撃退
館長へ相談した件は、思ったよりすぐに動いた。
「今後、その利用者の対応は一人でしないこと」
館長は真剣な顔でそう言った。
「何かあればすぐ職員を呼んで。閉館後の帰宅もできるだけ一人にならないように」
百花ちゃんは恐縮したように何度も頭を下げていた。
「すみません……」
「謝ることじゃない」
館長はきっぱり言った。
「利用者との距離感がおかしくなった時点で職場の問題だ」
その言葉に、百花ちゃんは少しだけ目を潤ませた。
不審人物の情報が全職員に通達された。
翌日の午後。
その男性はまた来館した。
【警戒対象来館】
表示が浮かぶ。
男性は返却カウンターへ向かう。
だが今日は百花ちゃんではなく、警戒していた西野さんが対応した。
「返却お願いします」
「はい」
男性は本を差し出した。
普通の口調。普通の対応。
けれど。
【視線移動】 【対象探索中】
男性の視線がゆっくり動く。
少し奥まった場所で本を整理している百花ちゃんへと。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
男性の表情から笑顔が消えた。
【百花との接触機会減少】 【不満蓄積傾向】
ぞわりと背筋が冷えた。
男性は何事もなかったように立ち去る。
「……やっぱり橘さんのこと見てたね」
西野さんも厳しい顔をしている。
百花ちゃんがいるから来ている。
その可能性を、はっきり意識した。
閉館後。
館長の指示もあり、その日は紗奈と百花ちゃんが一緒に帰ることになった。
「すみません……」「謝らなくていいよ」
駅へ向かう道中。
百花ちゃんはどこか落ち着かない様子だった。
「私、考えすぎなのかなって思ってたんです」
「ううん」
紗奈は首を振る。
「怖いって感じたなら、それは大事なことだから」
百花ちゃんは少しだけ安心したように笑った。
その時だった。
【警戒対象検知】
「っっ」
紗奈の足が止まりそうになる。
数十メートル後方。
あの男性がいた。
偶然を装うような距離。
スマホを見ながら歩いている。
けれど。
【進行方向一致】【警戒継続中】
紗奈の背筋が冷えた。
百花ちゃんも気付いたらしい。顔色がさっと変わる。
「紗奈さん……」
小さな声。
その瞬間。
「あれ?」
前方から聞き覚えのある声がした。
顔を上げる。
「石村さん?」
豊島さんだった。
隣には一度遭遇した彼の同僚さんもいる。
「おー!駅で会ったお姉さん!」
相変わらず元気だ。
どうやら仕事帰りらしい。
豊島さんはこちらの様子を見るなり表情を変えた。
「何かありましたか?」
百花ちゃんが言葉に詰まる。
紗奈が簡単に事情を説明した。
豊島さんは黙って後ろを見る。
男性は少し離れた場所で立ち止まっていた。
同僚さんが眉をひそめる。
「……あー」
そして。
同僚さんは突然くるりと振り返った。
一直線に男性を見る。
「何か御用ですか?」
よく通る声だった。
男性が明らかに動揺する。
「え?」
「ずっと後ろ歩いてましたよね?」
周囲の通行人も少し視線を向ける。
豊島さんも静かに一歩前へ出た。長身の男性二人。
圧迫感は十分だった。
男性は視線を泳がせる。
「いや、別に……」
「そうですか」
豊島さんは穏やかな声で言った。
「でしたら問題ありません」
男性は居心地が悪そうに視線を逸らした。
数秒後。
無言で去っていく。
その背中を見送りながら、百花ちゃんが小さく息を吐いた。
緊張が切れたようだった。
【警戒対象離脱】
同僚さんが頭をかく。
「いやー、あれは分かりやすすぎるでしょ」
「ありがとうございましたっ」
百花ちゃんが深々と頭を下げる。
豊島さんは少し困ったように笑った。
「無事で良かったです」
その後。
館長にも報告が行われた。
あれから数日、男性は図書館へ現れなかった。
百花ちゃんも少しずつ元気を取り戻した。
「それでですね」
数日後の昼休み。
百花ちゃんが妙に真剣な顔で言った。
「私、お礼したいんです」
「お礼?」
「はい。あの男性お二人に」
百花ちゃんは大きく頷く。
「助けていただいて本当に助かったので」
確かにそうだった。
館長や職員たちへのお礼はともかく、豊島さん達には正式なお礼をする機会がなかった。
「ご飯をご馳走したいんです!あのお二人と紗奈さんに」
「ご飯」
「はい!」
百花ちゃんは身を乗り出す。
「紗奈さん、お二人にご予定聞いてもらえないですか?」
「うーん。いつ会えるか分からないからねぇ」
「えっ。紗奈さん連絡先知らないんですか?」
「知らない」
即答した。
百花ちゃんが固まる。
「えっ」
「え?」
「えーと、そういえばどういったお知り合いなんですか?」
「通勤電車が同じ人と、その同僚さん」
「電車」
「うん。同僚さんに至っては名前も知らない」
百花ちゃんは息をついた。
「えーとじゃあ今度会ったら聞いといてください」
「えぇ」
「聞いてください、お願いします」
圧が強い。
「私のお礼のために」
その言葉を使われると弱い。紗奈は観念した。
「……機会があったらね」
「絶対ですよ、お願いしますね」
百花ちゃんは満足そうに頷いた。
そして翌朝。
改札を抜けてホームへ降りる。
【対象確認】【遭遇予測:達成】
豊島さんがいた。
「おはようございます、豊島さん」
「おはようございます、石村さん」
電車へ乗り込み、並んで座る。
しばらく雑談をして。紗奈は少し迷った。
【推奨行動、今】
(雑だなあ)
心の中で突っ込みながら口を開く。
「あの」
「はい?」
「百花ちゃん……先日助けて頂いた職場の後輩なんですけど」
豊島さんが頷く。
「あの日一緒だった方ですね」
「そうです」
紗奈は少しだけ緊張した。
「お礼をしたいらしくて」
「お礼?」
「あの日助けてもらった件で、ご飯をご馳走したいそうで」
豊島さんが目を丸くした。
「ああ……」
少し困ったように笑う。
「そんな大したことはしてないんですが」
「いえ、本人がどうしてもと言ってまして。豊島さんとご同僚の方に」
「なるほど」
電車の揺れる音。
紗奈は意を決した。
「予定を合わせたいので」
そこまで言って、一瞬だけ言葉に詰まる。
豊島さんが察したように笑った。
「連絡先、交換しますか?」
先に言われた。
「……はい」
思った以上にあっさりだった。
むしろ自分だけが妙に緊張していたらしい。
二人ともスマホを取り出す。
連絡先交換画面。
数秒後。登録完了。
【連絡手段確保】
【関係進展率:上昇】
見ないふりで視線を逸らす。
「友人に予定を聞いてご連絡しますね」
「ありがとうございます」
「いえいえ」
電車が駅へ到着する。
紗奈はスマホの連絡先画面をちらりと見た。
『豊島』
むずむずする口元をキュッと引き締めた。




