第6話 撃たない弾丸を、お前に
塞ぎ込んだ窓から僅かに溢れる日差しが、朝であることを告げる。
正確な時刻はわからない。
アングリーはそっと目を開けた。
――ジュードが、眠っている。
深く。本当に、深く。
隣で横になっている少年は、昨夜の緊張をすべて脱ぎ捨てたように、無防備だった。眉間の皺もなく、唇はわずかに開いている。
「……寝坊助」
からかうように囁いても、眠りは揺るがない。
アングリーは思わず口元を押さえた。
(……可愛い)
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
昨夜までの彼は、銃を持ち、恋人ごっこの最中でもどこか、緊張感を手放さないプロの殺し屋だった。
それなのに今は、ただ眠っているだけの少年だ。
アングリーは、じっと彼を見つめる。
長い睫毛。頬の線。無意識に緩んだ口元。
起きているときには、絶対に見せない顔。
(……私しか知らない)
そんな考えが浮かんで、胸がきゅっと締めつけられた。
ただ、この時間を壊したくなかった。
アングリーはベッドの端に座り、彼を見守る。
何時間でも、こうしていられる気がした。
その眠りを守ることが、少しだけ誇らしかった。
――この時間が、終わってしまうのが、少しだけ怖い。
そう思ったことにはまだ気づかないふりをして、アングリーは埃だらけの毛布に潜った。
***
――目を覚ましたジュードは、朝食の支度を始めた。
ガスバーナーで温められた缶詰が、無造作にテーブルへ置かれる。
豆の煮込み。肉のペースト。乾いたビスケット。
どれも飾り気がなく、色気もない。
「今日はこんなもんだ」
ジュードはそう言って、缶切りを使い慣れた手つきで開ける。
アングリーは、その様子をまじまじと見ていた。
「……それ、何?」
「食い物」
「缶の中に?」
「そうだが」
不思議そうに覗き込む彼女に、ジュードは一瞬だけ眉をひそめる。
「……まさか」
缶詰を知らない、という可能性が頭をよぎる。
アングリーは、少し照れたように言った。
「見たことはあるわ。でも……食べたことはないの」
「……嘘だろ」
思わず、声が出た。
「屋敷じゃ、毎食ちゃんとした料理が出るもの。温かくて、綺麗で……」
そこで、言葉が止まる。
アングリーは、缶の中身を見つめていた。
まるで不思議なものを見るみたいに。
「……食べていいの?」
「……ああ」
ジュードは、スプーンを渡す。
アングリーは、少しだけ躊躇してから、口に運んだ。
もぐ、と音がする。
次の瞬間。
「……!」
「……美味しい……」
心から驚いた声だった。
ジュードは、思わず言葉を失う。
「ちゃんと味がする」
「……安物だぞ」
「お前の屋敷の飯とは、比べ物にならないだろ」
そう言い切った。
アングリーは、しばらく黙っていた。
それから、スプーンを置く。
「……違うの」
「何が」
彼女は、静かに言った。
「屋敷の食事は、確かに贅沢だったわ」
柔らかい肉。美しい盛り付け。完璧な配膳。
「でもね」
視線を上げる。
アングリーは、微笑んだ。
「ジュードと一緒に食べる缶詰は、もっと美味しいの」
その瞳には迷いがなかった。
ジュードの喉が、微かに鳴った。
「……」
言葉が、出てこない。
缶詰を見下ろし、それから、アングリーを見る。
「……そういうことばっか、簡単に言うな」
低い声。目を逸らす。
沈黙。
言葉の代わりに、彼は自分も缶詰に手を伸ばした。
一口、食べる。
いつもと同じ味。慣れきった、生活の味。
――なのに。
「……」
ほんの少しだけ、違って感じた。
ジュードは、視線を逸らしたまま言う。
「……食え。冷める」
「ええ」
アングリーは、嬉しそうに頷いた。
***
――朝食が終わると、部屋はまた静かになった。
缶詰の蓋が脇に積まれ、空気だけが少し温かい。
ジュードは立ち上がり、壁際に掛けていたジャケットに手を伸ばした。
その動きで、アングリーは察する。
「……また、仕事?」
「そうだ」
短い返事。
いつもの、感情のない声。
それなのに。
胸の奥が、きゅっと締まる。
「今日は……いつ戻るの?」
「夜だ」
「夜……」
思わず、繰り返してしまう。
三日間。もう、二日目なのに。
時間は、驚くほど早い。
ジュードは銃を確認し、弾倉を戻す。慣れた動作。迷いのない手。
その背中を見ながら、アングリーは思った。
(この人は、こうして毎日、生きてきたのね)
誰かを待たせることもなく。誰かに待たれることもなく。
「……ジュード」
「何だ」
振り返らずに返事をする。
アングリーは、少しだけ言葉に詰まってから言った。
「無事に、帰ってきてね」
一瞬。
ジュードの動きが止まった。
「……何だ、それ」
「恋人のお願いよ」
冗談めかした声。でも、目は本気だった。
彼は、ゆっくり振り返る。
その視線は、いつもより少しだけ低く、鋭かった。
「……お前それ。俺が何しに行くか、わかって言ってんのか」
「ええ」
アングリーは、頷く。
「危ない仕事でしょう?」
「……ああ」
「それでも」
彼女は、一歩だけ近づいた。
「帰ってきてほしいの」
それだけだった。
縋るでもなく、泣くでもなく。ただ、願うように。
ジュードは、しばらく黙っていた。
それから、低く息を吐く。
ジュードはジャケットのボタンを留めながら、ふと動きを止めた。
理由はない。
いや、あるのかもしれないが、彼自身にも形が分からなかった。
――胸の奥で、
ぽつりと何かが沈む音がした。
静かに、重く。
水底に落ちる鍵みたいに、戻らない場所へ。
彼はその感触を振り払うように、わずかに舌打ちした。
だが、指先が先に動いていた。
ポケットの内側へ。
いつもなら放りっぱなしの金属に、なぜか触れた。
指に残る冷たさが、やけに長く消えなかった。
こんなものを他人に渡す理由なんて、本来どこにもない。
(……何してんだ、俺は)
呆れたように、諦めたように、
誰にも届かない言葉が胸の奥でこぼれる。
名前にもならない衝動が、
彼の理屈より先に、形を持ってしまった。
彼はその弾丸を取り出し、
何の説明もなく――
アングリーの手へ、そっと落とした。
「……これ」
アングリーの手に、置かれた。
「え……?」
「俺が使ってるやつだ」
撃たなかった弾。意味を持たないはずの残り。
「持ってろ」
「どうして?」
問いかけに、彼は視線を逸らす。
「……戻る理由になる」
――そんなものを、誰かに預けたのは初めてだった。
その言葉は、とても小さかった。
しかし、ジュードの眼差しは真剣そのものだった。
アングリーの指が、弾丸を包む。
冷たいはずなのに、不思議と温かい。
「……覚悟?」
ジュードは、ほんの一瞬だけ迷ってから言った。
「……ああ」
ジュードにとって、
その覚悟は、どんな契約よりも重かった。
扉に向かいながら、彼は言う。
「鍵は、ちゃんとかける」
「ええ」
「余計なことはするな」
「ええ」
いつものやり取り。
でも、今日は。
扉の前で、彼は立ち止まった。
振り返らずに、言う。
「……待ってろ」
それは命令のようで、願いのようでもあった。
扉が閉まる。
鍵が回る。
金属音が、部屋に残る。
アングリーは、胸元の弾丸を握りしめた。
「……行ってらっしゃい」
もう、聞こえないと知りながら。
二日目の朝は、別れの余韻を残して、静かに始まった。




