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第2話 少年は、まだ恋を知らない



 次に目を覚ましたとき、最初に感じたのは匂いだった。


 古い建物特有の埃と、湿った壁のにおい。

 その奥に、微かに混じる酒と煙草と、甘い香水の残り香。


 どれも馴染みのないはずなのに、不思議と嫌ではなかった。


 アングリーはゆっくりと瞬きをした。


 ジュードが部屋を出てから、どれほど経ったのだろう。


 緊張して眠れるはずがないと思っていたのに、

 いつの間にか意識を手放していたらしい。


 天井は低く、染みの浮いた白い板張り。


 窓はあるが、鉄格子と板で厳重に塞がれている。


 板の隙間から、遠くにいくつかの灯りが見えた。

 時折、舗装された道を大型車両が通るような低い音が響いてくる。


 けれど、人の声はしない。


 逃げ場がないことだけは、一目でわかった。


 ――誘拐された。


 その事実は、思ったよりも静かに胸に落ちてきた。


「起きたか」


 低い声がした。


 視線を向けると、部屋の隅に椅子があり、そこに少年が座っていた。


 足を組み、壁にもたれ、まるでここが自分の部屋であるかのような態度で。


 ジュード。


 そう名乗った少年は、感情の読めない目でこちらを見ていた。


 冷たく、退屈そうで、

 ――人を人として見ていない目。


 それなのに。


 アングリーが目を開けてから、

 その視線が一度も逸れないことが、妙に気になった。


 監視していただけ。


 そう言われれば、それまでなのだろう。


 けれど。


 眠っている間も、この少年はずっとここにいたのだろうか。


 アングリーは上体を起こそうとして、手首に走る違和感に気づいた。


 拘束されている。


 強くはないが、

 逃げる気を起こさせない、絶妙な締め具合だった。


 机の上には、先ほど外されていた宝石。


 その隣に、いつの間に置いたのか、

 水の入ったグラスがあった。


「……そういえば。ここはどこなの?」


 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。


「廃ホテルだ。王都郊外の旧工業区。騒いでも誰も来ねぇ」


 淡々とした答え。


 説明する気も、慰める気もない。


「そう」


 それだけ言って、アングリーはそれ以上何も聞かなかった。


 ジュードの眉が、ほんのわずかに動いた。


「聞かねぇのか」


「何を?」


「助けは来るのか、とか。殺されるのか、とか」


 試すような口調だった。


 アングリーは少し考えてから、首を横に振った。


「来ないと思うわ」


「……侯爵家の娘が消えたんだぞ」


「ええ。だから、いずれは探すとは思う」


「じゃあ来るんじゃねぇか」


「すぐには、という意味よ」


 ジュードが黙る。


「皆、私が勝手に一人になることには慣れているの。屋敷の中でも、パーティーでも。少しくらい姿が見えなくても、最初は気にしなかったと思うわ」


「……随分、あっさりしてんな」


「それに今夜は、婚約破棄のことで皆忙しかったもの」


 言ってから。


 アングリーは自分でも、

 ひどく他人事のような言い方だと思った。


 ジュードの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「婚約破棄?」


「ええ。今夜、婚約者から正式に」


「……へぇ」


 興味があるのかないのか。


 ジュードはそれ以上聞かなかった。


「でも、パパは探すと思う」


「だったら――」


「私は、大事な資産だもの」


 ジュードの言葉が止まった。


「ボーダ侯爵家の長女が誘拐されたのだもの。放っておくわけにはいかないでしょう?」


 それは事実だった。


 名門の家に生まれ、

 守られて育ったはずなのに。


 彼女自身はいつも、どこか空白だった。


 娘だから守られる。


 令嬢だから教育される。


 婚約者だから隣に置かれる。


 アングリー自身が何を望んでいるのかなど、

 誰も知らない。


 もしかすると。


 自分ですら、知らなかった。


 ジュードは鼻で小さく笑った。


「なるほど。……そういうのは、嫌いじゃねぇ」


「そういうの?」


「自分の立場くらいわかってる奴」


「褒められてるのかしら」


「好きに取れ」


 立ち上がり、数歩こちらに近づく。


 その動きは無駄がなく、

 まるで獲物の前に立つ捕食者のようだった。


 裸電球の下へ入ったことで、

 ジュードの顔が先ほどよりはっきり見える。


 やはり、若い。


 綺麗な顔立ちなのに、

 纏っている空気だけがひどく冷たい。


 目の前まで来ると、

 煙草と酒と、あの甘い香りが少しだけ濃くなる。


 アングリーは、なぜか目を逸らさなかった。


「大人しくしてりゃ、三日は生きられる」


「三日?」


「それ以上は、俺の仕事じゃねぇ」


 言い切りだった。


 アングリーは、その言葉を聞いてもなお、

 視線を逸らさなかった。


 恐怖よりも先に、

 別の疑問が浮かんだからだ。


「……ねえ、ジュード」


「あ?」


「あなた、退屈そうね」


 少しだけ、口元が緩んだ。


 空気が、わずかに張り詰めた。


 ジュードの目が細くなる。


「何が言いたい」


「仕事だからやってる、って顔をしてる」


「……当たり前だろ」


「でも」


 アングリーは静かに言った。


「それならどうして、

 そんなに物憂げな顔をするの?」


 沈黙。


 ジュードは数秒、

 彼女を見下ろしたまま動かなかった。


 近い。


 先ほどよりも、ずっと。


 手を伸ばせば届く距離。


 腰には人を殺すための拳銃がある。


 その手が動けば、

 自分の命など簡単に終わる。


 それなのにアングリーは。


 銃よりも、

 彼の瞳の奥にあるものの方が気になっていた。


 何もないように見える。


 けれど、本当に何もない人間なら。


 どうしてこんなにも、

 寂しそうな目をしているのだろう。


 やがて。


 ジュードが、ふいと視線を逸らした。


「無駄口をきくな」


 そう言って背を向け、部屋の出口へ向かう。


 ドアノブにかけた指が、一瞬だけ止まった。


「余計なこと考えるな。

 お前は三日後に、いなくなる」


 扉が閉まり、鍵の音がする。


 ――ガチャリ。


 残されたアングリーは、胸に手を当てた。


 不思議だった。


 恐怖ではなく。


 ――なぜか、確信に近いものがあった。


 あの少年は、自分が三日後にいなくなると言った。


 なのに。


 まるでそれを自分自身に言い聞かせるような声だった。


「……変な人」


 小さく呟く。


 そして、机の上へ目を向けた。


 宝石の隣。


 水の入ったグラス。


 喉が渇いていることなど、

 アングリーは一言も言っていなかった。


 それでも彼は、

 そこに水を置いていった。


 人を殺すことには慣れているくせに。


 どうしてそんな、

 些細なことをするのだろう。


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