第29話 嵐の前の日常
翌朝。
悠真はいつも通り、畑に水を撒いていた。
「よし。」
トマトに似た赤い実。
葉物野菜。
根菜。
この世界へ来てから少しずつ育ててきた作物が、朝露を受けて輝いている。
「今日も元気そうだな。」
昨日。
家の中に置かれていた黒い封筒。
『神代悠真。これ以上、我々の邪魔をするな。』
あれが夢だったわけではない。
それでも。
悠真はいつもと同じ朝を過ごしていた。
「きゅぅ!」
フェルルが水を追いかけて畑を走り回る。
「こら。」
「野菜踏むなよ。」
「きゅ!」
急停止。
そのまま慎重に畝の間を歩き始める。
「分かってるなら最初からやれよ。」
思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
「悠真さん。」
家からリーフが出てくる。
「朝ご飯できましたよ。」
「ありがとう。」
テーブルには焼いたパン。
卵。
野菜のスープ。
昨日の残りの肉を軽く焼いたもの。
「いただきます。」
三人で朝食を食べる。
いや。
正確には二人と一匹。
「美味しい。」
リーフがパンを頬張る。
「前より柔らかくなってません?」
「昨日ちょっと配合変えた。」
「配合?」
「水を少し増やしたんだ。」
悠真は満足そうにパンを見る。
「もうちょっと試したいな。」
「楽しそうですね。」
「こういうのが一番楽しい。」
その言葉に。
リーフは少しだけ安心したように笑った。
◇ ◇ ◇
朝食後。
レインが湖畔へやって来た。
「おはようございます。」
「おはよう。」
悠真は釣竿を持っていた。
「……。」
レインがそれを見る。
「何をしているんですか?」
「釣り。」
「それは見れば分かります。」
「じゃあ聞かなくても。」
「そういう意味ではありません。」
レインは額を押さえる。
「二日後には接触ですよ。」
「うん。」
「深淵教団かもしれない相手と。」
「うん。」
「あなたの家にまで警告状が置かれたんですよ?」
「うん。」
「……。」
レインは大きく息を吐いた。
「普通はもう少し緊張しませんか?」
悠真は湖へ糸を投げる。
「緊張しても二日後が早く来るわけじゃないし。」
「それはそうですが。」
「だったら。」
悠真は木陰へ座る。
「今日は今日で楽しむ。」
レインは何も言えなくなった。
「……あなたらしいですね。」
「褒めてる?」
「半分くらいは。」
◇ ◇ ◇
しばらく。
三人で湖畔に座っていた。
「レインもやる?」
「何をです?」
「釣り。」
「……私も?」
「竿ならもう一本ある。」
「任務中なのですが。」
「今、何かすることある?」
「……。」
ない。
王都への報告は済ませた。
廃屋周辺の地形も確認した。
ダリオたちから必要な情報も聞いた。
応援については。
間に合わない可能性が高い。
つまり。
今は待つしかない。
「……少しだけ。」
「はい。」
悠真は笑顔で釣竿を渡した。
◇ ◇ ◇
一時間後。
「来ました!」
レインが立ち上がる。
「慌てない。」
「糸を緩めないで。」
「はい!」
竿が大きく曲がる。
「結構大きいな。」
「どうすれば!?」
「ゆっくり。」
「そう。」
「今!」
レインが竿を引く。
バシャッ!
大きな魚が水面から飛び出した。
「おお!」
「釣れました!」
レインの顔には。
黒鴉隊員とは思えないほど無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「初めて?」
「魚釣り自体はあります。」
「でもこんな大きいのは初めてです。」
「今日の昼飯決定だな。」
「きゅぅ!」
フェルルも大喜びだった。
◇ ◇ ◇
昼。
釣った魚をグランからもらった小刀で捌く。
「やっぱり使いやすい。」
三枚に下ろし。
塩と香草を振る。
石窯へ。
じっくり焼く。
「いい匂い……。」
リーフが覗き込む。
「今日はこれをパンに挟む。」
「パンに魚を?」
「そう。」
野菜。
焼いた魚。
少量の香草。
それらを切ったパンへ挟む。
「魚サンド。」
「さかなさんど?」
「名前は適当。」
三人で食べる。
「……!」
レインの目が見開かれる。
「美味しい。」
「でしょう?」
悠真も満足そうだった。
「これ、町で売れるんじゃないですか?」
リーフが言う。
「売る?」
「はい。」
「悠真さんのパンと料理、絶対人気になりますよ。」
「店かぁ。」
悠真は少し考える。
湖畔の小さな食堂。
釣った魚。
畑の野菜。
焼きたてのパン。
「……悪くない。」
むしろ。
かなり楽しそうだった。
「いつかやってみようかな。」
「きゅ!」
フェルルも賛成らしい。
◇ ◇ ◇
午後。
悠真は家の周囲を歩いていた。
レインも一緒だ。
「昨日侵入した人。」
「痕跡は?」
悠真が尋ねる。
「ほとんどありません。」
レインは地面を見る。
「かなり慣れた人物です。」
「足跡も消されています。」
「そっか。」
「ただ。」
レインが家の裏へ回る。
「ここだけ。」
窓の下。
木枠に。
小さな傷。
「工具を使って開けた跡があります。」
悠真も確認する。
「つまり。」
「魔法で入ったわけではありません。」
「普通に窓から?」
「おそらく。」
悠真は少し考える。
「じゃあ対策できるな。」
「対策?」
◇ ◇ ◇
一時間後。
「完成。」
悠真は満足そうだった。
窓の内側。
簡単な木製の留め具。
扉にも追加の閂。
さらに。
家の周囲に細い紐。
侵入者が触れると。
カランカラン!
