第9話:魔王、激怒
門の前まで来ると、さすがに空気が変わった。
魔王城の門番は、王都で見た兵とはまるで違う。背が高い。鎧も分厚い。角のある奴も、目の色が人間とは違う奴もいる。いかにも魔族の本拠地という顔ぶれだ。
「リリス様……!」
門番たちは一斉に姿勢を正した。
ただ、その視線はすぐに俺へ移る。歓迎ではない。警戒と敵意がそのまま顔に出ていた。
「その人間は何者ですか」
低い声で問われる。
リリスは一歩も引かず、顎を少し上げた。
「私の客よ」
「ですが……」
「通して」
短く命ずる。
門番たちは迷った。リリスに逆らえるわけがない。だが、見知らぬ人間をそのまま魔王城へ通していいはずもない。その板挟みが、見ていて分かる。
少しおかしくて、少しだけ楽しかった。
こういうのだ。
最初から全部スムーズじゃない感じ。向こうの都合も事情もちゃんとあって、そこに俺が割り込んでる感じ。
「……どうする」
俺が小声で聞くと、リリスはそっぽを向いたまま答えた。
「どうするも何も、そのうち父上が出てくるでしょ。こんなところで揉めていたら」
「それはそれで面白いな」
「面白がるな」
そのときだった。
城門の奥から、重い気配が流れてきた。
空気が、一段沈む。
門番たちの顔つきが変わる。リリスも、ほんのわずかに肩を固くした。
来たな、と思った。
黒い外套。長身。大きな角。歩くたびに、周囲の空気が引き締まる。見た目だけなら壮年の男に見えるが、雰囲気が違いすぎた。立っているだけで、そこが中心になる。
魔王だ。
そいつは門の内側で足を止め、まず娘を見た。次に俺を見る。その順だった。
「リリス」
低い声が響き渡る。
「何をしている」
「見ての通りよ」
「見ての通りで済むと思うか」
そこには、最初から父親としての苛立ちがあった。
だが次の瞬間、魔王の視線が俺の横へ滑った。
ミアだ。
普段は気弱で、部屋の隅にちょこんといるだけのあいつが、こういう時に限って妙に目立つ。
魔王の目が細くなる。
「……そやつは、神だな?」
空気が、また変わった。
門番たちまで息を呑んだのが分かった。リリスも一瞬だけ黙る。
ミアは肩をびくっと揺らした。
「は、はい……」
「なぜ人間風情が神と共にいる」
問われたのは俺だった。
さっきまでの“娘の前に現れた妙な人間”を見る目とは違う。警戒の質が変わっている。
俺は少しだけ肩をすくめた。
「こっちが聞きたいくらいだよ」
「ふざけるな」
「いや、わりと本気で」
「零!」
リリスが小声で怒る。
「そこはもう少し何かあるでしょ!」
「何かって言われてもな」
魔王の視線は、まだ俺から外れない。
娘が連れてきた人間。
その横にいる神。
「神よ」
魔王がミアへ向き直る。
「何のためにそこにいる」
ミアは一瞬だけ俺を見た。
たぶん、どこまで言っていいか測ったんだろう。
「……同行しております」
「理由になっておらん」
「事情の説明は、零さんの判断に従います……」
ミアにしては珍しく、少しだけ硬い声だった。
魔王の眉がさらに険しくなる。
「人間」
今度は、完全に俺を見ていた。
「何者だ」
真正面からの問いだった。
歓迎も儀礼もない。最初から敵地で、最初から疑われている。その感じが、妙に息をしやすくする。
「佐藤零」
「名など聞いておらん」
「じゃあ何を聞いてるんだよ」
「貴様が、何者で、何しに来た」
空気が張る。
門番たちも、リリスも、ミアも黙った。
たぶんここで、下手に格好つけるのは違う。俺は少し考えてから、わりと正直に答えた。
「何者かって言われると、俺もまだよく分かってない」
「戯言を」
「ただ」
そこで一度区切る。
「娘さんに来いって言われたから来た」
リリスが横でぴくっとした。
「ちょっと、言い方」
「間違ってないだろ」
「間違ってないけど!」
そのやり取りを見て、魔王の目がさらに細くなる。
「……ほう」
低い声だった。
まだ怒鳴ってはいない。だが、空気は少しずつ冷えていく。
「リリス」
「何よ」
「説明しろ」
「説明って、そのままよ」
「そのままとは何だ」
リリスが一度だけ息を呑む。
ここで初めて、少しだけ迷ったのが分かった。勢いでここまで来た。でも、父親を前にして、さすがに一瞬だけ言葉に詰まった。
それでも、逃げなかった。
リリスは俺の前に半歩だけ出た。
「この人、私の夫にするから」
門前の空気が、止まった。
門番たちの目が見開かれる。
ミアが小さく息を呑む。
俺も、数秒、何を言われたのか処理できなかった。
夫。
その言葉を聞き、魔王は固まった。威厳のあった顔つきが、この瞬間だけは初めて彼氏を家に連れ帰ってきた娘を見て、ぽかんとする父親の顔そのものだった。
リリスはさらに続けた。
「だから勝手に殺さないで」
魔王は一言も発さなかった。
その沈黙が、逆に怖い。
魔王は娘を見た。次に俺を見た。もう一度、娘を見る。
「……まさか」
