第7話 噂と、帰る場所
裏通りの事務所は、昼でも薄暗い。
古い換気扇が唸り、煙草の煙が天井に溜まっている。机の上には地図、写真、盗聴記録。
すべてが、アングリー・ボーダを中心に回っていた。
ジュードは壁際に立ち、腕を組んでいた。
「警備の動きは?」
「屋敷の人間が半分入れ替わった。身代金の準備も進んでる」
「逃走経路は?」
「問題なし。郊外ルートはまだ生きてる。国境を越えられるぞ」
淡々としたやり取り。いつも通りの仕事。
それなのに。
胸の奥が、妙にざわついていた。
「しかしよぉ」
誰かが笑いながら言う。
「ジュード。お前、いい役引いたよな。
ボーダ家の令嬢だぞ?」
「生かしておけって条件だけ。後は好き放題できる」
「アングリーは処女だったか? 床、相当だろ?」
下卑た笑い声が広がる。
「なあ、どんな感じだ? 泣くタイプか?」
「いや、案外慣れてるんじゃねぇの? 金持ちの女だし」
ジュードは、何も言わない。
ただ、視線を落としたまま、煙草に火をつける。
指先が、ほんの一瞬だけ強く震えた。
「おいおい、だんまりかよ」
「図星か?」
「独り占めはズルいだろ。なあ、今晩お前が終わったら一晩貸せよ」
くぐもった笑いが起こる。
「オイおめぇ、そりゃあ無理だ。諦めろ。
だって、あのジュードだぜ?」
また別の誰かが、思い出したように言った。
「……ジュードが一度手ぇ出したら、
使い物にならなくなるって有名だろ」
下卑た視線が、一斉にジュードへ向いた。
ジュードは、煙草の灰を落とした。
何も言わない。
否定もしない。
――それを思い出されるのが、
ひどく不快だった。
喉の奥が、煙草の熱で焼けるみたいにひりついた。
笑い声。
羨望。嫉妬。欲望。
「……くっだらねぇ」
低い声で、ジュードは言った。
場が、一瞬だけ静まる。
「何だよ、怒ってんのか?」
「事実だろ?」
「……オイオイまさか本当に独り占めする気か? ジュードにしちゃ珍しいじゃねぇか。
そんなによかったのか? あの女の、***――」
ジュードの拳が、壁に叩きつけられた。
鈍い音ではない。重く鋭い音が響いた。
ジュードは顔を上げ、鋭く睨む。
「口を慎め」
それだけで、空気が変わった。
誰も、それ以上は言わない。逆らえない。
彼が一番の腕利きであることを、この場の全員が知っているからだ。
話題は、別の方向に流れる。
「そういや聞いたか?」
別の男が、面白そうに言った。
「この前の件。標的に惚れた殺し屋」
ジュードの耳が、微かに反応する。
「ギャハハハハハ、あのバカの話か」
「女逃がそうとしたんだろ? 依頼主にバレて即処分」
「笑えるよな。仕事に感情持ち込むからだ」
事務所に、笑い声が響く。
馬鹿にした声。軽い調子。
誰かが言う。
「殺し屋が恋? 冗談きついぜ」
「自業自得だよな」
その瞬間。
ジュードの背中を、冷たいものが走った。
笑い声が、耳の奥で歪んだ。
さっきまで確かに聞こえていたはずの音が、急に遠ざかる。
喉の奥が、ひやりと冷える。
――次に呼ばれるのは、自分の名前じゃないか。
そんな考えが、理由もなく浮かんで、消えない。
誰もこちらを見ていないはずなのに、
背中に視線が突き刺さるような錯覚だけが残った。
――恋。
――処分。
その二つのあいだに、距離はなかった。
頭の中で、言葉が繋がる。
(……そりゃそうだろ。そういう世界だ)
知っていたはずだ。ずっと。
(何を、いまさら――)
情を持った瞬間に、終わる。それが、この世界の掟。
なのに。
脳裏に浮かんだのは、朝の部屋で、彼を見上げて言った声だった。
『無事に、帰ってきてね』
ただ、それだけ。
願うような目。
命令でも、取引でもない。
ましてや、命乞いでも。
胸の奥が、ひやりとする。
(……馬鹿げてる)
自分は、何もしていない。何も、約束していない。
――三日間だけの、遊びだ。
そう言い聞かせる。
それでも。
ポケットの中に、何も入っていない感触が、やけに重い。
弾丸を、置いてきた。
自身の覚悟を。
ジュードは、煙草を強く吸い込み、吐き捨てる。
「……監禁部屋に戻る」
その声は、少しだけ低かった。
笑い声の中で、彼だけが気づいていた。
これは、いつもの依頼とは違う。
違ってしまった。
それが、何を意味するのか、
まだ、名前をつけられないまま。




