トミー
「子供の頃って自分の名前が変わるなんて、訳がわかんないし、嫌だし……それで旧姓の富井で通してきたんだよね。それに僕さ、クォーターだけどハーフみたいな顔してるから、トミーっていうあだ名が定着しててさ、中学生になったのを機に『佐々木』を名乗るようにしたんだけど、小学校からの友達がいたから、中学でもトミーって呼ばれてきたんだ」
そういうことかと私は一人で納得して、何歳なの? と彼に訊いてみた。
「十五歳だよ、今年から高校生。こんなありさまだから、しばらく通うこともできないけどね。桜ちゃんは?」
私と同い年で同じ境遇にあることにドキッとした。
そして彼の質問に答えれば、二人の距離が縮まってしまう気がした。今私は私のことを誰にも知られたくない。次にこの顔のことや頭のことを訊かれたら、私はどうすればいいのだろう。
僕より下でしょ? と彼はいたずらっぽく言った。私は彼に年下として見られていたと思うと、何故か悔しくなった。
「タメよ、タメ! 私もこの四月から高校生!」
「ああ、そう。なんかうれしいね」
そう言って彼が白い歯をみせて笑うと、私の心臓が跳ねた。
「でもさ、高校じゃ僕のこと知ってる人が一人もいないから、僕は佐々木として生きてくんだろうな。……厭だなあ」
彼は空を仰ぎ見て、上がっていた頬を下ろした。どうして佐々木という姓が厭なのだろうか。私はそのまま彼に質問した。
「息子の僕が言うのもなんだけど、僕のお母さんってすごい美人なんだ。日本人とフランス人のハーフでさ、十五歳の頃からモデルをやってたらしいんだ。
モデル時代の写真見たんだけどさ、やっぱり他のモデルの人と比べても、お母さんは目鼻立ちがはっきりしてて、高身長で手脚が長くて、スタイルが良くてさ、大勢で写ってても、お母さんにパッと目がいっちゃうんだよ。とにかく、すごい綺麗なんだ。
なんか自分の母親ベタ褒めして気持ち悪いかもしれないけど、これは客観的な意見であって、僕はマザコンじゃないよ。誤解しないでね」
彼の顔を見れば、お母さんの容姿を想像するのは難しくなかった。彼と同様、もしくはそれ以上に美しいのだろう。
「やっぱり、それだけ綺麗だとモテたらしいんだ。同時に八人の男と付き合ってたことがあるらしいんだ。こんなこと子供に話すなんて、普通じゃあり得ないでしょ? まあ、そんな母親なんだ。そうなると大体予想がつくよね?」
「……何が?」
「僕ができた理由だよ」と哀しげに笑った。「当時十七歳のお母さんは生理がこなくなったことも忘れちゃうくらい、いろんな男と遊んでたらしくて、気付いた時にはもう中絶ができない大きさになっていたんだ。つまり、それが僕ってわけさ」
私は何を言えばいいのかわからなかった。
「そんな顔しないでくれよ」と彼は努めて明るく言った。「父親が誰かなんてお母さんにもわからなくてさ、十八で僕を産んだんだ。
産んだ後、育児はおばあちゃんに任せっきりで、モデルよりも稼げるからって、キャバクラで働くようになった。
破天荒なお母さんを止めることなんて誰にもできないって、おばあちゃんは完全に諦めてた。
そうなると当然お母さんは毎日朝帰り。毎朝、僕にキスしてベッドに倒れ込む酒臭いお母さんは……厭だったなあ」
彼の視線は遠くへ行った。
「まわりから見ればろくでもない母親かもしれない。授業参観とか運動会とか一度も顔出してくれないしね。
でも、たまに学校サボって遊園地とかゲームセンターとか遊びに連れて行ってくれたりしたんだ。土日はどこ行っても混んでるからって、いっつも平日ばっかりでさ、テストの日でもお構いなしだよ。信じられないでしょ?
