第5話 夜、扉越しに帰りを待つ
――夕闇が来た。
窓は塞がれているから、外の景色はわからない。 けれど、時間の流れだけは体が覚えている。
午後のあいだ、ジュードは部屋にいなかった。
仕事だ、と短く言って出て行った。
それがどういう類の仕事なのか、アングリーは聞かなかった。
聞かなくても、想像はついてしまうからだ。
出て行く直前まで、ジュードの腰には拳銃があった。
革のジャケットの内側にも、見慣れない金属の重みが隠されていることを、アングリーはもう知っている。
この街では、遠くから軍用車両の低い走行音が聞こえることがある。
国境では今も小さな衝突が続き、その影には、表では名を持たない人間たちがいる。
ジュードもきっと、その暗がりの一人なのだ。
だから。
「行ってらっしゃい」
そう言おうとして、アングリーはやめた。
彼が何をしに行くのかを考えれば、
そんな言葉をかけていいのかわからなかったから。
それでも。
彼が出て行ったあと、部屋に残された静けさは、思った以上に広かった。
アングリーはベッドに腰掛け、何度も扉の方を見る。
意味もなく立ち上がり、また座り、落ち着かないまま時間を過ごした。
――恋人。
朝、彼に教えられた距離。繋いだ手の感触。
それを思い出すたび、胸の奥がそわそわして、じっとしていられなくなる。
あの瞳が、ふいに浮かんだ。
触れてもいないのに、掴まれているみたいに、離れない。
思い出すたび、胸の奥が、少しだけ熱くなる。
今朝、絡めた指。
銃を握るためにできた硬い皮膚。
節に残る小さな傷。
あんなにも荒れた手なのに、自分に触れたときだけは、
信じられないほど慎重だった。
思い返しただけで、掌が妙に熱い。
アングリーは自分の手を見つめてから、そっと指を握った。
まるでそこにまだ、ジュードの指が絡んでいるみたいに。
(……待ってろ、って)
恋人は、待つものなのだろうか。
誰かの、帰りを。
教養書にも、作法書にも、そんなことは書いていなかった。けれど、なぜか今は、それが“正解”のような気がした。
侯爵令嬢として教わったのは、客人の迎え方や、晩餐会での振る舞いや、夫となる人間の隣でどう微笑むべきか。
けれど。
ただ一人の人を待ちたいと思ったとき、
どうすればいいのかは、誰も教えてくれなかった。
誰かに命じられたからではない。
ボーダ家のためでもない。
令嬢として正しいからでもない。
ただ。
ジュードが帰ってきてほしい。
それだけだった。
アングリーは考えた。
朝みたいに、ただ隣にいるだけでもいい。
でも、それだけじゃない“恋人らしいこと”を、今日はしてみたかった。
考えた末に、彼女が選んだのは、とてもささやかなことだった。
部屋にある最低限の備品。
電気ケトルと、安っぽいカップ。
インスタントのコーヒーに、紅茶のティーバッグ。
それを使って、温かい飲み物を用意する。
味はきっと、大したものじゃない。
けれど、“用意して待つ”という行為そのものが、大事な気がした。
湯を注いだ瞬間、苦い香りが立ち上る。
それを嗅いで、
アングリーは少しだけ笑った。
ジュードからいつも漂う、煙草と酒の匂いとは違う。
けれど、なぜか彼に似合う気がした。
冷めてしまえば、また湯を沸かせばいい。
そう思っていたのに。
一度。
二度。
時間が経つたび、アングリーはカップへ手を伸ばし、
まだ温かいか確かめた。
自分でも可笑しいくらいだった。
帰ってくるかどうかもわからない男を。
帰ってきたところで、
明後日には自分を殺す男を。
こんなふうに待っている。
やがて。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
重く、独特のテンポで刻まれる迷いのない足取り。聞き覚えのある靴音。
アングリーの心臓が、跳ねる。
たった一日しか聞いていないはずなのに。
もう、わかる。
あれはジュードだ。
知らない足音が近づけば警戒するはずなのに、
彼の足音だとわかった瞬間、胸が緩んだ。
そのことが、アングリーには少し不思議だった。
鍵が回る音。金属が擦れる、乾いた音。
扉が開いた。
酒と煙草と、気だるいムスクの香水の匂いが、夜の空気と一緒に流れ込んでくる。
その奥に。
ほんの微かに、火薬の焦げたような匂いが混じっていた。
アングリーは気づいた。
けれど、何も聞かなかった。
ジュードだった。
ジャケットの襟を少し緩め、いつもの無表情。 けれど、どこか疲れが滲んでいる。
頬に傷はない。
服にも、目につく血はついていない。
それを確認してしまった自分に気づいて、
アングリーは胸の奥で小さく息を吐いた。
――よかった。
なぜそう思ったのか。
考えるより先に身体が動いた。
その姿を見た瞬間、アングリーは反射的に立ち上がっていた。