木片と金属片が鳴る。
「……。」
レインは無言だった。
「どう?」
「原始的ですね。」
「うん。」
「でも。」
紐を見る。
「かなり有効だと思います。」
「でしょう?」
魔法。
スキル。
そんなものを使わなくても。
できることはある。
「これで少し安心。」
悠真は満足そうに頷いた。
◇ ◇ ◇
夕方。
エルフの村へ向かう。
ダリオたちの様子を見るためだ。
三人は村の外れにある小屋で保護されていた。
拘束はされていない。
ただし。
エルフたちが交代で見張っている。
「体調は?」
悠真が尋ねる。
「もう大丈夫だ。」
ダリオは答えた。
暴走した時の身体への負担は大きかった。
それでも。
悠真が魔力だけを斬ったことで。
後遺症らしいものは今のところない。
「悠真。」
ダリオが真剣な表情になる。
「二日後。」
「本当に行くのか。」
「うん。」
「やめた方がいい。」
「どうして?」
「あいつらは普通じゃない。」
ダリオの手が震える。
「俺たちの家族を。」
「いつ。」
「どこから。」
「どうやって攫ったのかすら分からない。」
「情報を持ってる。」
「想像以上に。」
悠真は黙って聞く。
「それに。」
ダリオは悠真を見る。
「お前の名前まで知られてる。」
「危険だ。」
「そうだね。」
悠真は否定しない。
「でも。」
「行かないと、ダリオの家族がどこにいるか分からない。」
「……。」
「それに。」
悠真は森の方を見る。
「また魔物が石を付けられる。」
「そうなったら。」
「次は誰かが死ぬかもしれない。」
ダリオは俯いた。
◇ ◇ ◇
「一つだけ。」
ダリオが言う。
「頼みがある。」
「何?」
懐から。
小さな木製の飾りを取り出す。
花の形。
素人が削ったような、不格好なものだった。
「娘に作った。」
「……。」
「もし。」
「もし家族を見つけたら。」
それを悠真へ差し出す。
「渡してほしい。」
悠真は受け取らない。
「自分で渡して。」
「え?」
「助けるから。」
悠真は笑う。
「帰ってきたら。」
「ダリオが自分で渡せばいい。」
「……。」
ダリオは何も言えなかった。
悠真はその肩を軽く叩く。
「まだ諦めるのは早いよ。」
◇ ◇ ◇
夜。
湖畔へ戻った悠真は。
一人。
家の前で天照を手にしていた。
月明かり。
静かな湖。
「……。」
ゆっくり抜刀する。
素振り。
一回。
二回。
三回。
速くない。
力も込めない。
ただ。
剣術【神域】が教えるままに。
刀を振る。
シュッ。
静かな音。
「悠真さん。」
リーフが家から出てきた。
「練習ですか?」
「少しだけ。」
「珍しいですね。」
「うん。」
悠真は天照を見る。
これまで。
自分の力に頼ってきた。
というより。
勝手に身体が動いた。
それで何とかなっていた。
でも。
今度の相手は。
自分のことを知っている。
「油断しない方がいいと思って。」
「……。」
リーフは隣へ座る。
「怖いですか?」
悠真は少し考えた。
「怖いよ。」
意外な答えだった。
「俺が怪我するのは。」
「まあ、嫌だけど。」
悠真は湖畔の家を見る。
「ここに何かされる方が怖い。」
畑。
石窯。
風呂。
フェルル。
リーフ。
エルフの村。
少しずつ増えていった。
大切なもの。
「だから。」
天照を鞘へ納める。
「ちゃんと守れるようになりたい。」
リーフは小さく笑った。
「悠真さんなら大丈夫です。」
「そうかな。」
「はい。」
「私もいますから。」
悠真も笑う。
「ありがとう。」
◇ ◇ ◇
その頃。
リーベルの町から東。
街道沿いにある廃屋。
月明かりすら届かない地下室で。
一人の男が跪いていた。
顔には。
黒い仮面。
その正面。
椅子に座る人物の顔は。
暗闇に隠れている。
「神代悠真は?」
低い声。
「警告を無視しました。」
「二日後。」
「おそらく接触地点へ現れます。」
「そうか。」
暗闇の人物が。
僅かに笑う。
「なら予定通りだ。」
「殺しますか?」
「いや。」
即答だった。
「まだ殺すな。」
「では?」
数秒の沈黙。
そして。
「確かめる。」
「何をでしょうか。」
暗闇の人物は。
机の上に置かれた古い紙へ視線を落とす。
そこには。
一本の刀が描かれていた。
黒い鞘。
簡素な拵え。
そして。
刀身の根元に刻まれた二文字。
天照
「神代悠真が。」
男は静かに呟く。
「あの刀に選ばれた人間なのかを。」
月明かりの下。
湖畔の家で。
悠真の持つ天照が。
まるで何かに呼応するように――
ほんの一瞬だけ。
鞘の中で、淡い光を放った。




