第11話 彼が来た。それだけで世界は変わった。
外が、騒がしい。
最初は遠くの物音だった。
怒鳴り声。走る足音。何かを引きずる音。
次第に音は激しさを増していく。
アングリーは、はっと顔を上げる。
(……なに?)
胸の奥が、きゅっと縮む。
(一体、何が起こっているの……?)
自分が監禁されていることは、わかっていた。
けれど。
――ジュードがいる。
それだけで、今まで不思議と怖くなかった。
強がっていられた。
笑っていられた。
でも。
今日は、違う。
外の気配が、明らかにおかしい。
誰かが探している。
まるで、男達が競い合って、
アングリーを探しているような。
焦りと苛立ちが、壁越しに伝わってくる。
(……ジュード)
名前を呼びかけようとして、喉が詰まる。
返事などあるわけがないことを思い出して、声が出ない。
そのとき。
――パン、と。
乾いた音が響いた。
一発。
少し間を置いて、また一発。
そして、数発。
銃声だと理解するまでに、ほんの一瞬の遅れがあった。
アングリーは反射的に肩をすくめ、壁際に下がる。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
さらに、もう一発。
そして。
嘘みたいに、静かになる。
さっきまでの物音が、すべて消えた。
耳が痛いほどの静寂だった。
(……なに、今の)
息をするのが、怖い。
その沈黙を破るように、
突然、ドアノブが激しく回された。
ガチャガチャ、ガチャガチャ。
「……っ」
アングリーは思わず、後ずさる。
逃げ場はない。
けれど、身体が勝手に身構える。
誰かが、力任せに開けようとしている。
(……来ないで)
初めて、心からそう思った。
ジュードがいない空間で、
世界が急に、怖いものだと思い知らされる。
ガチャリ。
金属が、嫌な音を立てた。
次の瞬間。
ドアが、勢いよく開く。
思わず目を閉じかけた、その視界に――
「……アングリー」
聞き慣れた低い声。
そこに立っていたのは、
銃を下げた、ジュードだった。
一拍。
それだけで、足から力が抜けた。
「……ジュード……!」
声が震えるのを、止められない。
彼の姿を確認した瞬間、
張りつめていたものが、一気にほどけた。
強がりも、余裕も、全部消えて。
ただの、少女として。
「……よかった……」
小さく、息を吐く。
ジュードは何も言わず、
部屋に入ってドアを閉めた。
鍵の音が、やけに大きく響く。
その音を聞いて、
アングリーはやっと、泣かなかったことに気づいた。
――怖かった。
でも。
彼が来た。
それだけで、世界はまた、一瞬だけ、元の形に戻った。
ジュードが、振り返りもせずに言う。
「アングリー。説明してる時間はねぇ」
その声は、低く、切迫している。
「準備はいいか?」
問いかけというより、確認。
アングリーは一瞬だけ瞬きをして、足元を見る。
――靴。
言われた通りに履いていた、少し大きめのブーツ。 きつく結んだ紐は、ほどけていない。
「……うん」
それだけで、十分だった。
次の瞬間。
「――走れ!!」
強く、手を引かれる。
考える間もなく、身体が前に投げ出された。
廊下を抜ける。階段を駆け下りる。夜の空気が、急に肺に流れ込む。
最初は、静かだった。
足音と、荒い呼吸だけ。自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
(……なに、これ)
街は、驚くほど人通りが少なかった。
廃ビル。
シャッターの下りた店。
割れた街灯が、点々と闇を照らしている。
住んでいる人の気配が、ない。
(ここ、どこ……?)
アングリーの知らない景色だ。
けれど、その疑問が形になる前に――
乾いた音が、空気を裂いた。
パァン。
一瞬、何の音かわからなかった。
次の瞬間、壁が弾ける。
コンクリートの破片が、跳ねる。
「……っ!」
銃声。
それが理解できた時には、
もう、次の弾が飛んできていた。
「止まるな、走れ!」
ジュードの声が、すぐ近くで響く。
引かれる手が、さらに強くなる。
ビルの影を縫うように走る。曲がる。跳ぶ。
次第に破裂音は群れをなすように多くなり、
たくさんの銃声が、追いかけてくる。
まるで、雨みたいに。
(……撃たれてる。もし、当たったら――)
頭では、わかっている。
でも。
あまりにも、現実味がなかった。
(私……今、なにしてるんだろ)
息が苦しい。脚が震える。
それなのに、どこか冷静な自分がいる。
(……変)
視界の端で、弾丸が火花を散らす。
耳元を、風がかすめる。
そんななか。
(私、今――)
ふと、思う。
(前に見た、あの映画のヒロインみたい)
逃げる恋人たち。夜の街。追われる銃声。
そんな、どうしようもない考えが浮かぶ。
怖いはずなのに。死ぬかもしれないのに。
現実が、遠い。
ジュードの背中だけが、やけに近い。
力強く引かれている手が、確かで。
(……ああ)
胸の奥で、妙に納得する。
(私、今――)
彼に選ばれて、走ってるんだ。
その事実だけが、
なぜか、胸をいっぱいにした。
銃声達が、さらに近づく。
ジュードは振り返らず、言った。
「離すな」
短く、それだけ。
アングリーは、ぎゅっと手を握り返した。
答えは、いらなかった。