「……おかえりなさい、ジュード」
その言葉に、彼の動きが一瞬だけ止まる。
「……んん?」
間の抜けた声だった。
ジュードは人を殺したことがある。
追われたことも、撃たれたこともある。
危険を察知することなら、とっくに呼吸と同じくらい身体に染みついている。
なのに。
たった一言。
――おかえりなさい。
その言葉だけは、
どう受け止めればいいのかわからなかった。
帰る。
そんなふうに考えたことはなかった。
仕事が終われば寝床へ戻る。
必要なら別の場所へ移る。
それだけだ。
誰かがいる場所へ戻ることを、
“帰る”と呼んだことなどない。
アングリーは少し照れながらも、まっすぐに続ける。
「恋人だから。帰ってきたら、そう言うものだと思って」
ジュードは眉をひそめ、ため息を吐いた。
「……勝手なこと覚えるな」
そう言いながらも、扉を閉め、鍵をかける。
いつもと同じ動作だった。
なのに鍵を回した瞬間、
ジュードは妙な違和感を覚えた。
閉じ込めている。
昨日までなら、それだけだった。
標的を逃がさないための鍵。
けれど今は。
扉の内側にアングリーがいて。
自分を待っていた女がいて。
その場所へ自分から戻ってきた。
――馬鹿みてぇだ。
何を考えている。
これは監禁場所だ。
家じゃない。
自分には、帰る場所なんて必要ない。
その一連の動作が終わってから、ようやく彼はアングリーを見る。
「ずっと起きてたのか」
「ええ」
「暇だったろ」
「少しだけ」
アングリーは、テーブルの上のカップを指差した。
「でも、待ってたから」
ジュードの視線が、そこに落ちる。
安物のカップ。
湯気はもう弱い。
待っていた。
また、その言葉。
胸の奥の、撃たれても刺されても痛まないはずの場所を、
そこだけ狙って何かが入り込んでくる。
ジュードは無意識に舌打ちしかけて、やめた。
アングリーは何も知らない。
自分が今、
どんな顔をしているのかも。
たぶん。
この女は本当に、何もわからないまま、
こんなことをしている。
それが、いちばん性質が悪かった。
彼はそれをじっと見てから、アングリーに視線を戻した。
「……何だ、これ」
「温かいもの。コーヒーにしたの。朝みたいに、何をすればいいかわからなくて……でも」
一瞬、言葉を選ぶ。
「帰ってきたら、少しはホッとしてほしかったの」
沈黙。
ジュードは一瞬だけ、目を伏せた。
帰ってきたら。
その言い方が、どうしようもなく耳に残る。
自分が戻ってくることを前提にした言葉。
戻ってきてほしいと、
誰かに思われること。
そんなものを欲しいと思ったことなど、一度もない。
――今までは。
ジュードは何も言わず、カップを手に取った。 一口、口をつける。
「……不味い」
「ごめんなさい」
「謝んな。そもそも、俺のコーヒーだ」
そう言って、彼はもう一口飲んだ。
冷めかけた、薄いコーヒーだった。
本当に不味い。
なのに。
飲み切らずに捨てるという選択肢だけが、
なぜか最初から頭になかった。
アングリーは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
大したことはしていない。
それでも、“待っていた”という事実が、確かにここにあった。
「なあ」
ジュードが低く言う。
「今日の昼間、何してた」
「考えてたの」
「何を」
「恋人らしいこと」
ジュードは、ぴたりと動きを止めた。
それまで淡々と喋っていたジュードが、急に黙った。
煙草の火を見つめるふりをしながら、答えを濁している。まるで、言葉が喉の奥で燃えてしまったように。
「……朝ので十分だろ」
「でも」
アングリーは小さく笑う。
「今日は夜もあるわ」
その言葉に、ジュードは明らかに視線を逸らした。
彼の視線の端で、彼女の笑顔が弾けた。
それだけで、指先が言うことを聞かなくなる。
火薬にも血にも慣れているはずの手が、
女の子ひとりの笑顔に、まるで震えるようなことがあってたまるかと思った。
夜もある。
その一言を、
どういう意味で口にしたのか。
たぶん、この女は深く考えていない。
わかっている。
わかっているのに。
朝。
腕の中へ引き寄せた身体の柔らかさ。
すぐそばにあった唇。
耳の下を指が掠めたときに漏れた、小さな息。
そんなものまで鮮明に思い出してしまう。
「……変な期待すんな」
「そうじゃなくて」
本当だった。
彼女は何か特別なことを望んでいるわけじゃない。
ただ。
同じ空間で、同じ時間を過ごせることが、嬉しいだけだ。
ジュードはカップを置き、ソファに腰を下ろした。
「……来い」
短い言葉。
アングリーは迷わず、彼の隣に座る。昼間と同じ距離。
触れない。でも、近い。
肩と肩の間には、
指二本分ほどの隙間しかない。
アングリーが少し身体を動かすたび、
