでございますか」
「びょうきの、ちょうめんに。みるひとは、くすしだけ」
玄朔は、しばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。
「……四十年の医術を、ようやく、置いていけまする」
翌朝、役人が、青い顔で報告に来た。
「拾様」
「うん」
「同じ太郎が、さらに七人、見つかりました」
俺は、天井を仰いだ。
この世で、帳面の一番の敵は、戦でも、家康でもなかった。
太郎だった。
「……そのうち、ひとりは、どこの、たろう」
「台所にございます。……父の名も、弥助で」
「うまれは」
「摂津で」
昨日、見本に書いた、台所の太郎と、全部、同じだった。
「……もうひとつ、くわえて」
「何を」
「すきな、たべもの」
役人は、ぽかんとしていた。
二人の太郎は、呼び出されて、好きな物を聞かれた。一人は、焼き味噌と言った。もう一人は、干し柿と言った。
帳面に、そう書かれた。《焼き味噌の太郎》《干し柿の太郎》。
弥七が、それを聞いて、腹を抱えて笑った。




