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第8話 煙草の匂いと、甘いキス



 夜が来る。


 アングリーは、今日も扉の前に立っていた。


 鏡はないけれど、背筋を伸ばし、口元に笑みをつくる。


 ――恋人の顔。


 そう意識するだけで、胸の奥が少しだけ強く脈打つ。


 今日は朝の缶詰のことを考えていた。


 ジュードが無表情で食べていた、あの退屈そうな横顔。


(あれ、きっと美味しくなかったのよね)


 中身は同じでも、もう少し温めたり、混ぜたり。


 工夫すれば、きっと違う。


 そう考えているうちに、鍵の音がした。


 金属が擦れる音。


 そして、扉が開く。


 酒と煙草と、いつもの香水。


「おかえりなさい」


 言葉は、自然に出た。


 ジュードは一瞬だけ立ち止まり、それから無言で中に入る。


 彼は返事をしない。


 けれど、扉を閉める動きは、どこか丁寧だった。


 アングリーは、今日用意していた缶詰を差し出す。


「今朝のより、ちょっと工夫してみたの。貴方にとっては食べ飽きたものなんでしょう?」


 ジュードは眉をひそめる。


「……変なことするな」


「べつにいいじゃない。がっかりされるのは慣れてるから」


 一口。


 彼は、少しだけ間を置いた。


「……変わんねぇ」


「嘘」


 思わず口にすると、彼がこちらを見る。


「何だよ」


「顔。ちょっとだけ、違う」


 言われて、彼は視線を逸らした。


 沈黙が落ちる。


 自然と、アングリーは彼に近寄る。


 その静けさの中で、アングリーは、胸の奥に溜めていたものを思い出す。


 今夜が終われば、残りは一日。


 たった、それだけ。


(……今しか、ない)


「ねえ、ジュード」


「何だ」


 声が、少し震えた。


「……キス、してみたい」


 言った瞬間、空気がはっきりと変わった。


 ジュードの体が、わずかに硬直した。


 さっきまで、彼がまとっていた仕事の匂い。


 外の世界の気配。


 それが一気に、別のものに切り替わるのが、わかる。


(……今、すごく考えてる)


 彼の視線が、泳ぐ。


 一度、アングリーの瞳を見る。


 それから、唇へ落ちる。


 ほんの一瞬。


 なのに、その視線だけで、そこに触れられたような気がした。


 アングリーは思わず唇を結ぶ。


 それを見たジュードの喉が、微かに動いた。


「……お前」


 掠れた声だった。


「はい」


「……そういうこと、簡単に言うな」


「簡単じゃないわ」


「…………」


「ずっと、言おうか迷ってたもの」


 まっすぐ見上げる。


 逃げるでもなく、怯えるでもなく。


 ただ彼だけを見て。


「ジュードと、してみたいの」


 沈黙。


 今度こそ、ジュードは何も言わなかった。


 ――近い。


 彼がそう思った瞬間には、もう遅かった。


 彼女の呼吸がわかる距離。


 睫毛が影を落とすのが、やけに鮮明に見える。


(……触れたら、戻れなくなる)


 指先が熱を帯びる。


 頭の奥で、現実がよぎる。


 弾倉の残り数。逃走ルート。


 それでも、視線だけが彼女から離れない。


(今なら、何をしてもいい。――それが、一番危険だ)


