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第1話 引き金より先に、胸が鳴った



 アングリー・ボーダは、自分が生きている理由をうまく説明できなかった。



 名門ボーダ侯爵家の令嬢。齢十七歳。

 正しい教育、正しい振る舞い、正しい未来。

 金銭的な豊かさと完璧な婚約者。

 すべては用意されていたのに、彼女の瞳だけがいつも空っぽだった。


 ――少なくとも、今夜までは。


 今夜もそうだ。


 社交パーティーの余韻が残る屋敷の回廊を、彼女は一人で歩いていた。

 胸元に残る香水の匂いが、なぜか息苦しい。


 大広間からは、まだ楽団の演奏が聞こえている。


 煌びやかなシャンデリア。

 磨き上げられた床。

 軍服姿の将校と、宝石を纏った貴婦人たち。


 窓の外には、招待客を待つ黒塗りの自動車が何台も並んでいた。

 玄関を固めるボーダ家の護衛たちは、礼装の上から拳銃を携えている。


 壁際に置かれたラジオからは、少し前まで、北部国境で続く軍事衝突についてのニュースが流れていた。


 けれど、それすら遠い世界のことのようだった。


「――息が、詰まる」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


 アングリーの婚約者は、顔はいい。

 頭もいい。血筋もいい。

 長身で立ち振る舞いや笑顔も完璧。


 誰もが憧れるような、何一つ欠点のない男だった。


 しかし、アングリーにとってはそれだけのように思えた。


 特に会話一つ、交わすこともない。

 親同士の決めた婚姻だ。


 幼い頃から、そういうものだと思っていた。


 ボーダ家に生まれた娘として。

 侯爵令嬢として。


 決められた相手と婚姻を結び、決められた役目を果たす。


 自分が望むかどうかなど、最初から誰も尋ねなかった。


 それが、この日は珍しく、声をかけられた。


 パーティーの途中。

 人目を避けた、小さな談話室だった。


 男はいつも通り、完璧な微笑みを浮かべていた。


「つまらない?」


「え?」


「さっきから、随分退屈そうな顔をしている」


「……そんな顔をしていたかしら」


「ああ」


 婚約者は苦笑した。


 そして。


 まるで明日の天気でも告げるような口調で言った。


「安心してくれ。君との婚約は、本日をもって破棄する」


 アングリーは、瞬きをした。


「……そう」


「驚かないんだな」


「驚くべきなの?」


「普通は、もう少し何かあると思っていた」


 責める声音ではなかった。


 彼もまた、この婚約に何の感情も抱いていなかったのだろう。


 アングリーは少しだけ首を傾げる。


「どうして?」


「私は、自分の妻くらい自分で選びたい」


 その言葉に。


 なぜか初めて、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。


 ――自分で選びたい。


 そのこと自体は、少しもおかしくない。


 むしろ当然のことだ。


 彼には、自分で選ぶ自由がある。


 だから、選ばなかった。


 アングリーを。


「ああ、そう――」


 アングリーは思った。


 それがずっと以前から決めていたことなのか、それとも今夜思いついたことなのかはわからない。


 それも、もはやどうでもいいと思ってしまった。


 なんとなく、元々自分はこの人には選ばれていないような気がしていた。


 婚約していたから隣にいただけ。


 親同士が決めたから、そこに置かれていただけ。


 彼が自分の意思で選んだことなど、一度もなかった。


 不思議と悲しくも、悔しくもなかったことに自分で気づいてしまったことの方が、よっぽど彼女を薄暗い気持ちにさせた。


 ――今日もまた。


 私は、誰にも選ばれなかった。


 婚約破棄の報せを聞いた父は、一瞬だけ眉を寄せた。


 けれど、娘の顔を見るより先に、


「先方とは明日話をする。条件についてはその後だ」


 と告げただけだった。


 母もまた、


「今夜はまだお客様がいらっしゃるのよ。顔を上げなさい、アングリー」


 と耳元で囁いた。


「……はい、お母様」


 アングリーは微笑んだ。


 令嬢らしく。


 完璧に。


 誰も、


 ――あなたは、どうしたい?


