第9話 最期の朝、優しさの正体
朝は、音もなく始まった。
アングリーは、誰かの体温で目を覚ました。
――熱い。
まだ夢の途中のまま、無意識に身じろぎすると、全身に何かが触れる。温かい。
顔を上げると、ジュードだった。
横向きに寝たまま、彼の細い腕がアングリーの背中に回っている。まるで、強く抱き締められているようで、逃げられない。
アングリーは一瞬、息を止めた。
(……あ)
そう思った瞬間、ジュードの眉が僅かに動く。 目が、開いた。
数秒。
何も言わず、状況を理解する沈黙。
次の瞬間、ジュードははっとしたように腕を引いた。
「……っ」
体を起こし、視線を逸らす。
「……悪ぃ」
短い声。 寝起き特有の、低く掠れた声だった。
「……寝ぼけてた」
それだけ言って、もうこちらを見ない。
アングリーはしばらく黙っていた。胸の奥が、じんわりと熱い。
「……」
それから、そっと笑う。
「ううん」
声は柔らかい。
「嬉しかった」
その一言で、ジュードの肩が、ほんのわずかに強張った。
「……そういうこと言うな」
「どうして?」
「……困る」
それ以上は続かない。
アングリーは布団の端を指でつまみながら、少しだけ近づく。今度は、触れない距離で。
「ねえ」
「……何だ」
「今日、最期の日ね」
ジュードは答えない。
彼の視線が一瞬だけ彼女を見た。
いつものように濃い煙草の匂いがしなかった。 それだけで、胸が静かに沈む。
――ああ。
(だから、こんなに優しいのね)
それ以上、言わなかった。
朝食は、缶詰だった。昨日と同じ。けれど、並べ方も、火の入れ方も、少し違う。
ジュードは黙って食べる。
「……美味いか?」
「ええ」
即答すると、彼は眉をひそめた。
「……無理すんな」
「してないわ」
アングリーは笑う。
「だって、今日もちゃんと味がするもの」
ジュードはそれ以上、何も言わなかった。
食後、彼は珍しく念入りに準備を始めた。
銃の確認。弾倉。通信機。
その間、一度も煙草に手を伸ばさない。
アングリーはベッドの端に座り、黙ってそれを見ていた。
やがて、ジュードは小さなバッグを足元に置いた。
「……これ」
中から、何かを取り出す。
「靴?」
「あとで履け」
差し出されたそれは、踵の擦り切れた女物のブーツだった。
アングリーは自らの足を見下ろして気づく。そういえば、誘拐されて以来ずっと裸足だ。
足を突っ込んでみれば、少し大きい。けれど、しっかりと紐を締めれば脱げそうにない。
「……どうして」
「理由はいい」
短く言って、視線を逸らす。
「帰るまでには履いとけ」
「帰るまでに?」
問い返すと、ジュードは一瞬だけ黙る。
「……ああ」
それだけ。
それから昼過ぎになると、 通信機が一度だけ鳴った。
ワンコール。
ジュードは即座に応答する。
「……こちらジュード」
通信機のスピーカー越しに雑音混じりの声が、
事務的に告げた。
それはジュードの仲間の声だった。
「身代金の受け取りは進んでいる。
だが、向こうが直接確認を求めている」
それはむしろ、恐ろしいほどに計画通りだった。
「……分かってる」
ジュードは視線を上げ、アングリーを見る。
通信機を差し出した。
「……今から、お前の父親に代わる。
余計なことは言うなよ」
アングリーの指が、わずかに強張った。
「……大丈夫だ」
低く、短く。
それは命令ではなく、確認だった。
通信の向こうで、回線が切り替わる。
次に聞こえたのは、
抑えきれない緊張を含んだ男の声だった。
「……アングリー?」
一瞬の沈黙。
アングリーは、ゆっくりと息を吸う。
「……パパ」
その一言で、空気が変わった。
「無事なのか……? 怪我は……」
「ええ。無事よ。私は、生きてるわ」
声は落ち着いていた。
作りものではない、今この瞬間の声。
「ちゃんと、ご飯も食べてる」
嘘ではない言葉だけを選ぶ。
向こうで、男が息を詰める音がした。
「……必ず、言われた通りにする。
だから——」
その途中で。
「——終わりだ」
先ほどと同じ、低く、感情のない声が割り込んだ。
唐突に、アングリーの父との通信が遮断される。
通信機の向こうで、わずかな間があった。
雑音だけが続く。
それから、低い声。
「……確認は取れた」
淡々とした報告。
ジュードは、返事をしない。
「——アングリー・ボーダを始末しろ」
その言葉は、終わりの宣告だった。
「女は用済みだ。終わり次第、第三倉庫に来い」
一瞬、空気が凍る。
アングリーは何も言わない。
ただ、ジュードを見る。
「……了解」
ジュードは通信を切ると、アングリーを見る。
その目は、ひどく静かだった。
金属音が、耳に残る。
ジュードは通信機を下ろし、
静かにアングリーを見る。
その目は、ひどく静かだった。
「……」
ジュードは、
何も言わずにアングリーの前へ歩み寄り、
一度だけ、深く息を吐いた。
それから、低く言う。
「——聞け」
それだけだった。
「俺が戻ったら」
ゆっくり、言う。
「すぐに出る。……走るぞ」
「走る……?」
「ああ」
声は低く、迷いがない。
「とにかく俺が合図したら、迷わず走れ」
アングリーは少しだけ微笑んだ。
「うん」
理由はわからない。 けれど。
「わかった。頑張る」
その言葉に、ジュードの喉が小さく鳴る。
彼は何も言わず、扉へ向かった。
出ていく直前、ほんの一瞬だけ振り返る。
何か言いかけて、やめる。
そして、いつもの声で。
「……待ってろ」
扉が閉まる。
鍵の音。
静寂。
アングリーは、胸に手を当てた。
(優しい)
だから、わかる。
(これは、さよならの準備)
それとも。
靴紐を結びながら、彼女は思った。
(……でも)
(命令は、今すぐ始末しろってことだったんじゃ)
もしかして。
――走るって、逃げるってこと?
胸の奥が、少しだけ高鳴る。
最終日の朝は、静かで、優しくて……
そして、どこか希望の匂いがしていた。
それが、最も危険な匂いだとも知らずに。




