第5話 夜、扉越しに帰りを待つ
――夜が来た。
窓は塞がれているから、外の景色はわからない。 けれど、時間の流れだけは体が覚えている。
午後のあいだ、ジュードは部屋にいなかった。
仕事だ、と短く言って出て行った。 それがどういう類の仕事なのか、アングリーは聞かなかった。 聞かなくても、想像はついてしまうからだ。
それでも。
彼が出て行ったあと、部屋に残された静けさは、思った以上に広かった。
アングリーはベッドに腰掛け、何度も扉の方を見る。 意味もなく立ち上がり、また座り、落ち着かないまま時間を過ごした。
――恋人。
朝、彼に教えられた距離。繋いだ手の感触。
それを思い出すたび、胸の奥がそわそわして、じっとしていられなくなる。
あの瞳が、ふいに浮かんだ。
触れてもいないのに、掴まれているみたいに、離れない。
思い出すたび、胸の奥が、少しだけ熱くなる。
(……待ってろ、って)
恋人は、待つものなのだろうか。
誰かの、帰りを。
教養書にも、作法書にも、そんなことは書いていなかった。けれど、なぜか今は、それが“正解”のような気がした。
アングリーは考えた。
朝みたいに、ただ隣にいるだけでもいい。
でも、それだけじゃない“恋人らしいこと”を、今日はしてみたかった。
考えた末に、彼女が選んだのは、とてもささやかなことだった。
部屋にある最低限の備品。
電気ケトルと、安っぽいカップ。
インスタントのコーヒーに、紅茶のティーバッグ。
それを使って、温かい飲み物を用意する。
味はきっと、大したものじゃない。
けれど、“用意して待つ”という行為そのものが、大事な気がした。
やがて。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
重く、独特のテンポで刻まれる迷いのない足取り。聞き覚えのある靴音。
アングリーの心臓が、跳ねる。
鍵が回る音。金属が擦れる、乾いた音。
扉が開いた。
酒と煙草と、気だるいムスクの香水の匂いが、夜の空気と一緒に流れ込んでくる。
ジュードだった。
ジャケットの襟を少し緩め、いつもの無表情。 けれど、どこか疲れが滲んでいる。
その姿を見た瞬間、アングリーは反射的に立ち上がっていた。
「……おかえりなさい、ジュード」
その言葉に、彼の動きが一瞬だけ止まる。
「……んん?」
間の抜けた声だった。
アングリーは少し照れながらも、まっすぐに続ける。
「恋人だから。帰ってきたら、そう言うものだと思って」
ジュードは眉をひそめ、ため息を吐いた。
「……勝手なこと覚えるな」
そう言いながらも、扉を閉め、鍵をかける。
その一連の動作が終わってから、ようやく彼はアングリーを見る。
「ずっと起きてたのか」
「ええ」
「暇だったろ」
「少しだけ」
アングリーは、テーブルの上のカップを指差した。
「でも、待ってたから」
ジュードの視線が、そこに落ちる。
安物のカップ。
湯気はもう弱い。
彼はそれをじっと見てから、アングリーに視線を戻した。
「……何だ、これ」
「温かいもの。コーヒーにしたの。朝みたいに、何をすればいいかわからなくて……でも」
一瞬、言葉を選ぶ。
「帰ってきたら、少しはホッとしてほしかったの」
沈黙。
ジュードは何も言わず、カップを手に取った。 一口、口をつける。
「……不味い」
「ごめんなさい」
「謝んな」
そう言って、彼はもう一口飲んだ。
アングリーは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。
大したことはしていない。
それでも、“待っていた”という事実が、確かにここにあった。
「なあ」
ジュードが低く言う。
「今日の昼間、何してた」
「考えてたの」
「何を」
「恋人らしいこと」
ジュードは、ぴたりと動きを止めた。
それまで淡々と喋っていたジュードが、急に黙った。
煙草の火を見つめるふりをしながら、答えを濁している。まるで、言葉が喉の奥で燃えてしまったように。
「……朝ので十分だろ」
「でも」
アングリーは小さく笑う。
「今日は夜もあるわ」
その言葉に、ジュードは明らかに視線を逸らした。
彼の視線の端で、彼女の笑顔が弾けた。
それだけで、指先が言うことを聞かなくなる。
火薬にも血にも慣れているはずの手が、
女の子ひとりの笑顔に、まるで震えるようなことがあってたまるかと思った。
「……変な期待すんな」
「そうじゃなくて」
本当だった。
彼女は何か特別なことを望んでいるわけじゃない。
ただ。
同じ空間で、同じ時間を過ごせることが、嬉しいだけだ。
ジュードはカップを置き、ソファに腰を下ろした。
「……来い」
短い言葉。
アングリーは迷わず、彼の隣に座る。昼間と同じ距離。
触れない。でも、近い。
沈黙が落ちる。
夜は、まだ始まったばかりだった。
ジュードは、ふと呟く。
「……お前、本当に変だな」
アングリーは、微笑んだ。
「ふふ。女の子はね、恋をするとどこかおかしくなっちゃうみたい」
彼はしばらく何も答えなかった。
代わりに煙草に火をつけ、短くなりきる前に灰を落とした。
「今夜は俺もここで寝る。……寝るだけだ。何もない」
そう言い切ったあとで、
それが何を意味するのか、考えないようにした。
その夜。
彼は古びたベッドの上で、アングリーの隣で眠りについた。
眠りに落ちた横顔は、
彼女が知っている殺し屋のものではなかった。
三日間の一日目の夜は、静かに、確かに、
ふたりのあいだに降り積もっていった。




