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アルテミシア戦記  作者: チャプタさん


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第一話:星の刻の炎

第一話:星の刻の炎


 港の鐘が鳴った。


 一度。二度。三度。夜半に鳴るはずのない警鐘だった。


 大地の底が低く不気味に震え、海原が静かにざわめいている。引き波が黒い砂浜を濡らし、磯の乾いた匂いが冷気に乗って鼻を刺した。漁師たちが慌てて網を落とした。子供が泣き出し、母親が急いで窓の木戸を閉める。老神官が境内の中庭に膝まずいたまま祈りを止め、震える首を上げて東の空を仰いだ。彼の唇はかすかに動いたが、声にはならなかった。白い息だけが、冷たい夜気に静かに溶けていった。


 天の一角が、裂けていた。


 アルテミシアの深奥から、巨大な青白い光の柱が、天の頂に向かって垂直に突き刺さっている。瑠璃色の海面は波立つことなく静かに震え、遥かに連なる連峰の万年雪が、白銀の刃のように鋭く冷たく照らし出された。港に繋がれた漁船が一斉に軋み、桟橋の杭が、潮に浸かったまま低く鳴いた。


 港だけではなかった。


 港の突堤に繋がれた犬が、一斉に吠え始めた。木にとまっていた鳥が、夜だというのに群れをなして飛び立ち、闇に溶けていった。神殿の境内では、何十年も絶やしたことのない聖火が、音もなく消えた。神官たちは火打ち石を手に、しばらく棒立ちになっていた。


 港だけではなかった。遠く離れた農村でも。石造りの大神殿でも。帝都ヴァルハリスでも。同じ鐘が鳴っていた。鐘の音だけが、暗い夜を貫いて、遠く遠く響き渡っていた。人々は軒先に立ち、隣人の顔を見た。答えを持っている者は、どこにもいなかった。港の端で、一人の老婆が空に向かって何かを叫んでいた。声は届かなかった。光柱はただ静かに、すべてを照らし続けていた。


 ――星の刻が、始まった。


-----


 聖ヴァルハラ帝国の皇城、西翼の長廊。


 夜の冷気が大理石の回廊を満たしていた。セレナ・フォン・ローエングリンは石造りの窓辺に立ち、その天を突く光柱を見ていた。


 背の聖剣「ローエングリンの輝き」が、微かに熱を帯びていた。鞘の隙間から漏れ出す白い熱気が、窓を叩く夜風をかすかに歪ませている。彼女は石造りの窓枠を片手で掴んだ。ただそれだけだった。その指先が白く強張っているのを、闇に揺れる松明の火だけが静かに照らしていた。廊下の奥から、使者の足音が近づいてくる。足音の速さで、玉座の間への召喚であることが分かった。セレナは光柱から目を離さないまま、一度だけ、深く息を吸った。冷たい空気が、胸の奥まで満ちた。聖剣の熱が、それに応えるように、かすかに強くなった。


-----


 同じ刻、大陸の南東。


 潮のうねる音が、切り立った岩肌の島陰に響いている。自由連合の魔導艦「シルヴァーナ」の、暗い甲板。


 キリル・ヴァルデンは欄干に肘をつき、安物の酒を煽りながら空を見上げていた。船体は静かに波に揺れていた。黒髪が潮風に乱れ、軍服の襟は緩められたままだった。


 「……また神託か」


 誰にともなく呟いた。それだけだった。杯をゆっくりと傾け、喉に流し込む。酒は安くて、ひどく渋かった。


 傍らの副官ガルド・ヴァイゼンが、巨大な戦斧を肩に担ぎ直して苦笑した。その巨躯が動くたびに、鎖帷子がかすかにきしむ。甲板の若い水兵が二人、こちらの様子を横目で窺っては、慌てて視線を逸らした。キリルはその一人に杯を差し出した。水兵が硬直する。まだ十五か十六だろう。


 「飲むか」


 「……け、結構です」


 「正しいな」


 キリルは自分で飲んだ。水兵は何と答えればいいか分からず、ただ直立したまま固まっていた。


 「提督、部下が聞いてますぜ」


 「だから何だ。……俺はただ潮風を浴びながら酒を煽っていたいだけなんだがね」


 ガルドは少し間を置いた。それから、声を落として言った。


 「……提督は、なぜ戦うんですか。本当に」


 キリルは空から目を離さなかった。


 「生き残るためだ。俺も。お前も。あの馬鹿どもも」


 甲板の船員たちを顎で示す。ガルドは何も言わなかった。


 「大義だの神託だので死ぬのは勝手だ。だが俺の船で死ぬな。それが唯一の命令だ」


 艦内の地脈測定計器が、カチカチと不快な作動音を鳴らし始めた。キリルはそれを無視し、杯の底に残った酒を喉に流し込んだ。夜風が頬を撫でる。光柱は相変わらず、海の果てで静かに燃えていた。キリルはしばらく動かなかった。光柱は美しかった。美しいものは大抵、碌でもない事態の前触れだ。杯を置き、首の後ろを掻いた。嫌な予感がした。この種の予感は、外れたためしがなかった。遠くの岩礁に波が砕け、白い飛沫が夜に散る。それだけが、いつも通りだった。


