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第1章《灰に宿る声 ― Voice in the Ash ―》1-2


 とある民家の戸を叩いた。

 古い和風建築は所々瓦が落ち、壁が薄く焦げているものの、住むには支障なさそうだ。

 家屋の原型を留めているのは、この辺りでは非常に珍しい。《灰域回廊》では、建物など半壊しているか瓦礫の山と化しているかのどちらかなのだから。

 

「……モク婆、いる?」

 

 再度、戸を叩く。少し遅れて、軋んだ音を立てて扉が開いた。

 深い皺を刻んだ顔に、曲がった腰。小柄な老婆──モク婆が顔を出す。

 ここに来たのは“依頼”を受けるためだ。彼女はこう見えて外部の4大組織との仲介人を務める、この地域一帯の顔役だった。

 

「おはよう、クロ。どうしたんだい、こんな朝早くに。珍しいじゃないか」

 

 言われて、クロは「しまった」と内心で毒づいた。今朝の夢のせいで冷静さを欠き、無意識に足を向けてしまったのだ。

  

「……ごめん。起こした、かな……?」

「大丈夫さ。年寄りの朝は早いからね」

 

 モク婆は、クロの青白い顔をじっと見つめた。

 

(──ああ、この子は。また“見て”しまったんだね)

 

「……中に上がりな。お茶くらいなら淹れてあげるよ」

「いいよ。依頼を受けに来ただけだから」

「いいから。子供が遠慮するもんじゃない。さあ、お上がり」

 

 有無を言わさぬ口調で話を切り上げ、モク婆は踵を返した。

 依頼を受けたいなら中に入れ。その小さな背中が、悠然とそう告げていた。

 

「…………お邪魔します」

 

 観念したように呟いて後に続くと、モク婆は満足げに目を細めた。

 

 ◇

 

 民家の中は、いわゆる昭和レトロを彷彿とさせる、どこか懐かしい空気が漂っていた。

 モク婆はキッチンへ向かうと、年季の入った薬缶やかんを火にかける。

 

「全く、鏡は見たかい? 酷い顔だよ。そんな状態で“依頼”を受ける気かい」

「……食料が、もう少なくて」

「……そうかい」

 小さく溜息をつきながら、彼女は湯呑みを二つ並べた。

「……肉以外の缶詰なら手元にある。物々交換でもいいんだよ?」

「……ありがたいけど、その場しのぎにしかならないから。……それに、“これ”はいつものこと。知ってるでしょ?」


 自嘲気味に笑うクロを、モク婆は再び溜息で受け止めた。

 これまで何度も彼女の自罰的な生き方を嗜めてきた。だが、クロはそれをやめない。それが当然の義務であるかのように。

 

(……無理もないかねぇ)

 内心で独り言ちる。もし自分があの子の立場なら、一生自分を許せないだろう。

 以前、一度だけ彼女が“夢”の詳細を話してくれたことがあった。断片的ではあったが、それは凄惨な記憶。──異能が暴走し、自らの手で家族を殺めてしまった過去。彼女はその光景を、夢の中で幾度となく繰り返しているのだ。

 

(私なら、とっくの昔に気が狂っているよ)

 

 熱い茶で喉を湿らせ、モク婆は本題を切り出した。

 

「“依頼”だったね。だが、あいにく紹介できる仕事はないよ。今のあんたの状態じゃ、なおさらだ」

 

 嘘だ。本当はある。とびきり厄介な、血なまぐさい荒事が。

 けれど、クロには言いたくなかった。生きていれば孫娘と同い年くらいであろう目の前の少女に、これ以上泥を被らせたくない。

 たとえそれが、老婆の独りよがりな偽善だとしても。

 

「……本当に、ないの?」

「ああ、ないよ。わかったらお茶を飲んでゆっくり休み──」

  

「──モク婆、嘘ついてるよね?」

 

 湯呑みを持つ手が止まる。一瞬、瞳が揺れた。それが何よりの肯定だった。

 

「……どうしてそう思うんだい」

「なんとなく。でも、当たってたみたい」

 

 モク婆は、三度目の溜息を吐き出した。この子の勘の鋭さを、忘れていたわけではないというのに。

 

「……あるよ。お前さんのような腕利きにしか頼めない、とびきり厄介なのがね」

「どんな依頼?」

「第二地下通路に居着いた異能者の“駆除”だよ。異能が暴走しかけて、正気を失っているらしい」

「……期日は?」

「なるべく早急に、だ。既に死人が出ている。……だがね、異能が暴走しているなら、放っておいてもいずれは死ぬ。わざわざあんたが行かなくても──」

「いい。……私がやる」 

「……受けるのかい」

「うん。対象の特徴は?」

「……白い長髪。山羊のような角を生やした大男だ。あんたと同じ、炎を操る異能の持ち主さね」

「わかった。報酬はいつも通りでいいよ」

 

 クロは椅子から立ち上がった。顔色は依然として悪いが、その瞳は、幾多の死線を越えてきた兵士のそれに変わっていた。


「……最近《灰域回廊》がきな臭くなってる。4大組織の構成員も見かけている。気をつけて行くんだよ」 

「…わかった。行ってくるね、モク婆。……お茶、ごちそうさま」

 

 玄関へ向かう背中に、モク婆は思わず手を伸ばしかけて──止めた。

 小さな背中が遠ざかり、扉が閉まる。老婆の口から、重い呼気が漏れた。

 

「………何を今更、ねぇ…」

 

 隕石が落ちたあの日から、世界は変わってしまった。

 異能を科学として分析する者、“神罰”として忌む者、“新人類の福音”と崇める者。

 それらの思想は歪みを呼び、小さな言い争いから戦争へと発展し、人々は憎しみ合うようになった。

 それでもこの《灰域回廊》に残る人々を救いたいと、かつての人脈を頼りに組織へ価値を示し、居場所を守ってきたつもりだった。

 ──生きていれば、いつか。そう信じて。

 けれど、自分のしてきたことが正しかったのか、今も分からない。生きる手段を与えるためとはいえ、クロのような子供を戦場へ送り出し続けているのだから。

 

「……なんて酷い顔だい」

 

 視線を落とすと、飲み残した緑茶の湯面に、己の顔が映っていた。

 震えるしわがれた声は、ただ水面を揺らすことしかできなかった。

 

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