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アルテミシア戦記  作者: チャプタさん


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第二話:霧の向こう側の影

第二話:霧の向こう側の影


 音が、消えた。


 波が砕ける。そのはずだった。帆が鳴る。そのはずだった。


 帝国の旗艦「聖炎の槍」の甲板で、将兵たちは互いの顔を見た。誰かが何か叫んでいる。口が動いている。だが、何も届かない。男が口を開けたまま、自分の声が聞こえないことに気づき、硬直した。別の兵士が甲板を拳で叩いた。叩いている。音がない。もう一度叩く。やはり、音がない。男は自分の手のひらを見つめ、それから空を仰いだ。


 甲板のあちこちで、同じことが繰り返されていた。叫んでいる口。届かない声。自分の足音が聞こえないことに気づいた兵士が、走るのをやめて立ち尽くす。霧が深い。波の音がない。風の音もない。すべての音が死んでいた。


 「報告を! 何が起きている!」


 副官ヴォルフの口が動いた。自分の声が届いていないと理解した瞬間、彼の顔から血の気が引いた。傍らの兵士が肩を掴んでくる。形相が、すべてを物語っていた。


 機関兵が甲板を駆けてくる。その形相だけで分かった。


 魔導炉が止まっていた。推進力を失った巨大な艦が、霧の中に静かに漂い始める。セレナは自らの内に手を伸ばすように魔力を探った。あった。だが細い。まるで砂が指の間から零れ落ちていくように、力が薄れていく。胸の奥から、冷たいものが這い上がってくるようだった。これほど魔力が薄れたことは、一度もなかった。幼い頃から鍛えてきた炎が、今は灯台の灯火ほどにも感じられない。


 聖剣「ローエングリンの輝き」を引き抜いた。炎が灯らなかった。


 明滅する。消えかける。また灯る。


 「全艦、当初の陣形を維持せよ。前衛の三船は鶴翼の構えを崩すな!」


 セレナは手信号を送った。ヴォルフが激しく首を振り、手振りで訴えてくる。


 推進力を失った状態で陣を強行すれば、波に流された味方同士が激突する。一度陣を解け。各個の判断で凌げ。ヴォルフの目が言っていた。頼む、と。


 セレナは首を横に振った。


 「崩れてはならぬ。秩序を失えば、恐怖が勝つ。我らは進む」


 聖炎が震えていた。今にも消えそうだった。それでも、彼女は剣を掲げ続けた。炎が揺れるたびに、後方の兵士たちの顔に不安が広がるのが見えた。だから、掲げ続けた。たとえ炎が消えても、剣だけは下ろせなかった。ヴォルフが唇を噛み、それ以上は何も言わなかった。セレナは剣先を霧に向け、目を細めた。霧の向こうに何があるか見えない。敵がいるのか。罠があるのか。それとも、敵よりも恐ろしい何かが。分からなかった。それでも、進む以外にない。秩序が崩れれば恐怖が勝つ。それだけは分かっていた。


 後方甲板の隅で、一人の若い兵士が膝を抱えていた。十八か十九、まだ産毛の残る頬に、冷や汗が光っている。耳が聞こえない。声が出ない。隣の先輩兵士が何か言っている。口が動いている。何も届かない。


 彼は母親の顔を思い出していた。入隊の朝、笑って見送ってくれた顔。帝国の誇りを、と言っていた。その声を、今はもう思い出せなかった。


 海面を見た。霧の向こうで、殿下の聖炎が揺れている。消えそうで、消えない。帝国の旗印。戦場では無敵の聖炎と聞かされていた。なのに今、炎は震えていた。それでも消えなかった。彼はそれだけを見つめていた。炎が消えなければ、自分もまだ立っていられる気がした。


-----


 「シルヴァーナ」もまた、狂乱の渦中にあった。


 伝令兵が駆けてくる。舵が利かない。海流操作が止まった。幻影鏡が暴走している。すべて口の動きと手振りだけで伝えられる。甲板の端で、若い水兵が自分の喉を押さえ、声が出ないことを確かめるように何度も口を開けていた。


 水面に展開していたはずの幻影の軍船が、形を失って霧の中を這い回っていた。味方の船のはずが、今や何の形ともつかない歪んだ影と化し、霧の深みで不気味に蠢いている。


 キリルは胃を押さえた。冷や汗が首筋を伝う。


 「冗談じゃねえ……」


 ただ適当に波風を立てて、適当に逃げ出すつもりだったのだ。何が聖戦だ、何が天命だ。世界そのものが、まともな動きすらさせてくれない。キリルは最も嫌う状況の名前を知っていた。混沌。それが今、音のない闇となって目の前に口を開けていた。


 「陣形なぞ捨てろ!」


 キリルは紙に殴り書きして、ガルドに突きつけた。


 「各船、魔導炉を強制遮断。帆を畳め。潮の流れに身を任せるんだ。逆らって魔力を使うな!」


 ガルドが口を動かした。威厳がどうのと言っている。


 「威厳で腹が膨れるか! 格好をつけて溺れるくらいなら、格好悪く生き延びる方を選ぶ!」


 連合の船員たちは魔導炉を止め、船を流れに委ねた。艦隊は無秩序に漂い始めた。しかし互いに激突する最悪の事態だけは免れていた。キリルは欄干に手をつき、霧の中を見つめた。帝国艦の聖炎の光が、霧の奥で弱々しく瞬いている。あちらも同じ状況なのだろう。それだけは分かった。