親子っていうよりも、姉弟って感じだったな。見た目も格好も若くてさ、端から見れば若い女が小学生を連れまわしてるようにしか見えないから、よく職務質問されたりしてさ、何度もそんなことがあるもんだから、お母さんも頭にきて『うるせえ、バーカ!』なんて言って二人で走って逃げたこともあったよ」
すごい! と言って私が笑うと、そうでしょ! と彼も瞳を輝かせた。でもすぐに彼の表情は曇りはじめた。
「そんなお母さんが好きだったんだ。……だから、父親なんていなくてもよかったんだ。
おじいちゃんとおばあちゃんと……それと、お母さんさえいれば、それでよかったのに……。
だけど、ある時、お母さんが佐々木という男を連れて来たんだ。ポマードを塗りたくったうっすら禿げた頭、分厚い唇を細く縁取る口髭、ベルトにのっかった出っ張った腹、重厚な金の腕時計、長い指毛の生えた小指を締め付ける金の指輪、漂う加齢臭……。
そして、そんな男の腕に抱き着いてお母さんが僕に言ったんだ。
『これから一緒に暮らしていく、お父さんだよ』ってね。
胸を殴られたような衝撃を受けて、呼吸の仕方を忘れたよ。
これは夢なんだ、とさえ思ったよ。当時の僕は、お母さんが誰かのモノになるなんて信じられなかったのかもしれないな……。
僕は全てを拒んだ。でも、お母さんは必死にこう言うんだ。
『私の仕事は年齢がものを言うの。歳をとれば今までのように稼げなくなる。私は銀座の高級クラブのような場所に、落ち着けるようなタマじゃないのはよくわかってるの。だから金持ちのあのオジサンと結婚して、お前を大学まで行かせてあげたいんだ。お前のためなんだよ』
そんなようなことを、まだ小学三年生の僕に熱心に説くんだ。
当時の僕はよくわかっていなかったと思うけど、お母さんが真剣に話をしたのは後にも先にもその時だけだった。だから僕は小学校を転校しないことを条件に承諾した。
そして数日後、高級外車に乗せられて、新居に向かった。マンションかと思うくらいの大きな三階建の豪邸だった。
車の中からリモコンをピッと押したら、シャッターが開いて、見たこともないピッカピカの高級車が何台も停まってて、最初は車屋かと思ったくらいだ。
僕は嬉しくなって少しはしゃいだ後、玄関で新しい家族に迎えられた。……あの時のことは今でも忘れられないな。
あの眼……四つの目玉。まるで刃物のような視線が僕に向けられた。怖かった。幼いながらも殺意というものを感じたよ。
佐々木には二人の息子がいたんだ。僕の三つ上のマサタケ。僕と同い年のユウヤ。それと家政婦さん。
義兄弟になるのだから、マサタケとユウヤと仲良くなろうと努力したけど無駄だった。
だいぶ後に知ったことなんだけど、マサタケとユウヤの母親は、佐々木がお母さんと結婚するために離婚届を突き付け、半ば強引に追い出されたんだ。
当時、小学三年生の僕にとっては、三つ上のマサタケの身体はかなり大きかった。
そのマサタケに『お前ら、絶対に赦さないからな』って髪を掴まれて凄まれた時は、マジで殺されると思ったよ。
でも、佐々木の前ではマサタケもユウヤも仲のいい義兄弟を装うから、僕も必死に演じた。全部、お母さんのためだった。
お母さんが佐々木に寄り添うから……お母さんがたくさん笑うから……お母さんを困らせちゃいけないと思ったんだ。
あの時僕は孤独の海の中をずっともがき続けていた。でも学校に友達がいたことで、僕はバランスを保っていられたんだと思う。
僕には十二畳もある部屋が与えられた。ベッド、机、テレビ、それ以外は全てウォークインクローゼットに納まってしまうような部屋だった。
最新のゲームや玩具など全てが手に入った。でも三日ともたず全て壊れた。僕が居ない時にユウヤがこっそり壊していたんだ。おかしいと思ったよ。陰湿だよね。
僕の部屋は二階。お母さんの部屋……というよりも、佐々木とお母さんの寝室は三階だったし、佐々木が常にお母さんをつれまわしていたから、お母さんと顔を合わせる機会もほとんど無くなっていった。
