第33話 シロの親子丼
温泉街の賑やかさを少し離れ、白い雪原を進んだ先にその牧場はあった。
頑丈な木造の鶏舎の足元からは、どこか温かい湯気がうっすらと立ち上っている。温泉街の豊かな地熱を利用した床暖房が整備されているらしく、室内はほんのりと暖かい。
そこにいたのは、極寒の環境に適応した、丸々と太ってモフモフとした毛皮のような羽毛に覆われたニワトリスたちだった。
「この羽の先が少し焦げたみたいになっとるのがコッコ。おっちょこちょいのおてんば娘だ」
「こっちの小柄な子はモミジ。じっとしてることが多い、大人しくて落ち着いた子だな」
プランツは一羽ずつ順に指差しながら、目を細めて紹介していく。
「あのデカくて気性が荒い奴はタマ。筋金入りの食いしん坊でな……あ! こらタマ! またモミジの飯盗み食いしとるな!?」
タマと呼ばれた巨体の一羽を追いかけて走り出すプランツ。
その微笑ましい光景に、俺とプチさんは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
「可愛いですね……」
俺は足元に寄ってきたモミジの頭を優しく撫でた。手に伝わる羽毛の柔らかさと、トクトクと脈打つ小さな温もり。
その時、走っていたプランツの足がピタリと止まった。
鶏舎の隅で、一羽のニワトリスをそっと抱きかかえ、そのまま微動だにしない。
「……プランツさん?」
声をかけても返事がない。静寂が鶏舎の中に落とされる。
尋常ではない気配を感じ、俺とプチさんは急いで駆け寄った。
プランツの腕の中に抱かれたニワトリスは、白い羽毛を静かに伏せ、ぴくりとも動かなかった。
「……病弱なのは、分かってたんだ」
ぽつりと落とされたプランツの声は、驚くほど静かだった。
「最後くらい、一緒にいてやりたかったな……」
何と声を掛ければいいのか分からなかった。喉がカラカラに乾いてしまい、上手く言葉が出てこない。
これまで幾度となく解体し、調理してきたニワトリス。
だが、目の前で静かに冷たくなっていくその姿を俺は直視することができなかった。
「ペンくん……お願いがあるんだけど」
静かな沈黙を破り、プランツが顔を上げた。その目は少し赤かった。
「この子を……美味しく調理してやってくれないか」
俺は無言で頷いた。
「……お名前、伺ってもいいですか」
「……シロだ」
プランツはそれ以上、何も語らなかった。
牧場の脇にある調理場へ移動する。
まな板の上に静かに横たわるシロを前にして、俺は包丁を握ろうとした。
――だが、手が動かない。
まるで包丁が鉛のように重く、指先が強張って上手く握れなかった。
黄金の鍋でニワトリスなんて嫌というほど解体してきたはずだ。
今日初めて出会ったばかりのニワトリスだ。
なのに、なぜだろう。
ポロポロと、自分の目から涙が溢れ出して止まらなかった。
横では目元を真っ赤にしたプランツがじっとシロの姿を見つめている。
なんで部外者の俺が泣いているんだ。
俺は両手で自分の頬をペチンと強く叩き、気合を入れた。
溢れる涙を袖でぐっと拭い、包丁を握り直す。
雑にしてはいけない。乱暴に扱ってはいけない。
命をくれたシロへ、心からの敬意を込めて包丁を入れた。
温かな羽毛を丁寧にむしり取り、皮にすっと刃を滑らせる。骨の関節を見極め、丁寧に包丁を入れていく。
もも肉、胸肉、手羽。それぞれを綺麗な切り身へと分け進めた。
解体したばかりの新鮮なもも肉を一口大に切り分け、シャキシャキとしたアスターオニオンを薄切りにする。
ボウルにニワトリスの卵を割り入れ、黄身と白身が混ざりきらない程度に軽く解いた。
手鍋に水、醤油、みりん、酒、そして出汁を注ぎ、火にかける。
ふつふつと煮立った割り下へ、鶏肉と玉ねぎを投入した。
浮いてくるアクを、一粒残さず丁寧にすくい取る。
しっかりとお肉に火が通り、出汁の旨味が玉ねぎにしみ込んだタイミングで、溶き卵の半分を回し入れた。
一気に花が開くように固まり出す卵。
そこに残りの溶き卵を注ぎ入れ、余熱でふんわりとした半熟状態に仕上げる。
プチさんが炊き上げてくれたツヤツヤのアスター米の上に、滑らせるように盛り付けた。
湯気と共に、出汁と卵の優しい香りが調理場に広がった。
だが、完成した丼を前にしても、俺もプチさんもすぐには箸を取ることができなかった。
プランツがそっと両手を合わせる。
「……いただきます」
静かに言い、箸を取った。
黄金色に輝く半熟卵と鶏肉を一口分、口へと運ぶ。
ゆっくりと、噛む。
命の重みを確かめるように、じっくりと咀嚼し、ゴクリと飲み込んだ。
「……うまい」
噛み締めるような一言だった。
プランツは一呼吸置き、丼の中のシロを見つめた。
「……シロ、お前ほんまええ子やったな」
その言葉を聞き、俺も深く手を合わせた。
「いただきます」
箸をつけ、口へ運ぶ。
口に入れた瞬間、トロトロの卵から出汁の優しい甘みがふわりと広がった。
白身は旨味をたっぷりと吸い込み、黄身は驚くほど濃厚なコクを主張してくる。
そして鶏肉は、噛めば噛むほど強く豊かな旨味が溢れ出し、喉を通っていった。
その美味しさが胸の奥をキュッと締め付けるように切なかった。
一口、また一口と噛み締め、最後の一粒まで残さず綺麗に綺麗に食べた。
「……ごちそうさまでした」
しっかりと手を合わせ、感謝を捧げた。
「ありがとうな、ペンくん。シロも美味しく食べてもらえて、きっと喜んどるよ」
プランツは穏やかな顔で笑っていた。
「……はい」
「……料理人って、ええ仕事やな」
「え?」
不意に呟かれた言葉に、俺は顔を上げた。
「最後を……こんな風に送ってやれるんやから」
プランツの言葉に俺は胸がいっぱいになり、静かに深く頷いた。
窓の外では氷雪島の静かな雪が、しんしんと降り積もっていた。




