第2話 少年は、まだ恋を知らない
目を覚ましたとき、最初に感じたのは匂いだった。
古い建物特有の埃と、湿った壁のにおい。その奥に、微かに混じる酒と煙草と、甘い香水の残り香。
どれも馴染みのないはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
アングリーはゆっくりと瞬きをした。
天井は低く、染みの浮いた白い板張り。窓はあるが、鉄格子と板で厳重に塞がれている。逃げ場がないことだけは、一目でわかった。
――誘拐された。
その事実は、思ったよりも静かに胸に落ちてきた。
「起きたか」
低い声がした。
視線を向けると、部屋の隅に椅子があり、そこに少年が座っていた。
足を組み、壁にもたれ、まるでここが自分の部屋であるかのような態度で。
ジュード。
そう名乗った少年は、感情の読めない目でこちらを見ていた。
冷たく、退屈そうで、――人を人として見ていない目。
それなのに、視線が一度も逸れないことが、妙に気になった。
アングリーは上体を起こそうとして、手首に走る違和感に気づいた。
拘束されている。強くはないが、逃げる気を起こさせない、絶妙な締め具合だった。
「……そういえば。ここはどこなの?」
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
「廃ホテルだ。郊外。騒いでも誰も来ねぇ」
淡々とした答え。説明する気も、慰める気もない。
「そう」
それだけ言って、アングリーはそれ以上何も聞かなかった。
ジュードの眉が、ほんのわずかに動いた。
「聞かねぇのか」
「何を?」
「助けは来るのか、とか。殺されるのか、とか」
試すような口調だった。
アングリーは少し考えてから、首を横に振った。
「来ないと思うわ」
「……随分、あっさりしてんな」
「皆、私が勝手にいなくなることには慣れているの。少し探して、見つからなければ……それで終わり」
それは事実だった。
名門の家に生まれ、守られて育ったはずなのに、彼女自身はいつも、どこか空白だった。
ジュードは鼻で小さく笑った。
「なるほど。……そういうのは、嫌いじゃねぇ」
立ち上がり、数歩こちらに近づく。
その動きは無駄がなく、まるで獲物の前に立つ捕食者のようだった。
「大人しくしてりゃ、三日は生きられる」
「三日?」
「それ以上は、俺の仕事じゃねぇ」
言い切りだった。
アングリーは、その言葉を聞いてもなお、視線を逸らさなかった。
恐怖よりも先に、別の疑問が浮かんだからだ。
「……ねえ、ジュード」
少しだけ、口元が緩んだ。
「あなた、退屈そうね」
空気が、わずかに張り詰めた。
ジュードの目が細くなる。
「何が言いたい」
「仕事だからやってる、って顔をしてる」
「……当たり前だろ」
「でも」
アングリーは静かに言った。
「それならどうして、
そんなに物憂げな顔をするの?」
沈黙。
ジュードは数秒、彼女を見下ろしたまま動かなかった。
やがて、ふいと視線を逸らす。
「無駄口をきくな」
そう言って背を向け、部屋の出口へ向かう。
ドアノブにかけた指が、一瞬だけ止まった。
「余計なこと考えるな。
お前は三日後に、いなくなる」
扉が閉まり、鍵の音がする。
残されたアングリーは、胸に手を当てた。
不思議だった。
恐怖ではなく、――なぜか、確信に近いものがあった。
この少年は、まだ何も知らない。
自分が、人生で一度きりの間違いを犯そうとしていることを。