もちろん、学校をサボってお母さんと何処かに遊びに行くなんて、以ての外だ。
佐々木にとって僕なんかどうでもいい存在。お母さんの子供だから佐々木は僕を受け入れただけにすぎなかったんだ。
薄々気付いてはいたことなんだけど、幼い僕はそういう苦い感情を飲み込みながら生きてきた。
やがて広過ぎる部屋の片隅で毎日を過ごすことに耐えられなくなって、ついに僕は祖父母の家に逃げ込んだ。
おばあちゃんの愛のある手料理や、おじいちゃんの優しい眼差しは、僕に纏わり付く孤独を優しく洗い流してくれた。
でも、その日の夜にお母さんは迎えにきた。
ドアがドカン! と鳴って開いて、お母さんは貪るように僕に抱き着いてきた。何事かと思ったよ。そしてお母さんは瞳を濡らしながらこう言うんだ。
『お前がいなけりゃ、毎日抱かれる意味がない』ってね。
当時の僕には、その言葉の意味はわからなかったけど、おじいちゃんはお母さんの頬を叩いた。すると、お母さんは子供のように泣きじゃくったんだ。
初めて見るお母さんの泣き顔は、たまらなく悲しかった。それで、言いようのない感情が僕の中で渦巻いた。それはまるで、風速百メートルの台風が狭い僕の躰の中を暴れ狂っているようだった。
呼吸がうまくできない。気がつくと僕の胸と肩が激しく跳ねていた。嗚咽していたんだ。
泣きじゃくるお母さんが、遊園地で風船を持ったまま泣き叫ぶ迷子の女の子のように見えた。その姿が堪らなく寂しそうで……でも、可憐で愛おしい……僕はそんなお母さんを抱きしめた……とにかく抱きしめた。
するとお母さんも嗚咽した。だから、もっと強く抱きしめた。互いの躰が跳ねるのを抑えつけるように……。
何故だかわからないけど、お母さんの感情が僕の中に入ってきたんだ。理屈じゃないんだ。とにかく、お母さんの悲しみの嵐を感じた。分かち合ったんだ……。
そして小学生の僕はただ漠然と思った。お母さんも独りで何かと闘っているんだなって。
僕が小学六年生になった頃、おじいちゃんとおばあちゃんは海外に移り住んだ。定年を迎えた後の余生をおばあちゃんの故郷で過ごすことを、結婚する時に約束していたらしいんだ。
きっと、お母さんは二人の移住の話を聞いていたのだろう。佐々木との結婚に踏み切った要因の一つだったと思う。そうして僕の心の拠り所もなくなった。佐々木家での孤独感はより一層深まっていった。
お母さんは独りで闘っている。それはきっと僕のためだ。そんなお母さんに泣きつくことは許されないし、してはいけないと思ったんだ。僕は笑った……お母さんのためだけに。
そんな僕は佐々木の自宅の最寄りの中学校ではなく、小学校の友達が進学する中学校に通うことにした。そして入学式当日、僕は目を疑った。ユウヤが僕と同じ制服を着ているんだからね。ユウヤはわざわざ僕と同じ中学を選んだんだ。何故、片道四十分もかけて通学すると思う?
やっぱりユウヤは陰険だった。
僕さ、自慢するわけじゃないんだけど、小学校の時から女の子から人気あったんだよね。
でもね、中学三年間は女子からは完全に無視されてた。
小学生を犯してるとか……ヤリマン女と付き合っていて性病持ちだとか……元モデルの母親とセックスしてるとか……毎日毎日、根も葉もない噂のオンパレード。
特に思春期の女子はそういう話を毛嫌いした。でもさ、普通だったら信憑性のないただの噂話で終わるんだろうけど、僕と同居しているユウヤの言うことだから信じてしまうんだろうね……。
そういえば、こんなこともあったな……教科書開いたら、なんか落ちたんだよ。
手に取って見たら、正方形のパッケージ袋に『こちら側が男性側』って印されていて、中にはピンク色の円状のゴム。
当時の僕はそれが何なのかわからなくて、それを眺めていたんだ。そしたら先生にいきなり怒鳴られて、職員室で荷物検査。そして次々と出てくるコンドーム。
僕じゃない、と、いくら主張しても教師ですら僕を信用しちゃくれない。僕のことをトミーって呼んでくれていた友達も、一人また一人と僕から離れていった。
