第2話「ミエラの日」4/4
「ただいま、お父さん」
ライムがドアを開けると、野菜スープのいい香りが漂ってきた。
グレンは振り返り、「おかえり」と温かい笑顔でライムを迎えた。
「すごくいい匂い。私、お父さんの野菜スープ大好き」
「そうか?こんなものならいくらでも作れるぞ。栄養も取れるしな」
よし、と言うと、グレンは火を消し、鍋からスープをよそった。食卓には既に、丸いパンと魚の干物が並んでいた。
二人は向かい合って小さな食卓についた。
グレンがパンを手に取ろうとしたとき、ライムは待ち切れず、リボンのかかった包みを父に差し出した。
「これね。マーサさんに教わったクッキー。今日、学校で作ったの」
グレンは目を丸くする。
「もしかして、聖ミエラの日か」
「聖?」
あぁ、とグレンはごまかし、「ミエラの日を学校で習ったのか?」と聞き直す。
「そう。外国からきた行事で、最近フロレアで流行ってるんだって」
「流石ノイスだな……。それを、お父さんにくれるのか?いいのか、好きな人とかじゃなくて」
「い、いないもん、そんな子」
ライムは首を振ると、「あのね」と、改めて父と目を合わせた。
父は身構えるでもなく、至って自然に、ライムを見つめ返してくれる。
この目と、少々のことでは動じない大きな胸を前にすると、ライムはいつも、素直になれるのだ。
「お父さん、私、不安なんだ。私はお父さんにいつも頼って、甘えてるけど、お父さんはどうなんだろうって。お父さんは辛いとき、寂しいとき、誰かに甘えられてるのかなって。お父さんは強くてすごいけど、それでも寂しいときくらい、あるよね、きっと」
グレンには、ライムが何を敢えて曖昧にして話しているのか分かった。
つまり、妻がいないことが、共に子を育て、全てをさらけ出して話し合える相手がいないことが、心細いときがあるのではないかと、この一人娘は心配してくれているのだ。
グレンは自分が、ライムを必要以上に子どもだと思い込んでいたのだと思い知った。ライムはもうこんなにも、人の気持ちを考えることができるようになった。親のたくましさが無限ではないことを知り、慮ってくれるほどに、成長していたのだ。
「ライム」
グレンはクッキーの入った包み紙ごと、ライムの両手を包み込んだ。
「お父さんは、確かにライムを不安にさせていたかもしれないな。昨日、レオのお母さんにも言われたよ。一人で考え込むなって。それでも、ライムの親は一人だから、親だけで考えなきゃいけないことがあるからって、思い込んで」
話している内にグレンは、自分の心の奥底で凍り付いていた何かが、溶け出していくのを感じていた。
グレンは自然と、自分が考えていたことを打ち明けていた。
「お父さんは、外国に行くのをやめようかと思っていたんだ」
「ど、どうして!」
ライムは目を丸くして、思わず大声で言った。
「どうしてだと思う?」
聞き返されるとは思わず、ライムは戸惑ってしまう。
ライムの答えを長く待つような意地悪は、グレンはしなかった。
「お父さんも、ライムが心配だったんだ。お母さんがいなくなって、寂しい思いをしてるんじゃないかって。授業参観のとき、改めて思った。だからせめて、俺だけでも、ライムの傍にいてやろうと思って。もちろん、だからってお母さんの代わりにはなれないが……」
言い切って、グレンははっとした。
ライムの目から、大粒の涙が溢れていた。
「……」
ライムは何かを話そうとするが、涙としゃくりあげる喉が、それを邪魔しているようだった。
六歳のライムが、目の前のライムに重なっていく。
母を失った悲しみに覆われて、このまま消えてしまうのではないかと思うほど泣きじゃくっていたライム。
グレンは思わず立ち上がり、食卓を回ってライムを抱き締めた。
「……しいよ」
胸の中で、ライムが口を開いた。
「……さみしいよ。お母さんがもういないのも、……お父さんが外国に行っちゃうのも、寂しいよ」
ああ。グレンは天井を仰ぐ。
自分はどれだけ、ライムの見せかけの素直さに甘えてきたのだろう。ライムが人一倍強がりであることなど、分かっていたはずなのに。エリシアの葬式が終わった後、ライムが引き攣った笑顔を見せたあの日から。
「……でもね、お父さん」
ライムが胸から出てきて、涙に濡れた顔で、まっすぐ自分を見た。その顔には、あのときのライムにはなかった、何かがあるように感じた。心の内に一本通った、芯のような何か。
「私、お父さんがお仕事をするときの顔が好き。商品の説明をするときの、自信のある感じも、お客さんにお礼を言われたときの顔も、好き。私はお父さんが商人をしているときの姿を見ると、誇らしくなるの。だから」
ライムは涙に瞳を光らせたまま、にっこりと微笑んだ。
「お父さん、これからも外国に行って。この国にはない珍しいもの、いっぱい仕入れて帰ってきてね。私はお父さんみたいな商人になるためなら、勉強もお手伝いも、お留守番だって、頑張れるんだから」
グレンは認めざるを得なかった。これまで見ないようにしていた、優先順位の低いものとして押し込めようとしていたものが、目の前の娘によって今暴き出されていることを。
その気持ちは家族だけに対して向くものではない、もっと広く大きなものだから、それゆえに家族に対してそれを見せるのは、薄情であるような気がしていたのだ。
自分は商売がしたい。商売は自分にとって、単なる金稼ぎではない。この国になくて外国にあるもの、外国になくてこの国にあるもの。それらを見極めて、この手で繋ぐことだ。平和なこの国の大切な人たちが、もっと楽しく、快適に、豊かに生きられるように。
人の喜びを繋ぐ、細くとも決して落ちない、架け橋であること。
それが商人としての自分の信条で、この仕事をして生きていく意味だ。
「ありがとう」
グレンはライムの両肩を持った。今も変わらず、守るべきまだ幼い娘だ。
しかし同時に、いつかは商人として自分が持っている全てを叩き込むべき、たった一人の弟子でもある。
それもまた、目を逸らしたくはない事実だった。
「反則だろあれ……。あんなことされたら、もう行けねえよ……。おれがくそしょうもない奴みたいになるじゃねーか」
「何を喋ってるんだ?」
ソファで寝転んでいたノエルの頭上から、急に声が降ってきた。わっと声を上げて、ノエルはがばっと起き上がる。腹の上に載せていた包み紙が、ころりと落ちた。
「なんだ、誰にもあげてなかったのか。寂しいなあ」
落ちたそれを見て、ノイスが言う。
「う、うるせー」
「これは父として、いや男としての助言だが、好きって気持ちには素直になった方がいいぞ。恋愛は得てして、男から動かないと始まりすらしないんだからな」
「だっだから、そんなんじゃねーって!」
ソファのクッションを投げようとするノエルからひょいとそれを取り上げ、口笛を吹きながらノイスはお茶を淹れに行った。クッションを持ったまま、「早くお風呂に入れよー」と言い残して。
「……そんなんできたら、苦労しないよな」
落ちたクッキーの包み紙を見ながら、ノエルはぽつりと呟いた。
中にはハートの金型でくり抜いた、少し硬いクッキーが入っている。
第2話完結です!次回は、ノイス先生の机を覗きたい子どもたちの話になります(笑)




