第7話 噂と、帰る場所
裏通りの事務所は、昼でも薄暗い。
古い換気扇が唸り、煙草の煙が天井に溜まっている。机の上には地図、写真、盗聴記録。すべてが、アングリー・ボーダを中心に回っていた。
ジュードは壁際に立ち、腕を組んでいた。
「警備の動きは?」
「屋敷の人間が半分入れ替わった。身代金の準備も進んでる」
「逃走経路は?」
「問題なし。郊外ルートはまだ生きてる。国境を越えられるぞ」
淡々としたやり取り。いつも通りの仕事。
それなのに。
胸の奥が、妙にざわついていた。
国境を越える。
これまでも何度となく聞いてきた言葉だ。
仕事が終われば街を捨てる。国を越える。名を変える。必要なら二度と戻らない。
それだけのことだった。
なのに今は、その言葉を聞いた瞬間、頭の片隅に薄暗い部屋が浮かぶ。
自分が戻るのを待っている女。
昨夜の声。
『……おかえりなさい、ジュード』
そして今朝。
『無事に、帰ってきてね』
「しかしよぉ」
誰かが笑いながら言う。
「ジュード。お前、いい役引いたよな。ボーダ家の令嬢だぞ?」
「生かしておけって条件だけ。後は好き放題できる」
「アングリーは処女だったか? 床、相当だろ?」
下卑た笑い声が広がる。
「なあ、どんな感じだ? 泣くタイプか?」
「いや、案外慣れてるんじゃねぇの? 金持ちの女だし」
ジュードは、何も言わない。
ただ、視線を落としたまま、煙草に火をつける。指先が、ほんの一瞬だけ強く震えた。
朝まで隣で眠っていた女の顔が浮かぶ。
無防備な寝息。
絡めた指。
耳の下を掠めただけで、小さく漏れた声。
思い出した瞬間、舌の奥に苦いものが滲んだ。
自分が覚えているそれを。
こいつらが勝手に想像して、勝手に口にする。
それが、ひどく気に障った。
「おいおい、だんまりかよ」
「図星か?」
「独り占めはズルいだろ。なあ、今晩お前が終わったら一晩貸せよ」
くぐもった笑いが起こる。
「オイおめぇ、そりゃあ無理だ。諦めろ。だって、あのジュードだぜ?」
また別の誰かが、思い出したように言った。
「……ジュードが一度手ぇ出したら、使い物にならなくなるって有名だろ」
下卑た視線が、一斉にジュードへ向いた。
ジュードは、煙草の灰を落とした。
何も言わない。
否定もしない。
――それを思い出されるのが、ひどく不快だった。
喉の奥が、煙草の熱で焼けるみたいにひりついた。
笑い声。
羨望。嫉妬。欲望。
「……くっだらねぇ」
低い声で、ジュードは言った。
場が、一瞬だけ静まる。
「何だよ、怒ってんのか?」
「事実だろ?」
「……オイオイまさか本当に独り占めする気か? ジュードにしちゃ珍しいじゃねぇか。そんなによかったのか? あの女の、***――」
ジュードの拳が、壁に叩きつけられた。
鈍い音ではない。重く鋭い音が響いた。
ジュードは顔を上げ、鋭く睨む。
「口を慎め」
それだけで、空気が変わった。
けれど。
そこで終わらなかった。
ジュードは壁から拳を離すと、腰へ手を伸ばした。
薄型の自動拳銃を抜く。
一瞬で、何人かの顔から笑いが消えた。
だがジュードは銃口を誰にも向けなかった。
ただ、机の上へ置く。
――コトリ。
乾いた音。
脅すには、あまりにも静かな音だった。
だからこそ。
その場にいた全員が黙った。
「……もう一度」
ジュードが言う。
煙草を咥えたまま、低く。
「もう一度、あいつをそういう目で語ってみろ」
瞳だけが、笑っていない。
「次は口じゃ済まさねぇ」
沈黙。
誰も、それ以上は言わない。逆らえない。
彼が一番の腕利きであることを、この場の全員が知っているからだ。
ジュードは自分でも、なぜここまで腹が立つのかわからなかった。
ただの標的だ。
身代金を受け取るまで傷をつけず、生かしておかなければならない商品。
だから。
――標的の商品価値を守っているだけだ。
そう考えればいい。
他の男に触れさせないのも。
下卑た目で見られることに腹が立つのも。
全部、仕事のうち。
それだけだ。
それ以上の意味なんてない。
ないはずだった。
