第10話 王都が、灰に沈み始める
その朝、王都ハルデンの空は、よく晴れていた。
白磁の屋根が朝日を弾き、聖堂の鐘が定刻を告げる。広場には市が立ち、果物売りの声と子どもの笑い声が交わる。半年前に「破滅の聖女」を国境の外へ捨てた都は、何ひとつ変わらぬ顔で、いつもの一日を始めようとしていた。
異変は、足元から来た。
大聖堂の地下——歴代の聖女が「守りの祈り」を捧げ続けてきた封印地。その石床が、ぴしり、と鳴った。最初は誰も気に留めなかった。けれど亀裂は枝のように走り、隙間から灰色のものが、煙のように滲み出した。
それは煙ではなかった。
無数の、犬ほどの獣だった。輪郭が陽炎のように揺らぎ、触れた石が音もなく崩れて灰になる。眷属——灰の獣の、小型の群れ。封印の縫い目が、ほどけたのだ。
「結界を! 聖女アンネリーゼ、結界を張ってください!」
神官の悲鳴に、祭壇から駆けつけた少女が両手をかざす。純白の聖女衣。淡い金の光が、地下から這い上がる灰色を押し戻そうとした。
「下がりなさい! わたくしが、守りますわ!」
光の膜が広がる。眷属の一匹が触れ、灰になって——いや、ならなかった。獣は膜を舐めるように這い、光の薄い箇所を見つけて、するりと抜けた。アンネリーゼの結界は、確かに獣を「押し戻す」。けれど「滅ぼす」ことは、できない。押された獣は、別の亀裂から、また湧く。
守りの祈りは、井戸の水を桶で掻き出すようなものだ。掻き出す間に、底からまた湧く。湧き続ける泉そのものを、彼女の力は涸らせない。
「な……なぜ……っ」
少女の額に脂汗が浮いた。光が、震えながら細っていく。
眷属の群れが、地上へ溢れた。
広場で、最初の悲鳴が上がった。果物売りの男が逃げ遅れ、灰色の獣に触れられた腕が——肘から先が、さらさらと崩れて灰になった。痛みを感じる間もなかったのだろう。男は崩れた自分の腕を見つめたまま、声も出せずにくずおれた。母親が子どもを抱えて走る。その背に獣が飛びつき、衣ごと、肩が灰に変わる。逃げ惑う人波が将棋倒しになり、踏まれた者がまた獣の餌食になった。
白磁の都の石畳が、点々と、灰色の染みに覆われていく。
——けれど、それを、私はまだ知らない。
私が知るのは、後だ。北辺グレンツェの治療小屋で、ニーナと包帯を巻いていた私のところへ、半日遅れで早馬の報せが届くまで。
* * *
王宮の一室では、第二王子オスヴァルトが、報告を上げる文官を睨みつけていた。
「灰の被害だと? 城下で?」
「はっ……西広場と、第三市場。死者は二十を超え、なお増えて——」
「黙れ」
王子は立ち上がり、窓の外を見た。聖堂の方角から、薄い灰色の煙が、空に滲んでいる。彼の整った顔が、初めて、隠しようもなく強張った。
「これは……公にするな。神殿の補修中の事故だ。瘴気の漏出。そういうことにしろ。聖女アンネリーゼが鎮めた、と触れを出せ」
「ですが殿下、現に民が……」
「箝口令だ! 我が国の聖女の祈りが破れたなどと、口にした者は反逆罪と心得よ!」
文官が青ざめて退がる。一人になった部屋で、王子は震える手で杯を取った。
——彼は知っていた。半年前、自分が断罪し、国境の外へ捨てた令嬢が、祈りのたびに「祭壇を砕き、花を枯らした」ことを。出来損ない。破滅。そう吐き捨てた。
あの女が祈れば、世界は壊れた。
なら、なぜ。あの女がいなくなった今、世界が壊れ始めているのだ。
杯の中で、葡萄酒が灰色に濁って見えた。気のせいだと、彼は思い込もうとした。
* * *
箝口令は、しかし、長くは保たなかった。
灰に肉親を奪われた者の悲嘆は、命令で塞げるものではない。「神殿の事故」という触れと、城下に残る灰色の染みは、あまりに食い違っていた。市井に、ひとつの囁きが流れ始めた。
——花が枯れたのは、あの方が「破滅」だったからじゃない。あの方が、枯らして、抑え込んでいたんだ。
あの方を捨ててから、人が灰になり始めた。なら、この灰を招いたのは、いったい誰だ。「破滅の聖女」を断罪して追い出した、あの方々の方では、ないのか。
囁きは、消すほどに広がる種火のように、都の底でくすぶり始めた。
* * *
その同じ夜。私は辺境の物見櫓に立っていた。
半日遅れで届いた早馬の報せ——王都ハルデンで灰の被害、聖女の結界破れる。文面はそっけなかったが、行間に滲むものを、私は正確に読み取れた。封印が、ほどけ始めている。妹の守りでは、止まらない。
胸の奥で、何かが疼いた。痛快だ、と思う自分がいた。捨てた連中が、ようやく思い知る。けれど——灰になったのは、王子でも妹でもない。果物売りや、母親や、子どもだ。私を捨てた都の、罪のない者たち。
「いい気味だと、思っているか」
背後から、低い声。振り返らずとも分かる。ジークだ。
「半分は。残りの半分は……気分が悪いですわ」私は正直に言った。「私が捨てられたのは、私のせい。けれど灰になったあの人たちは、何も悪くない」
彼は私の隣に立った。北の闇を、二人で見る。
「お前は、王都を救いたいのか」
「いいえ。乞われてもいないのに駆けつけるほど、私はお人好しではありませんわ」私は唇を引き結んだ。「でも——目の前で湧くものは、灰に還します。それだけは、譲りません」
そのとき、ジークが、ふと北の地平へ目を向けた。
私もつられて見て——息を呑んだ。
遠い闇の縁に、灰色の靄が、低く垂れこめている。風に揺らぐそれは、煙ではなかった。動いている。蠢いている。一匹や二匹ではない。何十、何百という——大型の、灰の群れ。
王都だけではなかった。封印の綻びは、辺境の境界にも、牙を向けている。
「……来るな」
ジークが、剣の柄に手をかけた。その声に、初めて、わずかな緊張が滲んだ。
私を捨てた都が灰に沈み始めたその夜、灰の波は——私たちのいる辺境にも、確かに、迫っていた。
お読みくださりありがとうございます。第10話、王都にとうとう因果が返り始めました。
けれど主人公がいるのは辺境。次回・第11話は、ヴィオレッタが「死なない男」ジークの夜に触れます。死なないということが、どれほどの代償の上に成り立っているのか。彼女が初めて「この人を守りたい」と思う、その夜の物語です。
灰の群れは、もうすぐそこ。続きが気になっていただけたら、ブックマーク・☆評価で応援いただけると、とても励みになります。




