初めて
「電話出なくていいの?」
「あ、うん。ちょっとごめんね」
お母さんからだ。どうして、こんな時に電話してくるんだろう。でも何故か、救われたような気もする。
通話ボタンを押すと、心配そうなお母さんの声が耳の穴に雪崩れ込む。
「桜ちゃん、今どこなの? 今日は誕生日なんだから、早く帰ってきなさい。ケーキも用意してあるのよ」
「誕生日……誰の?」
「何言ってるの! あなたのでしょ。桜ちゃん、今日で十六歳よ」
「あっ、そうか、私のか……」
私は誕生日に死のうとしてたのか……。
「そうよ、だから早く帰ってきなさいね」
そんな日にもしも私が死んでたらお母さんは……。
「うん、わかった、帰るね」
桜舞う日に生まれたのは私だけじゃないのに……。
「桜ちゃん、今日、誕生日なの?」そう言って彼が私を覗き込んだ。
「うん、そうみたい。すっかり忘れてた」
舞は誰かに祝われてるだろうか……。
「あっ! 桜咲く時に生まれたから、桜っていう名前なんだ!」
彼はそう言って琥珀色の瞳を輝かせた。
「まあ、そんなとこかな」
桜が舞う時に生まれたのは私だけじゃない。
私が言うと、彼はすうっと春の空気を吸い込み、ろうそくの火を優しく吹き消すように、ハッピーバースデーの歌を奏ではじめた。
ああ……なんて澄んだ優しい歌声……。
私のベトベトに絡まった髪をほぐしていくような、そよ風のような歌声。まったく、何から何まですべてが美しい。本当に妖精ではないかと疑ってしまう。心が濡れる。干からびた大地に降り注ぐ雨。妖精の美声はひび割れた心の隙間を埋めていく。彼の歌声が私の名前を奏でると、胸の奥がキュッと抓まれたように痛くなった。
歌い終わった彼がこちらを見て、誕生日おめでとう、と言った。
「ちょっと桜ちゃん、引かないでよ……いきなり歌いだしたのは、さすがにキモいか……? ごめん、でもマジで引かないでよ……」
「ち、違うの。そんなんじゃないんだ。ちょっと、あ、あの……」
この感情を言語化する術がない。
参ったなあ、と彼は苦笑を浮かべ、他に誕生日プレゼントないしなあ、と顔をしかめた。
誕生日プレゼント……。
「あっ、あの……」
突如、一つだけ欲しいものが思い浮かんだ。でも断られたらどうしよう、という不安が私を吃らせる。
「……なに?」
彼も不安げに私の様子を窺う。
「あ、あのさ、その……トミーくんの……連絡先を教えて欲しいなあ……なんて思ったり思わなかったり……」
私にとって初めての経験だ。異性から訊かれることはあっても、自ら異性に連絡先を訊いたことはない。
この勇気を振り絞る行為……震える手をこれでもかと握り締め、やっとの思いで滲み出てくるものが、私の唇を動かした。私の心臓が脈打ち、顔が熱くなったから、不自然に顔を背けた。彼が何を言うのか怖い。同時に早く何か言ってほしいと思っている。矛盾だらけだ。
バラードの歌いだしのように、彼は優しく喉を震わせた。
「そんなことでいいの? でもひとつだけ約束してほしい」
「……何?」
「……もう二度と死のうとしないで」
「……うん、約束する」
そう言うと彼は優しく微笑んだ。
「ほらっ、お母さん待ってるんだから、早く帰ったほうがいいよ」
帰りたくないよ、とは流石に言えず、本音とは裏腹にベンチを立った。彼が私を見上げている。また琥珀色の瞳に吸い込まれそうになる。どうしていいのかわからなくて、私は何も言わずに逃げるようにその場から走り去った。
私は桜の絨毯の上を走り抜ける。心臓がドクンドクン鳴り、息が上がり、呼吸がしづらくなり、マスクを外した。露出した顔を撫でる風が気持ちいい。こんな感覚は生まれて初めてかもしれない……そう思った。




