第103話 発生確率
【豊臣家滅亡まで 残り5,339日】
【関ヶ原級全国内戦まで 推定残り0日】
夜明け前、数字が開いた。
【関ヶ原級全国内戦 発生見込み】
98%
高かった。だが、百ではなかった。
まだ、何かできる。
淀殿は、まだ、座ったまま眠っていた。起こさないように、そっと立ち上がった。母の手が、俺の髪から、滑り落ちた。
祐筆を叩き起こした。且元も起こした。弥七は、呼ぶ前に起きていた。
「つかいを、だす」
三成へ。家康へ。正則へ。長政へ。輝元へ。美濃の戦場にいる者、全員へ。同じ文を。
《豊臣秀頼の名において、戦を始める前の、最後の話し合いを、命ずる》
命ずる。七つの子供が、天下の武将たちに。
だが、豊臣家の名には、まだ、力がある。その力を、今使わずに、いつ使う。兵を集めるためには、使わない。兵を止めるためなら、使う。
早馬が、五頭、城を出た。雨上がりの道を、東へ。
一刻。二刻。
返事は、来なかった。
【発生見込み】
98% → 99%
待つ間、誰も、口を利かなかった。
淀殿は、広間の隅で、目を閉じて座っていた。且元は、懐の紙を、何度も出しては、しまっていた。弥七は、湯を沸かし続けていた。誰も飲まないのに。
輝元が、西の丸から、使いを寄越した。
《南宮山の毛利勢に、何か命ずべきか。拾様の御存念を伺いたし》
南宮山。関ヶ原の東の、山の上。毛利の兵が、陣を敷いている。書物では、毛利の兵は、その日、一歩も山を下りなかった。吉川広家が、家康と、ひそかに話をつけていたからだ。
輝元は、知っているのだろうか。知らないのだろうか。
「……うごかないで、って、つたえて」
使いが、目を丸くした。
「動くな、と」
「うん。おくびょうで、いて、って」
使いは、困った顔のまま、西の丸へ戻っていった。
輝元が動かなければ、毛利の兵は、死なずに済む。そして、西軍は、負ける。
俺は、それを分かっていて、そう言った。
三成を、見捨てたのか。
違う。三成に、勝ちの形はなかった。長政がそう言い、三成自身も、そう書いてきた。ならば、死ぬ者を、一人でも減らす。毛利の一万五千が山を下りなければ、一万五千の家族が、夫と息子を失わずに済む。
分かっていた。分かっていても、胸の奥が、冷たかった。清正の石より、冷たかった。
昼前、最初の使いが、戻ってきた。泥だらけだった。
「西の陣中へ、入れませなんだ! 霧が深く、陣の場所も分からず!」
二人目。
「東の陣は、軍議の最中につき、取り次げぬ、と!」
三人目。
「福島殿は、もう、先陣に!」
最初の鉄砲は、正則の陣から撃たれたのかもしれない。書物では、そうなっていた。話す前に、撃ってしまったのか。それとも、話そうとして、撃たれたのか。
分からなかった。
俺は、次の命を、書かせた。
《話し合いが、まとまらなかった場合》
《豊臣家は、どちらの軍も、正式な敵とはしない》
《大坂の城は、傷ついた者と、逃げてくる者を、受け入れる》
《降った者の家族に、咎を及ぼさない》
且元が、その紙を見た。
「……拾様。これは、負けることを前に置いた御触れと、受け取られまする」
「かつこと、だけを、まえに、おいた、めいれいより、まし」
「兵の、心が」
「おおさかの、しろは、いくさばじゃ、ない」
「されど」
「まもるものを、まちがえないで!」
声が、大きくなった。
七つの子供の、甲高い声だった。広間に、響いた。且元が、びくりと肩を震わせた。
且元は、頭を下げた。
「……ご無礼、つかまつりました」
「……こっちこそ。ごめん」
すぐに謝った。三成の稽古の成果が、俺に出ていた。
【発生見込み】
99%
弥七が、湯呑みを、俺の前に置いた。今日、七杯目だった。一杯も、飲んでいなかった。
「拾様。……一口だけでも」
「いらない」
「一口だけ」
弥七は、引き下がらなかった。雨の日が好きな少年は、今日だけは、頑固だった。
