第6話 涙の代わりに、私は刃を握る
夜明け前の中庭に、白い火花が散った。
「もう一度ですわ、ハーゲン」
息を整え、私は両手を構え直した。藁束を組んだ的の前。辺境に拾われて、幾月が過ぎていた。凍えていた荒野の風にも、いつしか薄い春の匂いが混じり始めている。ここ数日も、私は毎朝、力の鍛錬を続けていた。先日の境界では、はぐれの一匹を狙い澄まして断ち、隣の獣には火の粉ひとつ触れさせずにすんだ。あの手応えを、もっと確かなものにしたい。本能で放つのではなく、意志で、狙って、いつでも使えるように。
「お嬢さん、無茶しなさんな」ハーゲンが呆れ顔で言った。「あんたはもう、十分すぎるほど強い。なぜそこまで」
「強いだけでは、足りませんの」
私は的に手をかざした。白い火が、藁束だけを正確に灰へ還す。地面の草一本、焦がさずに。狙った範囲だけを断つ——それが、できるようになってきた。
「王都の異変は、拡大しています。教会は沈黙している。……いずれ、あの灰の獣が、王都にも牙を剝きますわ。そのとき、守りの聖女では止められない。私が——行かねばならない日が、来るかもしれませんの」
「王都は、あんたを捨てた連中の場所でさ」
「ええ。憎んでおりますとも」私は手を下ろした。「けれど、あそこにも罪のない民が暮らしておりますわ。——救いたいものと、憎いものは、別ですの」
ハーゲンが、ふっと笑った。
「敵わねぇな、お嬢さんには」
私は、もう泣き寝入りする令嬢ではない。捨てられた日に、涙は涸れた。代わりに、私はこの手に、力の握り方を刻んでいく。守れるものを、増やすために。
鍛錬の合間、ニーナが治療小屋から薬草茶を運んできた。湯気の向こうで、彼女は私の手のひらを覗き込み、小さく息を呑む。火を放ち続けた指の付け根が、赤く焼けていた。
「聖女様。……痛く、ないんですか」
「これくらい、傷のうちに入りませんわ」
ニーナは眉を寄せ、それでも何も言わずに、持っていた布で私の手を包んでくれた。戦えない自分が嫌だと、いつか俯いていた娘の指は、もう迷わない。布を巻き、粥を運び、人を看取る。その手も、人を救う手だ。私が灰に還す手と、どこも違わない。
「無理は、しないでくださいね」
空の器を抱えて駆けていく後ろ姿を、私は見送った。守りたいものが、また一つ増えた。だから、強くならなければ。これは命じられた義務ではない。私自身が、選んだ道だ。
——その頃。私を捨てた、王都では。
* * *
純白の聖堂の奥、聖女の祈祷室で、アンネリーゼは苛立ちを隠せずにいた。
額に、汗が滲んでいる。彼女の前には、ひび割れた一つの封印石。王都近郊の村から運ばれてきたものだ。本来なら、聖女が祈れば淡い光が灯り、ひびは塞がるはず。なのに——何度祈っても、光は石の表面を撫でるだけで、亀裂の奥へ届かない。
「どうして……」彼女は唇を噛んだ。「いつもなら、もっと簡単に。封印は、こんなに脆くなかったはずなのに」
祈りが、弾かれる。手のひらから溢れた光は、亀裂の縁で見えない壁に阻まれ、奥へは一寸も染み込んでいかない。こんな感覚は、初めてだった。これまでは、祈れば光は吸い込まれるように石へ通っていった——まるで、誰かが先に道を均してくれていたかのように。その「誰か」を、彼女はまだ思い至らない。
「アンネリーゼ。どうした、進まんのか」
戸口に立ったのは、第二王子オスヴァルト。婚約者を姉から妹へ乗り換えた男だ。彼は不機嫌そうに腕を組んでいた。
「父上が気にしておられる。各地の不調が、おさまらんとな。お前の力で、さっさと片付けろ」
「やっています! でも、おかしいのです。封印が、わたくしの力を、はね返すように——」
「言い訳か」王子は冷たく遮った。「聖女は お前だろう。"破滅の聖女"を追い出して、ようやく国が浄化されたと、皆に約束したのは誰だ。今さら、できませんでは済まされんぞ」
「わたくしは……ちゃんと、やっています。ですが」アンネリーゼは、すがるように顔を上げた。「殿下。もし、もしもですが——姉さまの力が、本当に必要だったとしたら」
「ヴィオレッタの名を出すな」王子の声が、鋭く尖った。「あれは破滅だ。追放して正解だった。お前がそれを疑うのか? 自分が偽物だと、認めるのか?」
「っ……いいえ。いいえ、そんな」
彼女は、慌てて首を振った。けれど、その否定は、自分自身に言い聞かせるかのように、弱々しかった。王子は鼻を鳴らし、踵を返した。
アンネリーゼは、青ざめた。
彼女は祈祷室に一人残され、ひび割れた石を見つめた。指先で、亀裂をなぞる。——その奥から、かすかに、灰色の冷気が漏れ出していることに、彼女はようやく気づいた。本能的な恐怖が、背を這い上がる。
これは、ただの不調ではない。何か——もっと、恐ろしいものが、封印の奥で目を覚ましかけている。
脳裏に、追放した姉の言葉が、不意によみがえった。
『枯らしたのではありません。私は、芽吹く前の災いを灰にしていただけ』
「……まさか」アンネリーゼは首を振った。「そんなはずは。あれは、出来損ないの——」
言葉は、最後まで続かなかった。
* * *
辺境の朝。鍛錬を終えた私の前に、ジークが歩み寄ってきた。彼は、私の白く焦げた手のひらを、無言で取った。
「無理を、しているな」
「鍛えているだけですわ」
「お前が誰かを守りたいと思う気持ちは、止めない」彼は静かに言った。「だが、お前が灰になることは、許さない。お前は——壊す側だが、お前自身が壊れていい理由には、ならない」
不器用な、けれど確かな気遣いだった。私は、ふっと微笑んだ。
「ご心配なく。私、しぶといのですよ。捨てられても、こうして立っておりますもの」
その日の午後、王都から二度目の早馬が来た。
今度の報せは、これまでで最も具体的で——そして、最も不吉だった。
「王都近郊の村で……守りの祈りが、効かなかったと。聖女アンネリーゼ様が封印に祈っても、ひびが、塞がらなかった。それどころか——亀裂が、広がったと——!」
お読みくださりありがとうございます。第6話、ヴィオレッタが"戦う覚悟"を固める回でした。
受け身ではなく、自ら力を磨き、守るものを選ぶ。彼女は、ただ拾われた令嬢ではありません。
同時に、王都では妹アンネリーゼが封印の綻びに初めて直面します。これまで彼女の力を陰で支えていたのは、追放した姉だった——馬脚を現すときが、近づいています。
そして次回、ついに王都に「最初の灰」が降ります。教会が隠蔽を始めるその裏で、何が動いているのか。
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