第2話 最初の獲物
森の中を歩き始めてから、一時間ほどが経った。
「思ったより広いな……。」
木々は高く生い茂り、見える景色はどこも似たようなものばかりだ。
歩いても歩いても、人の気配はない。
「このままじゃ日が暮れるな……。」
空を見上げる。
まだ日は高い。
とはいえ、このまま闇を迎えるのは避けたい。
そんなことを考えながら歩いていると、どこからか水の流れる音が聞こえてきた。
「川か。」
音を頼りに進むと、幅五メートルほどの綺麗な川へと辿り着く。
透き通った水の中では、小魚が群れを作って泳いでいた。
「助かった……。」
悠真は両手で水をすくい、恐る恐る口へ運ぶ。
冷たく、驚くほど美味しい。
「生き返る……。」
しばらく喉を潤し、近くの石へ腰を下ろした。
そこでようやく冷静になる。
「腹減ったな。」
朝から何も食べていない。
財布の中には現金。
スマートフォン。
社員証。
だが、食べ物は何一つ入っていなかった。
「魚でも捕まえるか。」
川を眺めながら呟く。
その瞬間だった。
ガサッ――
背後の茂みが大きく揺れた。
「!」
悠真は反射的に立ち上がる。
茂みの奥から現れたのは、一頭の巨大な狼だった。
肩までの高さは一・五メートルほど。
漆黒の体毛。
赤く光る瞳。
口元から覗く鋭い牙。
「……でかい。」
普通の狼ではない。
その威圧感だけで、本能が危険を告げていた。
狼は低く唸りながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「逃げても追いつかれるか。」
自然と左手が鞘を押さえる。
右手が柄を握る。
どうしてそうしたのか、自分でも分からない。
ただ、それが最善だと身体が理解していた。
狼が地面を蹴る。
一瞬で間合いを詰めてきた。
「速っ――」
そう思った瞬間には、身体が勝手に動いていた。
鞘を押し。
腰を落とし。
右足を踏み込む。
そして――
「……ッ!」
シュン――
風を裂くような音だけが響く。
一閃。
それだけだった。
悠真は刀を鞘へ納める。
カチン、と小さな音が森へ響いた。
次の瞬間。
巨大な狼の身体がゆっくりと左右へずれ、そのまま地面へ崩れ落ちた。
「……え?」
自分でも信じられなかった。
斬った感触すら、ほとんどない。
「今ので……終わった?」
恐る恐る近付く。
狼は既に息絶えていた。
切断面は驚くほど滑らかで、まるで最初から二つに分かれていたかのようだった。
「これ……俺が?」
自分の手を見る。
震えている。
怖かったからではない。
あまりにも自然に身体が動いたことへの驚きだった。
「剣術【神域】って、こんな感じなのか……。」
人を斬ったことなど一度もない。
ましてや刀を握った経験すらほとんどない。
それなのに、何年も鍛え続けた達人のように身体が動いた。
悠真は深く息を吐く。
「……いただきます。」
小さく頭を下げる。
命を奪った以上、無駄にはしたくない。
そう思った。
ふと、頭に浮かぶ。
「収納……って使えるんだったな。」
試しに狼へ向かって意識を向ける。
すると、巨体が淡い光に包まれ、一瞬で姿を消した。
「おぉ……。」
今度は収納を意識する。
目の前の空間に半透明の一覧が浮かんだ。
──────────
収納
・黒狼 ×1
──────────
「便利すぎるだろ……。」
思わず苦笑する。
冷蔵庫代わりにもなるのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に視界の端で何かが光った。
川の向こう岸。
草陰から、小さな人影がこちらを見ていた。
金色の髪。
尖った耳。
緑色のローブ。
少女はこちらと目が合うと、大きく目を見開いた。
「う、嘘……。」
か細い声が風に乗って届く。
「黒狼を……一太刀で……?」
次の瞬間、少女は踵を返し、森の奥へと走り去っていった。
「えっ、ちょっ……!」
呼び止める間もない。
悠真は頭を掻きながらため息をついた。
「……この世界にも、人はいるんだな。」
その一言が、彼にほんの少しだけ安心感を与えた。
一方、逃げ去った少女は息を切らしながら森を駆けていた。
「早く村長に知らせなきゃ……!」
彼女の頭の中には、ただ一つの光景だけが焼き付いていた。
森の主と恐れられる黒狼を、一歩も動かず、一太刀で斬り伏せた黒鞘の剣士。
その噂が、この世界を大きく動かす始まりになることを、まだ誰も知らなかった。