 甲板の端に、見覚えのある後ろ姿があった。昨夜、酒を断った少年水兵だった。欄干にしがみついたまま、霧の中を見ている。肩が震えていた。


 キリルは近づき、何も言わずその肩を掴んだ。少年が振り返る。目が赤かった。泣いていた。声が出ないから、泣き声もない。ただ頬を涙が伝っていた。


 キリルは少年の肩を一度だけ叩き、それから前を向いた。それだけだった。少年は袖で顔を拭い、欄干を握り直した。手が震えていた。それでも離さなかった。提督が立っている。それだけで、足がもう一度踏ん張れた。


-----


 艦の機関室で、地脈測定計器の針が振り切れた。


 技師が凍った。針はすでに目盛りの外にある。記録帳を引っ張り出し、過去の数値と見比べた。嵐の時。地震の時。大規模魔力実験の時。どれとも一致しない。前例がない数値だった。技師は計器を叩いた。針は動かなかった。彼は記録帳を閉じ、額に手を当てた。報告すべきか。今さら何を報告する。艦橋には音が届かない。紙に書いても誰が読む。彼はただ、計器の前に座っていた。


 その時、足元が揺れた。


 音ではなかった。足元から何かが這い上がってくる。歯が鳴った。胃が揺れた。


 「聖炎の槍」の甲板で、セレナは危うく膝を折りそうになった。白銀の鎧が細かく共鳴し、歯が噛み合わなくなる。掲げていた聖剣の切っ先が、揺れた。


 ヴォルフが海面を見た。その目が、見開かれた。


 「シルヴァーナ」の方でも、同じものが見えていた。ガルドが戦斧を両手で握り直す。船員が一人、帆柱から滑り降り、言葉もなくガルドの背後に隠れた。誰も笑わなかった。


 海底が、泡立ち始めていた。熱はない。それでも、まるで沸騰するように。船体の周囲が、白い泡沫で埋め尽くされていく。泡は次第に大きくなり、表面が盛り上がり、まるで海の内側から何かが押し上げてくるように、波が同心円を描いて広がった。


 影があった。


 海の底に、何かがいた。


 大きさだけは分かった。船より大きい。霧の中に浮かぶ「シルヴァーナ」より大きい。岩場の島影より、大きい。それが何であるかは分からなかった。ただ、大きかった。


 ヴォルフが口を開いた。


 「……莫迦な」


 それだけだった。


 後方で兵士が一人、踵を返した。逃げようとした。ヴォルフは音もなく動き、その肩を掴んで引き戻した。手信号で指示する。持ち場に戻れ。剣を抜くな。動くな。兵士は震えながら、それでも頷いた。隣の兵士も、その隣も、ヴォルフの手信号を見て姿勢を正した。崩れかけた線が、かろうじて保たれた。


-----


 「シルヴァーナ」の甲板で、ガルドが戦斧を構えた。無音の中で、その巨体が低く沈んだ。本能が、何かを察知していた。


 キリルは、足元が傾いていくのを感じた。海面が押し上げられている。巨大な何かが、下から来ている。欄干を掴んだ。指の骨が白くなるほど、強く掴んだ。


 ガルドが横に吹き飛んだ。音なく。キリルは欄干にしがみついた。波ではなかった。海そのものが隆起していた。水平線が、傾いていた。甲板の荷物が端まで転がり、船縁から海に落ちた。その全てが、無音だった。


-----


 海面が、割れた。


 逆巻く水飛沫が天を突いた。白く濁った水の壁が、両軍の艦隊を呑み込もうとする。帆柱が揺れ、甲板に積まれた荷が転がり、それでも無音のまま、すべてが起きていた。


 その向こうに、それはいた。


 黒かった。ただ、黒かった。光を反射しない。霧も寄り付かない。ただそこに「ある」という事実だけで、海峡の空気が変質していく。城のようでもあった。生き物のようでもあった。どちらでもなかった。どちらでもあった。見れば見るほど、何であるかが分からなくなった。


 将兵たちが武器を取り落とした。甲板にへたり込む者がいた。祈り始める者がいた。隣の者の肩にしがみつき、ただ目を閉じる者がいた。産毛の残る頬の兵士は、膝をついたまま、それでも殿下の剣を見ていた。消えそうで、消えない聖炎を。炎が揺れるたびに、胸が締め付けられた。少年水兵は欄干を両手で掴み、歯を食いしばっていた。キリルに肩を叩かれた場所が、まだ温かかった。その温もりだけが、今の自分を甲板に繋ぎ止めていた。


 キリルは、その黒い塊を見ていた。怖くなかったと言えば嘘だ。だが、怖さの種類が違った。嵐が怖い。海流が怖い。人間の欲が怖い。それらとは違う。あれは理解の外にある。理解できないものに向かっていく術を、キリルは知らなかった。嵐なら読める。人間なら読める。だが、あれは読めない。それが初めて、キリルを黙らせた。


 セレナは剣を握ったまま、動けなかった。一歩も、動けなかった。


 「ローエングリンの輝き」が震えていた。


 かつて戦場において一度として怯えたことのないその刃が、持ち主の手の中で、ただ、静かに震えていた。


 その黒き表面で。


 一つ、蒼い光が灯った。


 二つ。


 三つ。


 数えるのをやめた。


 海の底で星々が目を開くように、その数はまだ増え続けていた。どこまでも、どこまでも。

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