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散る

 私はフェンスによじ登って歩道に飛び降りた。けっこうな高さがあったからドテッと転んでしまい、手の平を擦り剥いてしまった。痛みを感じないことも不思議とも思わない。


 信号のない道を水色の軽自動車が薄ピンクの絨毯の上をサラサラと滑るようにして向かってくる。ピンク色の水しぶきはタイヤのまわりを小さく踊っている。


 ゆっくりと近づいてきた水色の軽自動車の運転席には若いお母さん、助手席にはチャイルドシートに座った三歳くらいの女の子が乗っていた。右のウィンカーが点滅した。私の前を通り過ぎ、病院の敷地内へそろりと入っていった。


 ああいう人たちに迷惑をかけてはいけない。こんな状況の私にも人のことを気遣える気持ちが有ったのかと思うと、少し笑えた。


 桜の雨に降られながらしばらく待っていると、うるさい音が聴こえてきた。


 車高を低くした赤いスポーツカーだ。かなりのスピードでこちらに向かってくる。


 先ほどの水色の軽自動車とは違って、まるで轢き殺すように無数の桜の花びらを巻き上げてくる。飛び散る死骸。


 赤いスポーツカーはスピードを緩めない。唸りをあげて迫りくる。目前に迫る。考えるより先に私の身体は車の前に進む。右足を車道へ踏み出して次に左足を出した次の瞬間、左足に強い衝撃が走った。


 赤いスポーツカーは派手なスキール音を上げながら私の鼻先を掠めるようにして通り過ぎ、二十メートル以上先で停止した。


 赤いスポーツカーの左側からサングラスをした男が降りてきて私に怒号を浴びせキツく睨みつけた後、赤いスポーツカーのまわりを腰を屈めてぐるりと見回し、再び私に罵声を浴びせてから赤いスポーツカーに乗り込み、桜の花びらを次々と轢き殺しながら消えていった。


 何故、私は生きている? 左足が痛む。


「桜ちゃん、ごめん! 咄嗟に投げたらぶつけちゃったよ! 怪我してない?」


 振り返ると、白いニット帽を被った彼がフェンスから身を乗り出していた。


 私の足許には松葉杖が横たわっている。私はそれを手にとって、フェンスは越えずに入口からまわって彼に手渡した。


 彼はありがとうと言って、ヨタヨタと松葉杖を使いながら歩きベンチに腰掛けた。座りなよ、と琥珀色の瞳が訴えかけてくるので、それに従った。


 こんなにも彼を待っていたのに何も言葉が出てこなかった。今さっき車に飛び込もうとしていて、彼に助けられた。ありがとう、と言うのは少し違う。ごめんなさい、も違う気がする。


 ハラリと一枚の桜の花びらが彼と私の間を通り抜けた。まだ全部散ってなかったんだ。


「桜、綺麗だったなあ。一年中咲いてたらいいと思うけど、それも何か違う気がするんだよね。ずっと咲いてはいられない。うまく言えないけど、今日はそんな日だったんだよ、きっと」


 まるで冷たい水に温かいお湯が注がれるように、彼の言葉が私の心に混ざってくる。冷え切った私の心は彼の言葉で徐々に体温を取り戻していく。私の感情のグラスは表面張力でふるふると揺れて、感情が両目から溢れ出る。


 さっきまで宙を舞っていた桜の花びらは地面に着地して死骸となった。それを見て、花は散ってしまったらおしまいよ、と私が言うと、それは違う、と彼が言った。

  

「花は死んでるわけじゃないよ。花が散ってるんだよ。桜の木は生きているんだ。花は散っても木は生きてる。桜ちゃんの心にだってまた花は咲くんだよ」


「……心に花?」


「そうさ。心にパッと花が咲くことがあるだろ? 例えば、テストでいい点数とったとか……カワイイ服を見つけたとか……美味しいもの食べたとか……そういう些細な幸せのことだよ」


 最近は全くないけど、遠い昔にあった気がする、と私は言った。


「そうでしょ。でもね、そういう花って、ずっと心に咲き続けることはできないんだ。幸せって永遠じゃないんだよね。ちょっと嫌なことがあると、パッと花は散っちゃうんだ。でもね、木が枯れない限り花は何度だって咲くんだ」