噂がひとり歩きして、ユウヤに創られた僕の虚言が何倍にも膨れ上がっていたんだ。
そして、もう、僕の虚像の暴走を止めることはできなかったし、誰も止めようともしなかった。
ケータイにも変なメールとか非通知が絶えなくて、気が狂いそうになった。学校の至る所に僕の番号とメアド。卑猥で悪意と憎悪に満ちたドス黒い落書き。それは暴力と何等変わらない。
『書きなぐる』とはよく言ったものだ。僕に言わせてもらえば『書き殺す』だけどね。
『悪意』っていうのは文字でも言葉でも、心に刺さって本当に胸が痛くなって苦しくなるんだ。
よく中学生が自殺するニュースを見るだろ。あれは自殺なんかじゃないんだ。殺されているんだ。心を殺されているんだ。
心はとっくに殺されていて、でも肉体だけは生きていて、死んだ心が生命という名の肉体を停止させているだけなんだ。
想像してごらんよ……無数の人間に身体中を針で刺されていくんだ。プチッと皮膚を破り、グググッと針が肉に沈んでいき、やがて骨にあたる。それでも針を押し込んでくる。骨に刺さる。痛すぎて叫ぶが、それすら笑う人間たち……。その針の数は日に日に増えていく。深く刺さる無数の針。
鬱血して紫色に変色し、壊死する皮膚。出血した血がドス黒く凝固する。やがて針鼠のようになって、針を刺す場所が無くなる。
立てないんだよ、触れないんだよ、動けないんだよ、見えないんだよ、出せないんだよ、痛みもないんだよ、何もないんだよ……死ぬんだよ。それが『心の死』なんだよ」
私は恐くなった。恐くて怖くて堪らなくなった。彼が恐いのではない。自分が恐ろしいのだ。私が舞にしてきたことを、まざまざと突き付けられているようだ。
私は舞の心に、どれだけの針を刺してきたのだろう。そして舞の心はどれだけ血を流してきたのだろうか。
私の心は舞の心の返り血に染まっていることだろう。私は自分の掌を見た。何もない……キレイだ。心は見えないのだ。汚い私の心は私自身にも見えないのだ。そして彼にも。
彼は蒼ざめる私をよそに、地面に墜ちた桜の死骸を見つめている。
「中学三年生になると、受験勉強が始まる。
志望校……この選択は重要だと思った。またユウヤが僕を追いかけてくるかもしれない。
お母さんが佐々木と結婚した理由は『僕を大学までいかせるため』だ。私のような人生だけは歩ませたくない、と、おじいちゃんの家に逃げ込んだ夜にお母さんは言っていた。
佐々木に志望校を告げない訳にはいかない。僕の学費を払うのは佐々木だ。でも佐々木を通じて、ユウヤは僕の志望校を知ることができる。
逃げ切れないのなら突き放すのみ、走って走って……振り返っても、何にも見えなくなるまで走ればいい。
僕は佐々木に頭を下げ、進学塾に通わせてもらった。佐々木には嘘の志望校を告げた。ユウヤがギリギリ入れそうなレベルの高校だ。
案の定、ユウヤも僕と同じ志望校を選択した。しかもスベリ止メまでまるっきり同じだった。僕はユウヤの陰湿な執念に寒気がしたよ。
佐々木は『お前たちは本当に仲がいいなあ』と笑って言うと、ユウヤは『同い年のキョーダイなんて最高だよ』なんて心にもないことを言っておどけていた。
そして願書提出期限を見計らって僕は志望校を変えた。今までの志望校から偏差値がいくつも上の高校だ。
ユウヤも佐々木の会社の跡取り候補なだけに塾にも通っていたしバカでもなかった。だけど、いきなりの進路変更にユウヤは対応しきれなかった。当たり前だ。それを狙ったんだから。
僕の模擬試験の判定はAだった。それに慢心することなく僕は受験勉強を続けた。そしていよいよ入試試験当日。よく眠れたし、体調も万全だった。
朝食をしっかり食べて、忘れ物がないかチェックして、玄関の扉を開けようとしたその時だった。待てよ、と誰かが言った。その声に、僕は恐る恐る振り向いた。
兄のマサタケだった。マサタケに声をかけられることなんて滅多にないことだし、圧倒的な体格差で殴られたこともあったから怖かったし、避けていたんだ。