それなのに。
『もう少し、強く握ってもいいのよ?』
指を絡めてきた、小さな手。
『ジュードだから、嬉しいの』
真っ直ぐ自分を見ていた瞳。
そして。
『無事に、帰ってきてね』
胸の奥が、またざわつく。
(……違ぇ)
ジュードは煙草を強く噛んだ。
(仕事だ)
誰に聞かせるでもなく、胸の中で繰り返す。
(あいつは標的だ。それだけだ)
話題は、別の方向に流れる。
「そういや聞いたか?」
別の男が、面白そうに言った。
「この前の件。標的に惚れた殺し屋」
ジュードの耳が、微かに反応する。
「ギャハハハハハ、あのバカの話か」
「女逃がそうとしたんだろ? 依頼主にバレて即処分」
「笑えるよな。仕事に感情持ち込むからだ」
事務所に、笑い声が響く。
馬鹿にした声。軽い調子。
誰かが言う。
「殺し屋が恋? 冗談きついぜ」
「自業自得だよな」
その瞬間。
ジュードの背中を、冷たいものが走った。
笑い声が、耳の奥で歪んだ。
さっきまで確かに聞こえていたはずの音が、急に遠ざかる。
喉の奥が、ひやりと冷える。
――次に呼ばれるのは、自分の名前じゃないか。
そんな考えが、理由もなく浮かんで、消えない。
誰もこちらを見ていないはずなのに、背中に視線が突き刺さるような錯覚だけが残った。
――恋。
――処分。
その二つのあいだに、距離はなかった。
頭の中で、言葉が繋がる。
(……そりゃそうだろ。そういう世界だ)
知っていたはずだ。ずっと。
(何を、いまさら――)
情を持った瞬間に、終わる。それが、この世界の掟。
人を殺すことそのものよりも、仕事に私情を持ち込む方が忌まれる世界だ。
金で標的を決める。
依頼を受ければ遂行する。
昨日まで笑って酒を飲んでいた相手でも、仕事になれば撃つ。
そういう場所で、ジュードは生きてきた。
誰か一人だけを特別にする。
その瞬間から、弱点になる。
守ろうとすれば、利用される。
逃がそうとすれば、裏切りになる。
だから最初から、持たなければいい。
帰る場所も。
待っている人間も。
失いたくないものも。
何ひとつ。
――そのはずだった。
なのに。
脳裏に浮かんだのは、朝の部屋で、彼を見上げて言った声だった。
『無事に、帰ってきてね』
ただ、それだけ。
願うような目。
命令でも、取引でもない。
ましてや、命乞いでも。
胸の奥が、ひやりとする。
(……馬鹿げてる)
自分は、何もしていない。
何も、約束していない。
――三日間だけの、遊びだ。
そう言い聞かせる。
それでも。
ポケットの中に、何も入っていない感触が、やけに重い。
弾丸を、置いてきた。
自身の覚悟を。
『持っててろ』
『……戻る理由になる』
自分で言った。
誰かの元へ戻る理由など、今まで一度も必要としなかった男が。
自分の弾丸を、一人の女に預けた。
今頃。
あの女は、それを持って待っている。
そう思った瞬間。
理由のわからない焦燥が、胸を掻いた。
まだここにいる。
くだらない話を聞いている。
そんな時間すら、ひどく無駄なものに思えた。
帰らなければ。
その言葉が頭に浮かんでから、ジュードは眉を寄せた。
(……帰る?)
違う。
監禁場所へ戻るだけだ。
標的の状態を確認するために。
それだけ。
ジュードは、煙草を強く吸い込み、吐き捨てる。
「……監禁部屋に戻る」
その声は、少しだけ低かった。
机の上の拳銃を取り、慣れた手つきで腰へ戻す。
「もうか?」
「ああ」
「まだ打ち合わせ――」
「必要なことは聞いた」
それ以上は答えなかった。
事務所を出る。
薄暗い裏通りへ踏み出した瞬間、無意識に歩調が速くなった。
自分では気づかないほど、僅かに。
早く戻りたいなどとは思っていない。
待たせたくないわけでもない。
ましてや。
あの女が、今もあの部屋にいることを確かめたいわけでもない。
――全部、仕事だ。
そうでなければならない。
笑い声の中で、彼だけが気づいていた。
これは、いつもの依頼とは違う。
違ってしまった。
それが、何を意味するのか。
まだ、名前をつけられないまま。