 枯れない限りまた花は咲く……確かにそうだと思った。


「この桜の木たちだって、また満開になる。桜ちゃんだって、いつかまた満開になる」


「……そして散る」と私は言った。

   

「そうだね、散るね、……間違いなく。でもね、花が咲くことを知ってるからこそ、凍てつく寒さを耐え凌ぎ、その時を待つことができるんだよ」


 彼は私を窺い見てニット帽越しに頭をかいた。


「綺麗な世界じゃないけど……いや、はっきり言って、とてつもなく臭くて、有り得ないほど汚れた世界だけど、それでも満開の桜だけは綺麗だよ」


 美しいモノはこの世界にいくらでも在る。間接的に私を励ましてくれている。私はただただ心を込めて、ありがとう、と言った。


 彼は微笑んでくれた。それを見て私は思った。この世界で最も綺麗なのは彼なのだ、と。


 何にも染まることのないような白い肌も、琥珀色の瞳も、その心も、取り巻く空気も、薄い唇が奏でる声も、何もかもが美しいんだ。


 また風が吹いた。僅かに残っていた花びらが散っていく。はらはらり……くるるりら……まるで等間隔に満遍なく宙を舞う雪のよう。その光景に溶け込む彼の横顔を見て、私は脳を介さずに直接喉を通って唇が、「きれい」と動いた。すると私を見て彼が言った。


「桜ちゃんの方が綺麗だ」


 美人という意味で『綺麗』だと言われたことは何度もあるが、今の私は顔を隠している。髪も無い、鼻も曲がって、前歯も折れている。そんな私の外見以外の何が綺麗だというのか。ただ単に車に飛び込もうとした私を励ましてくれているだけかもしれない。嬉しくなったがすぐに堕ちた。


「僕は嘘を言わないよ」


 そう言った彼の真っすぐな眼差しが、黒ずんだ私の心を照らすから……私は深くニット帽を被り直した。


 そして彼は何も喋らず、春の空気と戯れるようにして目を閉じた。不思議に思った。彼が傍にいると、何故死のうとしたのかわからなくなった。彼は私に活力のようなものを与えてくれているのかもしれない。でも、それが何なのかはわからない。


 彼は私が何か話すのを待っている。そんな気がする。私のことを心配してくれている。何か話さないといけない。そして私は一つの疑問を思い起こした。


「……富井くん?」


 私がそう言うと、彼は素っ頓狂な顔をして言った。


「違うよ、トミーだよ。トミーって呼んでよ」


「そうじゃなくて……本当の名前って『富井』じゃないんじゃないの?」


 彼は目を丸くして驚き、すぐに声を上げて笑った。

  

「桜ちゃん、もしかして僕の病室探したの?」


「あっ……えっ、それは……」


 違うと言い切れないのがもどかしくて、何故か顔が熱くなる。


「どうしたの? 目が泳いでるよ」


『目が泳ぐ』の意味をど忘れてしまい瞼に何度も触れていると、彼が大声で笑い出した。


「桜ちゃんって天然? マジでウケるよ、アハハハハ!」


 天然? 天然って何……? 私はそんなんじゃない。


 生徒会長を務め、成績優秀で、人望があって、誰もが羨む私のことを、こんな風に茶化すなんて……信じらんない。


「失礼よ! 私を誰だと思ってるの!」


 私が怒鳴ると、彼は笑うのをやめて真顔で言った。 


「えっ、桜ちゃんでしょ? ……ああ、わかった、もしかして芸能人? だから顔隠してんだあ」


「ち、違う! ふざけないでよ!」


 私がムキになると、彼は意地悪に笑った。


「桜ちゃんは、そんな感じの方が似合ってる気がする」

  

 あたふたして、怒っている方が合ってるなんて、どこまで私をコケにする気なのだろうと思い、彼を睨みつけた。


「そんなに怒らないでよ」と彼は冗談っぽく笑った。「僕の本当の名前は『富井』じゃないんだ。正しく言えば、『富井』だったというべきかな。小学三年の時、お母さんが再婚してね。今は佐々木っていうんだ」


 彼を取り巻く空気がしゅんと静けさを帯びた。私は黙って彼の話に耳を傾けた。


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