そんなマサタケが僕に『待て』とはどういうことなのだろうか。できれば待ちたくない。僕はマサタケが怖い。
僕は慌てて家を出ようとした。
『おい、待てよ!』とマサタケが靴下のままで玄関に下り、僕の肩を掴んだ。
『なんで逃げるんだよ。別に何もしないから』と慌てるマサタケ。
僕はドアを閉め、マサタケに体を向けた。
『お前さ、今日、試験日だろ。これ持ってけよ』と言ってマサタケが僕の手に握らせたのはICレコーダーだった。きっと僕は怪訝な表情をしていたんだろう。マサタケはフッと笑った。
『英語のリスニングに役立つはずだ。電車の中で聞くといいよ。いつもいつもユウヤがお前を困らせてばっかりで、いつも悪いなと思ってたんだ。兄貴からのせめてもの償いだよ』そんなようなことを言ってマサタケは微笑んだ。
ありがとうと言うべきなんだろうけど、マサタケに優しくされたのは初めてだったから戸惑って、何も言わずに軽く会釈して『いってきます』とだけ言った。
『頑張れよ』って、マサタケは僕の肩を叩いた。僕は頷き玄関を飛び出した。
なんだか気持ちが弾んで、駅まで走った。眩しい朝日は僕の未来を照らしてくれているんだと思った。
電車に乗り込み、早速ICレコーダーを取り出した。マサタケが僕のことを気にかけてくれていたことが、やっぱり嬉しかった。
たとえ、このICレコーダーが試験の役にたたなくとも、家に帰ったらマサタケに『ありがとう』を言おうと決めた。なんだか試験もうまくいきそうな気がしてきた。イヤホン両耳に差し込み再生ボタンを押した。
しばらく何も音がしなかった。
ちゃんと再生になっているかディスプレイを確認するが、再生を示す秒数はカンウントされている。
そして一分を過ぎようとした時だった。ICレコーダーの中でドアが閉まる音がした。
その後、何かを喋っているような音が聞こえてきたが、よく聞き取れないから、ボリュームを上げた。
それでも聞こえない。マサタケはどういう意図でこれを僕に聴かせたかったんだろう。嫌がらせ? それとは違う気がする。単なる録音の失敗だろう。まあ、いい。マサタケの気持ちがうれしいんだ。
いずれにせよマサタケにはお礼を言おう。
そう思いながら停止ボタンを押そうとしたその時だった。密封された両耳の鼓膜になり響く異音。僕は電車内で思わず声をあげてしまった。
それは……それは、英語の発音なんかじゃなかったんだ!それを完全に理解し把握するまでにかなりの時間を要した。
結果、乗り過ごしてしまい、開始時間ギリギリに試験会場に滑り込んだ。
試験開始の合図ともに、一斉に荒々しく紙が翻る。
カリカリとペンが擦れる音の洪水。僕の答案用紙は裏返しのまま。真っ白だ。
表にする。真っ白だった。僕の頭が。僕は此処で何をすべきなのかわからなくなった。
文字の羅列。ペン音の洪水。そして脳ミソの中心でリピートし続ける。
泣き声……鳴き声……叫び声……喚き声……どれにでも当て嵌まるような喘ぎ声。お母さんの喘ぎ声。それに纏わり付くような粘りけのあるお母さんの名を連呼する湿った佐々木の囁き……。僕は嘔吐してしまった。慌てて答案用紙で吐瀉物を包み、その場から逃げ出した。
マサタケに渡されたICレコーダーの中身は、お母さんと佐々木のセックスの盗聴を録音したものだったんだ。
おそらく枕の中に仕込んだんだろう。じゃなきゃ、あんなに鮮明に息遣いまで聴こえやしない。
その後の記憶がまるでなくて、夜更けに僕は家に帰った。
するとお母さんが玄関まで駆けてきた。
『こんな時間まで何してたの?』と心配するお母さんは、僕の表情を読み取った。
『ダメだったのね』と言われた時、僕は泣きそうになった。そして目の前のお母さんと、ICレコーダーの喘ぎ声がリンクして、嫌悪感が走った。
遅れて心配そうな表情を作ったマサタケとユウヤが駆けつけてきた。二人とも母さんの後ろで笑いを堪えているのがよくわかった。
そしてユウヤが言った。