ドレスの布がかすかに擦れる。
その小さな音にまで、
ジュードの意識が引かれる。
近い。
朝だって同じように近づいた。
腕の中に入れさえした。
なのに夜になると、
同じ距離がまるで違って感じられる。
裸電球の弱い光。
静かな部屋。
外へ逃げる場所のない二人きり。
そして。
自分の隣にいる女は、
今だけは恋人なのだと言った。
ジュードは無意識に煙草を咥えようとして、
やめた。
「吸わないの?」
「……今日はいい」
アングリーがこちらを見る。
理由など説明するつもりはなかった。
煙草を吸えば、
また彼女に匂いが移る。
そんなことを考えた自分が腹立たしかった。
沈黙が落ちる。
夜は、まだ始まったばかりだった。
ジュードは、ふと呟く。
「……お前、本当に変だな」
アングリーは、微笑んだ。
「ふふ。女の子はね、恋をするとどこかおかしくなっちゃうみたい」
彼はしばらく何も答えなかった。
恋。
その言葉だけが、
妙に生々しく胸へ落ちた。
ジュードは聞かなかった。
――誰に。
聞く必要などない。
三日間だけの恋人。
そう決めただけだ。
それなのに。
もし今、
アングリーの口から自分以外の男の名前が出たら。
それを想像しただけで、
胸の奥に黒いものが落ちた。
理由のわからない、不快感。
腹の底に沈む、
冷たい苛立ち。
ジュードは眉を寄せる。
くだらない。
明後日には終わる。
それまでの遊びだ。
そう思った途端、
今度は別の場所が妙にざわついた。
代わりに煙草に火をつけ、短くなりきる前に灰を落とした。
「今夜は俺もここで寝る。……寝るだけだ。何もない」
そう言い切ったあとで、それが何を意味するのか、考えないようにした。
アングリーは数秒だけ瞬きをした。
それから。
「ええ」
あまりにも素直に頷いた。
ジュードの方が困る。
「……お前な」
「何?」
「もう少し警戒しろ」
「ジュードに?」
「俺以外に誰がいる」
「でも、恋人でしょう? なら、何が起きてもいいはずよ」
「……そういう問題じゃねぇ」
呆れたように言いながら、
ジュードは片手で顔を覆った。
この女には、本当に危機感がない。
少なくとも。
自分に対してだけは。
その夜。
彼は古びたベッドの上で、アングリーの隣で眠りについた。
ベッドは二人で使うには、少し狭かった。
横になれば、
互いの体温が嫌でもわかる。
アングリーは壁側。
ジュードは外側。
最初にそう決めたのは彼だった。
何かあれば、
自分が先に動ける位置。
――それだけだ。
そういうことにした。
「……ジュードが、近い」
暗闇の中で、アングリーが小さく言った。
「狭ぇんだから仕方ねぇだろ」
「朝より近いかも」
「黙って寝ろ」
「ふふ」
「笑うな」
衣擦れの音。
アングリーが寝返りを打つ。
それだけで、
背中越しに柔らかな髪がジュードの腕へ触れた。
甘い香りがする。
ジュードは目を閉じたまま、
僅かに息を止めた。
触れているのは、髪だけ。
それなのに。
朝よりずっと、
彼女の存在が近い。
「ジュード」
「……今度は何だ」
「今日は、帰ってきてくれてありがとう」
ジュードは目を開けた。
「おやすみなさい」
それきり、アングリーは大人しくなった。
ほどなくして、
小さく規則正しい寝息が聞こえ始める。
ジュードだけが眠れなかった。
――帰ってきてくれて、ありがとう。
おかえり。
待っていた。
帰ってきてほしかった。
一日のうちに何度も、
今まで自分には縁のなかった言葉を与えられた。
どれもくだらない。
三日後には消えるものだ。
この部屋も。
この時間も。
隣で眠る女も。
そのはずなのに。
確かめるように、
ジュードはほんの少し顔を横へ向けた。
眠りに落ちた横顔は、
彼女が知っている殺し屋のものではなかった。
けれど。
その少し前まで。
アングリーが眠ったあとも、
ジュードは長いこと目を閉じられずにいた。
薄暗い部屋。
すぐ隣にある寝息。
手を伸ばせば触れられる距離。
眠っている女をどうにかする趣味などない。
そんなことは考えるまでもなかった。
ただ。
頬に落ちた髪を、
払ってやりたいと思った。
指を伸ばしかける。
止める。
しばらくして、
また伸ばしかける。
「……馬鹿か、俺は」
声にならないほど小さく吐き捨てた。
結局。
触れることはしなかった。
ただ、
隣にいることを確かめるように目を閉じた。
明日も。
自分が仕事から戻ったら。
あの声はまた、
「おかえり」と言うのだろうか。
そんなことを期待した瞬間。
ジュードは、
自分の中で何かがひどくまずい方向へ動き始めていることに気づいた。
それでも。
部屋を出て別の場所で眠るという選択だけは、
最後まで思いつかなかった。
三日間の一日目の夜は、静かに、確かに、ふたりのあいだに降り積もっていった。