-----


 玉座の間へ続く大廊下の手前、中庭に面した回廊。


 セレナは足を止めた。


 石造りの柱の陰に、一人の若い兵士が座り込んでいた。右腕に布が巻かれている。光柱の震動で転倒したのだろう、額にも擦り傷があった。傍らの先輩兵士が何か声をかけているが、若者は唇を噛んで俯いたままだった。


 セレナは膝をついた。


 兵士が顔を上げる。皇女だと気づいた瞬間、蒼白になった。


 「も、申し訳ございません、殿下、このような場所で——」


 「動かないで」


 セレナは静かにそう言い、傷口に手を当てた。掌から淡い光が滲み出す。白い熱が、布の下の傷をゆっくりと塞いでいく。兵士は息を呑み、それから目を丸くした。


 「……痛くない」


 「すぐ治ります」


 光が消えた。セレナは立ち上がり、東の空を一瞬だけ見た。光柱はまだ燃えていた。


 「戦が始まれば、もっと酷い傷を負う者が出る。今夜は休みなさい」


 兵士が何か言おうとした。セレナはすでに廊下を歩き出していた。


-----


 帝都ヴァルハリス。白亜の城の中枢、玉座の間。


 巨大な大理石の円柱が幾本も並ぶ広間に、新皇帝カイゼル・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルハラの重々しい声が反響した。先帝の崩御から半年。若き皇帝の貌には覇気が漲り、その眼差しは鋭く、眼下の皇女を射抜いている。居並ぶ大臣たちは誰一人、顔を上げなかった。玉座の背後、高い窓から外の光柱が見えた。青白い光が広間の床に斜めに落ち、影を長く引いていた。


 「この星の刻こそ、天が我らに下したもうた好機。皇女セレナよ、そなたは我が聖戦の旗印となれ」


 セレナは片膝を突いたまま、光柱のよく見える窓の方角を一瞬だけ見た。誰も気づかないほど、わずかな間だった。それから目を戻し、口を開いた。


 「陛下……古き賢者たちの書には、星の刻とは『現世を滅ぼしかねぬ大いなる災厄』と記されております。この光が神の御心であるという確かな証は、いかなるものでしょうか」


 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、玉座の傍らで絹擦れの音がした。


 誰も口を開いていないのに、広間の空気が一変した。


 黒髪を高く結い上げた女が、扇を広げ口元を隠しながら微笑んでいた。居並ぶ大臣たちは皆、その方向を見ないようにしながら、しかし怯えるように見ていた。ディアナ・ローゼンフェルト。彼女が笑うと、玉座の間はいつもこうなった。燭台の炎が、揺れた気がした。


 「まあ、皇女殿下。相変わらずお優しく」


 声は穏やかだった。だが広間の誰一人として、その笑みに安堵した者はいなかった。


 「ですが、調和のみを尊んでいては大局を見失います。他国が力を蓄える今、無為に時を過ごせば、帝国の民こそが飢えと戦火に晒されましょう。国を護るための厳しき大義も、また必要なのです」


 大臣たちの誰も口を開かなかった。石造りの床を、誰かの足先がかすかに鳴らした。それだけが聞こえた。ディアナはゆっくりと扇を閉じた。その仕草は優雅で、静かで、何一つ咎めるところがなかった。誰も身動きしなかった。


 セレナは一度、聖剣の柄に触れた。冷たかった。それから静かに頭を下げた。


 「……陛下の御命令、この命に代えても果たして見せましょう」


-----


 廊下に出た瞬間、前に人影が立ちはだかった。


 副官ヴォルフ・フォン・シュタイナーだった。


 彼は何も言わなかった。ただ、石造りの柱を一度、拳で殴った。ゴツ、という重い音が廊下に響く。拳の甲に、じわりと赤いものが滲んでいた。石屑が白く、床に散った。


 「ヴォルフ」


 セレナが低く呼ぶと、彼はようやく振り返った。幼馴染の端正な顔が、苦渋でひどく歪んでいた。かつての面影はなかった。彼女はその顔を見て、初めて、この夜の重さを実感した。玉座の間での言葉も、皇帝の命令も、ディアナの微笑も——すべては頭の中の話だった。だが今、目の前で傷ついているのは、生身の人間だった。