その声は低かった。
「よもや……」
そこで、俺の口が滑った。
「ご馳走様でした」
言った瞬間、自分で思った。
あ、やべ。
リリスが勢いよく振り向いた。
「何で今それ言うのよ!?」
「いや、なんか反射で」
「反射で言うな!」
門番たちは完全に固まっていた。
ミアは両手で口元を押さえている。
そして魔王は。
次の瞬間、やっぱり完全に激昂した。
「貴様ァッ!!」
門前の空気が弾けた。
怒鳴り声というより、圧そのものが襲ってくる。石畳が軋み、門番たちが一斉に身を固くする。黒い外套が大きくはためき、地面の砂が跳ねた。
すごかった。
たぶん普通の人間なら、その声だけで膝をついていた。
でも俺は立っていられる。
立っていられるし、ちゃんと分かる。
向こうが本気だと。
心臓がどくどく鳴る。
怖い。普通に怖い。
なのに、胸の奥だけは妙に晴れていた。
ああ、これだと思った。
今までの“全部整ってる感じ”とは違う。
目の前のこいつは、俺を喜ばせるために怒ってるんじゃない。本気で俺を殺したくて怒ってる。だから、こっちもちゃんと、この場に立ってる感じがする。
「零!」
リリスが声を荒げる。
「何で煽るのよ!」
「煽るつもりじゃなかったんだけど」
「結果、最悪でしょ!」
「それはそうだな」
魔王が一歩前へ出る。
それだけで、空気がさらに重くなった。
「貴様、今何と言った」
「……いや、その」
「聞き返させるな」
「はい」
さすがにここは、少し姿勢を正した。
魔王の目は、さっきまでとは違う。単なる不審者を見る目ではない。娘の口から出た言葉と、俺の口から滑った言葉がつながって、最悪の形で理解された目だ。
「リリス」
魔王は娘を見た。
「本気で言っているのか」
「本気よ」
リリスは顔を真っ赤にしていた。
耳まで赤い。勢いで言ったのは間違いない。でも、引っ込める気はない顔をしている。
「こいつを」
「“零”よ」
「夫にすると?」
「そう」
短いやり取りだった。
でも、その短さがむしろ重かった。
魔王はしばらく黙ったまま娘を見る。
怒っている。めちゃくちゃ怒っている。俺への殺意はますます高まっているようだ。さっきの5倍(当社比)くらいかな。
だが、娘を見る眼差しは、怒りとは異なるものだった。
ここで初めて分かった。
こいつ、娘への溺愛が相当強いな。
魔族を統べる王であるなら、ここで娘ごと押し潰してもおかしくない。なのに、その選択をしていない。怒りながらも、まず娘の本気を測っている。
「……零」
リリスが小さく俺を呼ぶ。
「ん?」
「何か言いなさいよ」
「またそこ振るのか」
「私だけに言わせる気!?」
「だってお前、急に夫とか言うから」
「他に言葉が浮かばなかったのよ!」
「いきなり重すぎるだろ! お義父さん、ビックリしてんぞ!」
「誰がお義父さんだぁッ!」
魔王が吠えた。
会話の温度が沸点を遥かに上回っている。この感じが、妙に良かった。
向こうの都合も、こっちの都合も、全部そのまま場に出ている。誰も最適化してくれない。その生っぽさが、久々に気持ちよかった。
魔王が深く息を吐いた。
怒りで周囲が冷える。派手ではないが、門番たちの顔は、さっきから蒼白だ。
「……なるほど」
低い声だった。
「娘をたぶらかしただけの、腑抜けではないらしい」
「たぶらかしたつもりはないんです、お義父さん」
「黙れぇぇぇぇぇッ!!」
「はい」
そこは素直に返事しておいた。
魔王は俺をまっすぐ見た。
「……今すぐ殺す」
リリスが息を呑む。
「と言いたいところだが」
そこに、わずかな間が入る。
その間だけで、こっちは分かった。
ああ、娘のせいで即断しきれないんだな、と。
「リリスが本気で言っている以上、今この場で貴様を消せば、後々面倒なことになる」
「お義父さん!」
「やかましいわ!! まだ認めたわけではないッ!」
リリスは口をつぐんだが、明らかに少しだけ安堵していた。
魔王は続ける。
「不遜にも、我が娘の夫を名乗るならば、証明しろ」
来た、と思った。
それだよ。
娘の一言で全部収まるんじゃない。そこから先がある。向こうがまだ、認めるかどうかを握っている。その感じが、ちゃんとイベントだった。
「力でも、胆力でも、覚悟でもいい」
魔王の声は低い。
「娘の口先一つで、余が貴様を認めるなどと、ゆめゆめ思うな」
それを聞いた瞬間、俺は少し笑った。
ああ、やっぱりそうだよなと思った。
こうでなきゃ困る。
「……いいよ」
俺は答えた。
「証明してやる」
リリスが横で目を見開く。
魔王の目は細くなる。
門前の空気はまだ重い。殺気も消えていない。面倒も厄介さも全部そのままだ。
でも、俺の中だけは妙に軽かった。
怖い。
高い壁だ。
普通に面倒だし、厄介だし、下手したらこの場で全部吹き飛ぶ。
なのに、胸の奥はずっと熱いままだった。
やっとだ。
やっと、手応えのある面倒が来た。




