第1話 引き金より先に、胸が鳴った
アングリー・ボーダは、自分が生きている理由をうまく説明できなかった。
名門ボーダ家の令嬢。齢17歳。
正しい教育、正しい振る舞い、正しい未来。
金銭的な豊かさと完璧な許婚。
すべては用意されていたのに、彼女の瞳だけがいつも空っぽだった。
今夜もそうだ。
社交パーティーの余韻が残る屋敷の回廊を、彼女は一人で歩いていた。
胸元に残る香水の匂いが、なぜか息苦しい。
「――息が、詰まる」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた瞬間だった。
背後から、知らない匂いがした。
酒。煙草。甘さを抑えた香水。
――男の匂い。
振り向くより早く、口元を覆われた。
「……っ」
抵抗しようとした思考は、すぐに霧散する。
鼻腔を満たす刺激的な薬品の匂い。
視界が揺れ、足元が崩れた。
「おやすみ、アングリー」
耳元で、低い声が囁く。
不思議と、恐怖より先に――胸がざわついた。
その声が、あまりにも落ち着いていたから。
意識が落ちる直前、アングリーは見た。
黒い手袋に包まれた指。
鋭いのに、どこか丁寧な手つき。
――その手が、
人を壊すために作られたものだと、
なぜか疑いようがなかった。
なのに。
心臓は、異様なほど静かだった。
まるで、ようやく正しい場所に戻ったみたいに。
***
目を覚ましたのは、完全な暗闇の中だった。
最初に感じたのは音。
遠くで鳴る、古い配管の唸り。
次に匂い。
埃、湿気、そして――また、あの男の匂い。
「……ここは……」
声を出した瞬間、喉がひりついた。
身体は動く。縛られてはいない。
だが、逃げられないと本能が理解していた。
「起きたか」
暗闇の向こうから、気怠げな声。
次いで、灯りが点く。
薄暗い裸電球の下に立っていたのは、若い男だった。背は高いがアングリーよりも年下に見える。
黒い革ジャケットを羽織り、無造作に煙草を咥えている。首元に、ほんの少しタトゥーが見えた。
――美しい。
そう思ってしまったことに、アングリー自身が驚いた。
「名前は?」
「……アングリーよ。アングリー・ボーダ」
「確認だ、知ってる」
男は短く笑った。
「俺のことはジュードとでも呼べ。
――お前を殺す予定の男だ」
馴れたような口振り。
その声色は、過去にも同じ言葉を
何度も使ってきた人間のものだった。
銃を向けられているのに、
アングリーの心臓は、やはり静かだった。
怖くない、わけじゃない。
ただ、それ以上に――
「……私、いつ殺されるの?」
自分の声が、あまりにも落ち着いていて、ジュードが一瞬だけ目を細めた。
「すぐじゃねぇ。三日後だ」
「……そう」
その答えに、なぜか安堵している自分がいる。
ジュードは視線を逸らし、煙草を消した。
彼女との距離を、意識的に一歩だけ取る。
その仕草が、妙に――優しかった。
「ここから出る気は起こすな。無駄だ」
そう言って、男はドアへ向かう。
重い扉が閉まる。
――ガチャリ。
鍵の音が、静かに響いた。
アングリーは一人、息を吐いた。
「……変なの」
胸に残るのは、恐怖ではない。
得体の知れない予感だった。
――その夜、アングリーはまだ知らなかった。
自分を攫ったその少年が、
人生で一度きりの恋になる。
そして、二度と元には戻れなくなることを。