『しょうがないよ。また同じ学校に通おうよ』ってね。初めて殺意というものを覚えたよ。
僕はユウヤに殴りかかったけど、あっさりマサタケに押さえ込まれた。僕は言語の発し方も忘れ、ただただ叫んだ。
部屋に連れていかれ、お母さんは僕をなだめようとしたけど、僕は乱暴にお母さんを追い払った。
お母さんは面食らっていたよ。僕がお母さんにあんな態度をとったのは初めてだったからね。お母さんが悪いわけじゃないことは頭ではわかっていた。でも……厭だった。
僕の部屋には大きな出窓がある。窓を開けると闇と冷気が部屋中に一気になだれ込んだ。僕は出窓に腰掛けた。
僕の心は生きているのか……死んでいるのか……。背中には闇、目前には光……僕の心はどちらを望んでいるのか……。
僕は目を閉じた。あっという間に身体はキンキンに冷え、次第に震えだした。やがて身体は重くなり、感覚が失くなった。
どれだけの間そうしていたんだろう。気がつくと僕は宙に浮いていたんだ。
まるで肉体が剥がれ落ちて、心だけ浮かび上がるような感覚だった。そして、気がついたら病院のベッドだった。
化粧もせず髪も整えず、泣き腫らした顔のお母さんがいた。正直、老けたなって思ったよ。
頭蓋内出血と左足開放複雑骨折だった。
三階からクルッと回転して、左足から着地して骨が皮膚を突き破ってたらしい。
だから二つのプレートと八本のボルトがこの左足に入ってるんだ。
頭からイッてたら、死んでたかもしれなかった、って泣かれたよ。
頭の方も危険だったらしくてさ。桜ちゃんも見たと思うけど、剃毛されて開頭手術したんだ。
坊主なんて人生初だよ。似合ってるでしょ? 髪型気にしなくていいし、今は気にいってるんだ」
彼はニット帽越しに頭を撫でて複雑な表情で笑った。
「でもさ……佐々木が僕の病室にやってきて、『みっともない頭しやがって、気持ち悪い。よくもあんな事してくれたな! 警察やら救急車が深夜にきて、大騒ぎだったんだ! 事情聴衆までされたんだぞ。どうせ死ぬんなら我々に迷惑かからないようにしろ! お前の手術代と入院費にいくらかかってると思ってんだ!』
皮肉ながら一語一句覚えてるよ、あの佐々木の罵詈雑言。
とても人間の吐く言葉とは思えなかった。僕はお母さんを恨んだね。こんな奴の息子にされてしまったことを……。
それからお母さんは佐々木に連れ去られた。
すぐにお母さんからメールがきて、佐々木に会いにいくなと命令されたらしい。それでも僕は会いに来て欲しかった。もうお母さんは佐々木の奴隷だと思った。
毎日、お母さんからメールはきてるけど、内容は読まずに消去して、『生きてるから大丈夫』とだけメールするんだ。
今となっては、お母さんと僕との繋がりは、無感情で無機質なメールだけだよ。
こっそり会いに来てくれてもいいのにね。それすらも、してくれないなんて……。
でもね、そんな時、僕と同じような白いニット帽を被った女の子が、僕の特等席のベンチに座って桜を見ていたんだ。
僕さ、三年間も女子から無視されてたから、実は話しかけるの怖かったんだ。でもよかったよ。こうして仲良くなれたんだからね。
あの時はごめんね。ほら、桜を折ったカップルがいたでしょ。骨をへし折るようにバキンってやっちゃうんだもんな。
あの身勝手さが、どうしても許せなくてね……気付いたら叫んでた。キレちゃった。自分でもよくわからないけど、あの折られた桜が自分と重なったのかもしれないな。
それで僕、頭打っちゃったじゃない。頭蓋内出血っていうのは通常でも三ヶ月くらい様子みなきゃいけないらしいんだ。
だから、あの後は絶対安静で病室から出られなかったんだよ。それで久しぶりに外に出たら、また桜ちゃんに会えて、嬉しくて、でも様子がおかしかったから、つい松葉杖投げちゃった。足、痛かったよね……ごめんね」
折られた桜……彼も私と同じようなことを考えていたんだ。きっと彼には、あのカップルがマサタケとユウヤに見えたに違いない。
「……私」
言いかけたその時、ケータイの着信音が私の口を遮った。