 「殿下……真に、この聖戦をその身に引き受けられるのですか。先帝陛下が崩御されてから、この国は変わった。陛下は何かに取り憑かれたように覇道を急ぎ、ディアナという女が現れてから……私には、国が殿下を薪としてくべる準備をしているように思えてならんのです」


 セレナは窓の外に目を向けた。


 東の空に、依然として青白い光柱が燃えている。冷たい夜風が窓枠を小刻みに震わせた。城下の街並みが、光に青白く染まっている。あの光の下で、今も誰かが空を見上げているのだろうと、彼女は思った。彼女はしばらく沈黙した。それから聖剣の柄から、そっと指を離した。


 「……ヴォルフ、あなたの剣は私のために振るわれる必要はありません」


 「嫌です」


 間髪入れなかった。その目に宿る光は揺るぎなかった。


 「どのような運命が待ち受けていようとも、私は最後まであなたと共にあります。このヴォルフの命、とっくにあなたに捧げているのですから」


 セレナは小さく、静かに笑った。碧眼が、わずかに潤んでいた。ただそれだけだった。彼女は前を向き、廊下を歩き出した。その背中に、松明の光が長い影を落としていた。ヴォルフはしばらくその場に立ち尽くし、血の滲んだ拳をそっと握り直した。それから静かに後を追った。二人分の足音が、冷たい石畳を叩いて、長い廊下の奥へ消えていった。


-----


 「シルヴァーナ」の甲板に、伝令兵が息を切らして駆けてきた。


 「提督! 帝国軍の魔導艦隊を確認。隻数十二。旗艦には魔導騎士団の紋章あり。指揮を執るのは、皇女セレナ・フォン・ローエングリンとのことです!」


 キリルは目を細め、空を見上げたまま、ゆっくりと杯を欄干に置いた。磁器が金属に触れる、小さな音が鳴った。


 「ほう……あの気高き『帝国の聖女』か。辺境の小島にまでわざわざ来てくれるとは、望外の光栄だな」


 キリルは振り返った。甲板の船員たちが、一斉に姿勢を正した。燃料係も、舵手も、見張り台の少年でさえも。


 「ガルド、全艦に布告しろ。今夜は『狐の時間』だ。海流操作を最大出力、幻影鏡の結界を限界まで展開。敵を必要以上に殺さず、味方を一人も失わない。それが俺の流儀だ」


 「了解。相変わらずの無理難題ですが……嫌いじゃありませんぜ、提督!」


 ガルドが吠えると、甲板が一気に動き出した。怒号と足音と機械の駆動音が混じり合い、「シルヴァーナ」がゆっくりと向きを変える。艦の腹の奥で、魔導炉が低く唸り始めた。海流操作装置が稼働し、船の周囲の潮が、静かに、しかし確実に向きを変えていく。


 霧が深まってきた。


-----


 帝国軍旗艦「聖炎の槍」の船首。


 セレナは白銀の鎧を纏い、聖剣の柄を固く握りしめていた。激しい潮風が金髪をなびかせる。前方の霧は深く、艦隊の先頭さえ霞んで見えた。海面を走る風が、頬に冷たく当たる。


 「殿下、前方より特異な魔力反応。霧に紛れ、複数の幻影を展開している模様です」


 ヴォルフの報告を受け、セレナは静かに頷いた。


 「勇敢な者たちのようですね。……」


 セレナは霧の奥を見つめた。光が見えない。敵の影も見えない。あるのは深い霧と、その中で揺れる自らの艦隊の輪郭だけだった。それでも、進む以外の選択肢はなかった。


 「ヴォルフ、艦隊の指揮を任せます」


 聖剣を天高く掲げた。手のひらから溢れた光の粒子が、沈黙する闇を払うように、瞬く間に艦隊全体を包み込む。それは美しくも冷徹な、白き聖炎の結界であった。後方の兵士たちが息を呑む気配がした。


 霧の深淵で、キリルは小さく笑った。


 光の艦隊が、霧へ進む。


 霧の奥で、一瞬、灯りが見えた。


 幻影艦隊の残影か。それとも別の何かか。ヴォルフが剣の柄に手をかけた。次の瞬間、灯りは消えた。霧だけが残った。


 セレナは剣を握る。


 キリルは酒杯を置いた。


 霧の向こうで、光が燃えた。


 その瞬間、艦の奥で地脈測定計器が一度だけ、短く鳴った。


 ヴォルフが振り返る。計器は沈黙していた。誤作動か。それとも。誰も口を開かなかった。霧が、ゆっくりと艦隊を包んでいく。


 帝国と連合の初戦。だが、この海峡で動いているのは、人間だけではなかった。

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