 いつもなら、この距離まで来た相手をどう扱うかで迷ったことはなかった。


 必要なら触れ、必要なら突き放す。


 すべて仕事として終わらせてきた。


 躊躇したことなんて、一度もなかった。


 けれど、今は。


 目の前にいるのは標的で。


 三日後には自分が殺すはずの女で。


 そして。


 三日間だけの、恋人だった。


 彼女は笑っている。


 閉じ込められているはずなのに、疑いも恐れもなく。嬉しそうに。


 ――ここで終わらせたら、たぶん、もう二度と、この笑顔に触れられない。


 喉が鳴る。


 煙草の匂いが、やけに甘く感じられた。


「……お前」


 低い声。


 近づいてくる気配。


 アングリーの心臓が、早鐘を打つ。


 顔が近づく。


 煙草の匂いが、はっきりとわかる距離。


 息を吸えば、触れてしまうかもしれない。


 ジュードの瞳が、また唇へ落ちた。


 今度は、すぐには逸れなかった。


 見つめられているだけなのに、アングリーの唇が熱を持つ。


 呼吸が浅くなる。


 彼の吐いた息が、僅かに頬を撫でた。


 近い。


 あと少し。


 本当に、あと少し顔を傾ければ――。


 その瞬間。


 ジュードが止まった。


 額が触れそうな距離で。


「……今のお前は、鍵のかかった部屋にいる」


「え?」


 予想していなかった言葉に、アングリーが瞬く。


 ジュードは目を逸らさなかった。


「ここから出られねぇ」


「……そうね」


「俺が鍵を持ってる」


「ええ」


「俺が攫った。俺が閉じ込めてる。俺が、お前を殺すことになってる」


 一つずつ。


 自分自身に言い聞かせるように並べていく。


 アングリーの胸が、少しだけ痛んだ。


「でも、私は――」


「わかってる」


 ジュードが遮った。


「お前が自分で言ってんのは、わかってる」


 指先が持ち上がる。


 触れる寸前で止まる。


 頬まで、あと数ミリ。


「……恋人ごっこだ。だからこそ、俺は……」


 声が低かった。


 いつもの冷たさとは違う。


 むしろ、何かを必死で押し殺しているようにみえた。


 アングリーは目を見開いた。


「ジュード……」


「俺は、そこ一緒にする気ねぇから」


 殺し屋なのに。


 人の命を奪うことに、普段は、躊躇がないのだろうと思う。


 それが、三日間の恋人を前にして、たった一度の口づけには、こんなにも慎重になる。


 アングリーの胸の奥が、じわりと熱くなった。


「……じゃあ」


「あ?」


「もしもいつか、この部屋から出られたら?」


 ジュードの表情が止まった。


 ほんの一瞬。


 ひどく困ったような。


 それでいて、どこか傷ついたような顔。


「……そういうこと言うな」


「どうして?」


「あるはずのない、未来なんて……」


 吐き捨てるように言ったくせに。


 ジュードは離れなかった。


 むしろ、触れずにいた指先がとうとう動く。


 彼の指が、そっと頬に触れた。


 熱い。


 銃を握る指。


 人の命を奪ってきた手。


 髪を払った時よりも、ずっと意識的な触れ方だった。


 親指が、頬骨の下をほんの僅かに撫でる。


「……っ」


 アングリーの息が揺れた。


 その小さな反応に、ジュードの瞳が暗くなる。


 まるで、もっと触れたいとでも言うように。


 けれど。


 指は、それ以上下りてこない。


 唇にも触れない。


 頬を包むだけ。


 それなのに、アングリーには十分すぎるほど近かった。


 煙草。


 酒。


 ムスクの香る、甘い香水。


 その全部に包まれて、頭がぼんやりする。


 ジュードが僅かに顔を傾けた。


 アングリーは反射的に目を閉じる。


 唇に来る。


 そう思った。


 そうしてほしいと思った。


 ほんの少しだけ顎を上げてしまう。


 ジュードは、それに気づいた。


 気づいてしまった。


 数秒。


 触れない唇と唇のあいだを、互いの呼吸だけが行き交う。


 ジュードの喉が、苦しそうに鳴った。


「……ほんと、性質たち悪ぃな。お前」


「……何が?」


「何でもねぇ」


 そして。


 頬に、軽く。


 触れるだけのキスをした。


 一瞬。


 煙草の匂いが、至近距離で弾けた。


 柔らかい。


 ほんの一瞬だったのに。


 唇が頬を離れたあとも、そこだけ熱が残っている。


 触れられた場所から、ゆっくり熱が広がっていく。


 首へ。


 胸へ。


 指先へ。


 それだけ。


 なのに、胸がいっぱいになる。


 アングリーは指先をきゅっと握った。


 しかし、ジュードはすぐに離れ、顔を背けた。


 離れたと言っても、ほんの一歩だけ。


 アングリーの頬に触れていた手が、名残惜しそうに空中で止まり、それからゆっくり落ちる。


 唇ではなく頬を選んだのは、優しさなのだろうか。


 それとも。


 自分自身を止めるためだったのだろうか。


 アングリーには、まだわからない。


「……これ以上は、またいつかな」


 声が掠れていた。


 それが誰への言葉か、ジュード自身にも、もうわからなかった。


(……ない)


(あるわけがない。いつかなんて)


 心の中で、そう叫びながらもその言葉を訂正しなかった。


 なぜか。


 口に出して「ない」と言うことだけは、できなかった。


 明後日には殺す。


 そこで終わる。


 そう決まっている。


 それなのに。


 唇へ触れなかったことを、ほんの少しだけ惜しいと思っている。


 次なら。


 そんな考えが一瞬でも浮かんだことに、ジュードは自分で苛立った。


 苦し紛れに酒瓶を掴む。


 その手が震えていることに、気づかないまま。


 勢いよく栓を開け、飲み干すように、一口。


(――いつか、っていつ?)


 その言葉の端きれに、アングリーの胸は高鳴った。


 それ以上は聞かなかった。


 ジュードの、誤魔化すような後ろ姿がアングリーにとってとても愛らしかったから。


 それに。


 頬に残った熱へ指を当ててみれば、それだけでまた胸が騒いだ。


 たった一度。


 ほんの一瞬。


 唇ですらない。


 なのに。


 今まで交わしたどんな挨拶よりも、どんな社交辞令よりも、ずっと大切なものをもらった気がした。


「……私も、一杯ちょうだい」


 その言葉に、彼の動きが止まる。


「……」


「恋人だもの。一緒に飲みたいの」


 また、それ。


 ジュードは舌打ちしつつ、少しだけグラスに注ぐ。


「飲みすぎるなよ」


「どうして?」


 彼は一瞬、言葉に詰まった。


 そして、低く言う。


「……明日は、走る……気がする」


 それだけ。


「思いっきり、な」


 理由は説明しない。


 でも、その声は、どこか本気だった。


 アングリーは笑って頷く。


「うん。ジュードが言うなら……」


 意味はわからない。


 けれど。


 彼の言葉なら、信じられた。


 夜は、静かに更けていく。


 煙草の匂いと、酒の気配の中で、アングリーは、そっと胸に手を当てた。


 頬にはまだ、彼の唇の感触が残っている気がする。


 明日になれば消えてしまうのが惜しくて。


 けれど、もう一度してほしいとは言えなくて。


 アングリーは誰にも見つからないように、そっと頬を押さえた。


 その向こうでは。


 酒を飲むふりをしているジュードが、彼女を見ないようにしていた。


 見れば。


 また、唇へ行きたくなる。


 次は頬で止まれる自信がない。


 だから見ない。


 それでも視界の端から、彼女の姿が消えることだけは嫌だった。


 そんな矛盾に、自分で気づかないふりをした。


 ――明日。


 もしかしたら何かが、変わるのかもしれない。

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