俺は、一口だけ、飲んだ。ぬるかった。何度も沸かし直したのだろう。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
弥七は、そう言って、にっこり笑った。三成が、淀殿に言った言葉だった。いつの間にか、城じゅうに、広まっていた。
淀殿が、広間に入ってきた。髪が、少し乱れていた。起きて、すぐに来たのだ。
「まだ、止めようとしているのですか」
「うん」
「止まりませぬ」
「わかってる」
「ならば」
「とまらない、ことと。とめようと、しないことは。ちがう」
淀殿は、何も言わなかった。
俺は、最後の書状を書いた。自分の手で。
一通目。宛先、徳川家康。
《いえやすどの
かったあと、だれを ころすか ではなく
だれを いかすかを、さきに きめて ください》
二通目。宛先、石田三成。
《みつなり
まけたとき、だれを にがすかを、さきに きめて
それから、しなないで
めいれい》
書き終えて、筆を置いた。
手が、震えていた。
「……秀頼」
淀殿が、俺を呼んだ。
「あなたは、戦を止められなかった自分を、責めておりまするね」
「……うん」
「七つです」
「でも、拾は――」
言いかけて、止めた。
中身は違う。前の世の記憶がある。この先を知っている。止められたはずだった。
そんなこと、言えるはずがなかった。
「七つです」
淀殿は、もう一度、言った。
「大人が始めた戦を、子供が止められなかったからといって」
淀殿の声が、震えた。
「子供が、咎を負う必要は、ございませぬ」
俺は、前の世を、思い出した。自分がいなければ、会社は回らないと思っていた。自分が止めなければ、会社は潰れると思っていた。今も、自分が止められなければ、失敗だと思っている。
同じだった。また、全部を背負おうとしている。
「……ははうえ」
「何です」
「それでも、せきにんは、ある」
「何の」
「とめられなかった、せきにん、じゃ、ない」
俺は、書かせた御触れを、持ち上げた。
「はじまった、あとに。まもる、せきにん」
淀殿は、長いこと俺を見ていた。そして、ゆっくりと、頷いた。
昼を過ぎても、使いは、戻ってこなかった。
霧が晴れたのか。晴れないのか。誰が、どこで、何をしているのか。大坂の城からは、何一つ、見えなかった。
見えないまま、待つ。淀殿が、小谷と北ノ庄で、二度したことだった。三度目は待つだけにはしない、と母は言った。俺も、同じことを言った。
それでも、待つしかない時が、あった。
広間の外が、急に静かになった。蝉の声も、鳥の声も、止んでいた。
城じゅうの者が、耳を澄ましていた。聞こえるはずのない、東の方の音を。台所の女も。蔵の番人も。寺の坊主も。傷の洗い方を習った小者たちも。
誰も、何も言わなかった。
俺は、懐の干し飯の袋を、握っていた。もう一方の手で、清正の石を握っていた。
片方は軽く、片方は重かった。
そのときだった。
遠くから、蹄の音が聞こえた。一頭。速い。城の門を、止まらずに駆け抜けてくる音だった。
使いが、広間に、転がり込んできた。
「申し上げます! 関ヶ原にて――」
数字が、開いた。
【関ヶ原級全国内戦 発生見込み】
100%
【事象が確定しました】
関ヶ原級全国内戦 開始
【関ヶ原級全国内戦阻止】
失敗
俺は、目を閉じた。
止められなかった。
【本日の豊臣家滅亡確率】
97.4% → 97.9%
目を閉じた暗闇の中で、一つだけ、別の表示が、瞬いた。
封印スキル:???[解放条件:託された者が、――を休ませること]
空欄の二文字が、今までで一番、明るく光った。
そして、消えた。
誰を、休ませればいいのか。
三成は、休まなかった。清正も、正則も、長政も、家康も、休まなかった。利家は、休まないまま、死んだ。
そして、俺も、昨日から、一度も眠っていなかった。
目を開けると、淀殿が、俺の手を握っていた。冷たい手だった。清正の石と、同じくらい、冷たかった。