 とは聞かなかった。


 そんなことを、アングリーは一人ぼんやりと考えて歩いていた。


 夜風に当たりたかったのだ。


 屋敷の裏手へ続く扉を抜ける。


 夜の空気が、火照った頬に心地よかった。


 遠くで、自動車のエンジン音がする。


 正面玄関ではなく裏手へ回ってきたらしい黒い車が、一台。

 庭園を囲む鉄柵の向こうをゆっくりと通り過ぎていく。


 いつもなら護衛を伴わずに外へ出れば、すぐに誰かが飛んでくる。


 けれど今夜は、客の対応で屋敷中が慌ただしかった。


 ほんの少しだけ、一人になりたかった。


 それだけだった。


 その時だった。


 背後から、知らない匂いがした。


 酒。

 煙草。

 ブラックムスクの香水。


 ――男の匂い。


 振り向くより早く、口元を覆われた。


「……っ」


 抵抗しようとした思考は、すぐに霧散する。


 鼻腔を満たす刺激的な薬品の匂い。


 視界が揺れ、足元が崩れた。


「おやすみ、アングリー」


 耳元で、低い声が囁く。


 不思議と、恐怖より先に――胸がざわついた。


 その声が、あまりにも落ち着いていたから。


 意識が落ちる直前、アングリーは見た。


 黒い手袋に包まれた指。


 鋭いのに、どこか丁寧な手つき。


 ――その手が、

 人を壊すために作られたものだと、

 なぜか疑いようがなかった。


 なのに。


 心臓は、異様なほど静かだった。


 まるで、ようやく正しい場所に戻ったみたいに。


     ***


 目を覚ましたのは、完全な暗闇の中だった。


 最初に感じたのは音。


 遠くで鳴る、古い配管の唸り。


 次に匂い。


 埃、湿気、そして――また、あの男の匂い。


「……ここは……」


 声を出した瞬間、喉がひりついた。


 身体は動く。

 腕には縄が巻き付けられているものの、きつい拘束ではない。


 ドレスも、乱されてはいなかった。


 手袋も、靴も、そのまま。


 身につけていた宝石だけが綺麗に外され、

 すぐそばの古びた机の上へ置かれている。


 盗賊ではない。


 そう理解した途端、別の種類の不安が胸をよぎった。


 だが、逃げられないと本能が理解していた。


「起きたか」


 暗闇の向こうから、気怠げな声。


 次いで、灯りが点く。


 薄暗い裸電球の下に立っていたのは、若い男だった。


 背は高いが、アングリーよりも年下に見える。


 黒い革ジャケットを羽織り、無造作に煙草を咥えている。


 腰には、薄型の小さな自動拳銃。


 首元に、ほんの少し蛇を象ったタトゥーが見えた。


 ――美しい。


 そう思ってしまったことに、アングリー自身が驚いた。


「名前は?」


「……アングリーよ。アングリー・ボーダ」


「確認だ。知ってる」


 男は短く笑った。


「俺のことはジュードとでも呼べ。

 ――お前を殺す予定の男だ」


 馴れたような口振り。


 その声色は、過去にも同じ言葉を

 何度も使ってきた人間のものだった。


 アングリーは、黙って彼を見る。


 腰の拳銃を抜く動作は、あまりにも自然だった。


 威嚇するために持っている人間の動きではない。


 撃つことが日常になっている人間の手だった。


 銃を向けられているのに、

 アングリーの心臓は、やはり静かだった。


 怖くない、わけじゃない。


 ただ、それ以上に――


「……私、いつ殺されるの?」


 自分の声が、あまりにも落ち着いていて、ジュードが一瞬だけ目を細めた。


「すぐじゃねぇ。三日後だ」


「……そう」


 その答えに、なぜか安堵している自分がいる。


 三日。


 今日、婚約を失った。


 明日から自分がどうなるのかも、考えていなかった。


 家に戻れば、おそらく父が次の縁談を探すのだろう。


 ボーダ侯爵家の娘という立場がある以上、

 アングリーの未来が空白のまま放置されるはずがない。


 また誰かが決める。


 次に誰の隣へ立つのか。


 誰の妻になるのか。


 どう生きるのか。


 けれど。


 三日後に死ぬのなら。


 初めて、自分の未来には何も決められていない。


 そんな場違いなことを考えてしまった。


 ジュードは視線を逸らし、煙草を消した。


 彼女との距離を、意識的に一歩だけ取る。


 その仕草が、妙に――優しかった。


「ここから出る気は起こすな。無駄だ」


「……逃げたら?」


「逃さねぇ」


「そして殺すの?」


「三日後にな」


 淡々とした返事だった。


 アングリーはなぜか、少しだけ可笑しくなった。


「律儀なのね」


「何がだよ」


「三日後までは殺さないのでしょう?」


 ジュードが眉を寄せる。


「……お前、状況わかってんのか?」


「誘拐されて、三日後に殺される」


「わかってんじゃねぇか」


「ええ」


「だったら普通、もう少し怖がれ」


「そうね。私もそう思う」


「…………」


 ジュードが黙った。


 ほんの一瞬。


 暗い瞳の奥に、理解不能なものを見るような色が浮かぶ。


 それは、この男が初めて自分を、


 ただの標的ではなく。


 ――アングリーという人間として見た瞬間だったのかもしれない。


「……変な女」


 吐き捨てるように言って、男はドアへ向かう。


 重い扉が閉まる。


 ――ガチャリ。


 鍵の音が、静かに響いた。


 アングリーは一人、息を吐いた。


「……変なの」


 胸に残るのは、恐怖ではない。


 得体の知れない予感だった。


 三日後には、この男に殺される。


 それなのに。


 今日一日で最も自分の心を揺らしたのは、

 十七年間の婚約を終わらせた男ではなく。


 自分を攫い、銃を向け、三日後に殺すと告げた、この少年だった。


 ――その夜、アングリーはまだ知らなかった。


 自分を攫ったその少年が、人生で一度きりの恋になる。


 そして。


 誰にも選ばれたことがないと思っていた自分を、いつかこの少年が、世界の何よりも選ぶことになるなんて。


 ましてや、その愛が。


 三日間だけでは到底足りないほど、深く、重く、逃げ場のないものになることなど――


 まだ、知るはずもなかった。

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