第7話 王都に、最初の灰が降る
王都ハルデンの郊外、ヴェルデの村。
その朝、村は灰に覆われていた。
* * *
最初に異変に気づいたのは、夜明けに井戸へ向かった女だった。井戸端の柳が、一夜にして黒く縮れ、触れた指の先で、さらさらと灰になって崩れたのだ。彼女の悲鳴で目を覚ました村人たちは、自分たちの畑を見て凍りついた。
昨日まで青々としていた麦畑が、一面、灰色に変わり果てていた。風が吹くたび、作物だったものが灰となって舞い上がる。空が、灰色に霞んで見えた。まるで——灰の雪が、降っているかのように。
逃げ遅れた一頭の牛が、畑の真ん中で立ち尽くしていた。その脚が、足首から崩れ始める。さらさらと、灰になって。牛は声をあげる間もなく、形を失い、風に散った。それを見た子どもが、母親の腕の中で泣き叫んだ。村人たちは、家から一歩も出られず、ただ窓の隙間から、自分たちの暮らしが灰になっていくのを見ているしかなかった。
村のはずれ、古い祠の地下に、封印石があった。守りの聖女が代々祈りを捧げてきた、灰の獣を抑える要の一つ。その石が、真っ二つに割れていた。割れ目から漏れ出した灰色の冷気が、地を這い、村を蝕んでいた。亀裂の奥は、底の見えない闇のように暗く、覗き込んだ者は、その奥で何かが——蠢く影のようなものが、ゆっくりと身じろぎするのを見た気がして、悲鳴をあげて後ずさった。
知らせを受けた王都から、聖女アンネリーゼが急行した。彼女は震える手で割れた石に祈りを捧げた。淡い光が、彼女の手のひらから溢れる。村人たちが息を呑み、祈るように見守る。——けれど、何も起きなかった。光は、割れた石の表面を撫でるだけで、亀裂の奥の闇へは、届かない。一度、二度、三度。何度祈っても、結果は同じだった。光は、虚しく宙へ霧散していく。守りの祈りは、もはや、この穢れに届かなかった。
「なぜ……なぜ、効かないの」
彼女は崩れ落ちた。膝が、灰の積もった地面についた。村人たちが、すがるような目で彼女を見ている。聖女様が来た。これで助かる。そう信じている目。その信頼が、今は、刃のように彼女に突き刺さった。
いつもなら、簡単だった。封印に祈れば、ひびは塞がり、穢れは引いていった。それを、自分の力だと信じていた。けれど——今は、何も届かない。
見えない手が、消えてしまったかのように。けれどその手のことを、アンネリーゼは、まだ言葉にすることができなかった。
* * *
報せは、すぐさま教会の最上層へ届いた。
深紅の祭服をまとった老人が、報告書を読み終え、静かにそれを閉じた。皺深い顔に、動揺はない。それどころか、その口元には——薄い、計算された微笑みすら浮かんでいた。
「ヴェルデの封印が割れたか。……思っていたより、早いな」
老人は、傍らに控える神官に告げた。
「村は封鎖せよ。出入りを禁じ、これは"疫病"だと触れを出せ。灰の獣の名は、決して出すな」
「し、しかし猊下。あの村の民は……数百人が、まだ村に」
「捨て置け」老人は窓の外、霞む空を見やった。声に、感情はなかった。「あの村に、もう手は割かぬ。封鎖を解くな。逃げ出した者がいれば、追え」
神官は、青ざめた。数百人を、見殺しにする。それを、聖職の頂点に立つこの男は、眉ひとつ動かさず、口にした。
「猊下は……はじめから、こうなることを、ご存じだったのですか」
老人は、答えなかった。問いそのものを聞かなかったかのように、報告書の角を指先で整えただけだった。
「もう一つ」老人は、ふと付け加えた。「あの娘の名——ヴィオレッタ・ロートリンゲンの名が、民の口にのぼることがあれば、その都度、つぶしておけ。噂の出どころから、丁寧にな」
なぜ、と神官は問わなかった。問うてはならぬ気がした。老人の口元の微笑みは、最後まで崩れなかった。それが、何よりも不気味だった。
* * *
辺境にも、ヴェルデの報せは届いた。教会の公式発表は「疫病の発生」。けれど、伝令が密かに付け加えた言葉は、まるで違った。畑が灰になった。柳が崩れた。封印石が割れた——と。
「疫病、ですって」私は、報告を聞いて、思わず手を握りしめた。「これは、灰の獣ですわ。間違いない。教会は、わかっていて、隠している」
「なぜ隠す」ジークが眉をひそめた。「民を避難させもせず、疫病だと偽る理由がない」
「……理由が、あるのですわ、きっと」私の中で、ずっと感じていた違和感が、かすかに首をもたげていた。「私を追放したのは、本当に、私が"出来損ない"だったから? 守りの聖女が万能だと、信じていたから? ——もし、そうでないとしたら」
言葉にすると、背筋がうそ寒くなった。
「教会は、灰の獣を"封じる"ことで、聖女制度を支えてきましたわ」私は、声をひそめた。「その封じる手が、効かなくなっている。なのに、隠す。避難もさせず、ただ蓋をする。——まるで、知られて困るのは、灰の獣そのものではない、とでもいうように」
「お前を追放したことと、関わりがあると?」ジークの目が、鋭くなった。
「わかりませんわ」私は、首を振った。「確たる根拠は、何も。ただ——出来損ないだから捨てられた、それだけでは説明のつかない何かが、この隠蔽の裏にある。胸の奥が、そう囁くのです」
ハーゲンが、低く唸った。「気のせいだといいんですがね。お嬢さんの"気のせい"は、よく当たる」
* * *
王都では、別の動きが、静かに広がっていた。
ヴェルデの村は封鎖された。けれど、灰になった畑を見た商人が、隣村へ逃げ、そこで見たものを語った。話は、囁きとなって、王都の路地裏へ広がっていく。
「疫病なんかじゃない。あれは、灰になる病だ。触れたものが、崩れる」
「聖女様が祈っても、治らなかったらしい」
「おかしいじゃないか。前は、こんなこと、一度もなかった」
そして、誰かが——名もなき民の一人が、こう呟いた。
「なあ。前に追放された、あの"破滅の聖女"……。あの人がいた頃は、こんなことは、なかったよな。本当に、あの人が、破滅だったのか?」
その囁きは、消えずに、人々の胸に残った。
お読みくださりありがとうございます。第7話、王都に最初の灰が降りました。
「疫病」という嘘で覆い隠された、灰の被害。聖女の祈りが届かなかった封印石。捨てたはずの名を、人々がふたたび呼び始める——王都が積み上げてきたものが、静かに音を立てて軋み始めます。
民の間に芽生えた、小さな疑問。「破滅の聖女は、本当に破滅だったのか?」——因果が、ゆっくりと巡り始めます。
次回、王都で「姉さまを呼び戻して」という声が上がります。けれど、王子はそれを黙殺し、妹は焦燥に駆られて——。
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