13
俺は真下を眺めていた。
高い位置から、深い水の底を見ているようだった。
眺めていると、表面が波打った。やはり水か何か液体が張られている。
しかし底が深すぎる。深すぎて光が届かないせいで、その液体が真っ黒に見えるのだ。
そのままずっと見ていると、奥で青白い光が見えた。
チェレンコフ放射、と誰がそう言ったのが聞こえる。俺は周りを見渡す。
『助けろ』
声がどこから聞こえるのか分からなかったが、声が誰のものか分かった。
『経産省の田村か?』
『いいから、助けろ』
分からない。声は聞こえるものの、方向については全く感じ取ることが出来ない。
だが、景色として存在するのは、この水の底しかない。そこにとらわれていると考えるべきだろう。
俺は懸命に水に落ちようとするが、落ちることが出来なかった。
そうだ。夢なのだ。ここれは夢の中だ。俺はあらためて認識し直した。
昨日教授が言っていた。夢を夢と分からず見ているのと、夢を夢と分かってみるものでは全く性質が違う。分かって見ているものは明晰夢という。それは見ている者の意識でコントロール出来るそうだ。
しかし、これだけはっきり意識があるのに、何も支えのない状態で俺は水の上空に浮ぶように存在していて、水の中に入ろうとしても入れない。
恐怖がそうさせないのだ。俺は勝手にそう思った。
『とにかく、逃げて!』
『逃げれない! 助けろ、このままじゃ』
心臓が激しくなり、呼吸が荒くなった。
その時、アラームが鳴って、俺は跳ね起きた。
上体を起こした状態で、肩で息をしていた。
止めたアラームの日付と曜日を見て、俺はアラームの設定を間違えたことに気付いた。今日は休日で、この時間に起きる必要はなかった。
かといって、体を横にして恐怖が支配する夢に戻るのもいやだった。
俺はじっとしたまま考えた後、着替えて朝食をとることにした。
施設の食堂に行くと、足を滑らせそうになった。
見ると床が濡れていて、その先をたどると男がテーブルにうつ伏せになっていた。
着衣のまま全身が濡れていた。
「もしかして、田村さん」
俺の声で、体がピクリと動いた。
顔を上げると、探すように周囲を見回して見つけた。
「助けろ。頼んだじゃないか」
「何を頼んだって? それよりびしょ濡れじゃないか。どうなっている」
「変な夢を見ている」
「夢?」
田村は昨日、大学の研究室から出た後、タクシーに乗ってここに帰る際、車内でウトウト眠ってしまったそうだ。
その時に夢を見た。暗い闇中で、丸く抜かれたような窪地があり、黒い霧を湛えていた。
黒い霧が吹き上がると、巨大な生物が現れた。
巨大な生物は田村などに目もくれず、後ろにある建物に向かった。
田村も巨大生物を追って建物に行くと、そこは発電棟だった。
「発電棟?」
「巨大生物は原子炉に興味があるようだった。俺は巨大生物が何をするのか興味があった」
「チェレンコフ放射」
「そうだ。あの巨大生物の、蜘蛛のような複眼も、原子炉のような、そんな青白い光を放っていた」
「夢の中でそう言ったのは…… 田村さん」
「助けろとずっと叫んでいたんだ。お前と同じ夢だと思ったから、ずっとそう言っていた。聞こえたんだな?」
あの叫びは俺が作り出した幻聴ではなく、夢がシンクロしたのだろうか。
俺はうなずいて、言った。
「聞こえた」
「お前に何度か『助けろ』と叫んだ時、俺は『これが夢だ』と意識することが出来た。そしてほぼ同時目が覚めた。まだタクシーの車内だったが、様子がおかしい。明らかにスピードを出しすぎていた。正面のガードレールにぶつかるのは確実だった。運転手に『ブレーキ』と言ったが反応がなかった。ルームミラーから運転手を見ると、ずっと目を閉じているのがわかった。防犯上のアクリルガードがあって、ドライバーには手が出せない。俺は窓を開け、車から飛び降りた」
「それで濡れているんですか?」
「違う」
スピードが出ていたものの、路肩の雪に助けられて怪我はなかったそうだ。
車は田んぼを通る真っすぐな道で、そのままガードレールを突き破って川に落ちていた。
ここの施設に戻ってくるために、コンビニでエンジンをかけっぱなしだった車を盗み、乗って来たらしい。
「タクシー運転手が助かったのかはわからない」
「おい、車両の事故の連絡をしてないのか。今からでも遅くない……」
田村は俺の話を遮ってきた。
「その前に俺を助けろ」
「何を言っている、タクシーの運転手の命はどうでもいいとでも言うのか」
ボタボタと床に滴を垂らしながら、田村は立ち上がって俺の襟を取って絞めてきた。
「くるしぃ……」
「俺がどういう状態になっているか教えてやろう」
田村は俺の襟を離すと、調理場の方に近づいていく。
振り返ると俺に手招きする。
近づくと、田村が管理人を指指す。
「管理人が寝ているだろう。これは俺が近づいたせいだ」
「はぁ? じゃあ、俺は何で寝ていない?」
「そう。それが確認したかった。お前は俺が近づいているのに寝ない」
そう言った瞬間、管理人が目を開けた。
一瞬、管理人の目が光ったかのように思えた。青白いチェレンコフ放射のような光が、目から発せられたような気がした。
すると包丁を両手で握りしめ、管理人が調理場から食堂に出てくる。
「管理人さん? どうしたんですか?」
俺の言葉には反応していない。
両手で包丁を持って向かってくるのはどうしたもこうしたもない。異常な事態に他ならない。
管理人はまっすぐ田村に向かっていく。
田村は素早く管理人の腕を取って、捻る。手から離れた包丁が、俺をかすめて、背後に落ちる。
俺は、田村に投げ飛ばされたことを思い出した。
「すこし押さえてくれ」
管理人を押さえていると、田村は管理人の手足を縛り上げた。
「見たか? そして、これがどういうことか分かるか?」
「わからない」
「通訳も、タクシー運転手も、この管理人も、ここに来るまでに関わった人たち全員だ。俺に近づいた者は夢を見てしまう。夢を見て、俺を殺そうとしてくる」
「だから俺は? 俺はなぜ夢を見ない?」
「これは今考えたことだが、お前は俺と同じ夢を見ている。そして監視者だ。お前はもう夢を見て、狂っているから俺を殺さない」
「……」
以前、田村は『クスルー』のことは信じないと言っていた。
「なんでそんなこと…… 俺の話は信じないんじゃ」
「事実からの類推だ。この仮説で結果が上手く説明できるなら、とりあえずこの仮説を利用させてもらう。本当の理由は後で分かればいい」
「どうやって助ければいいんだ。これが本当なら俺にも助けられない」
相手は異星の生命体だ。
人類などよりずっと高度で高い知能と技術、肉体も地球のどんな生き物では敵わないほど強力だ。
「俺にも分からない。だが、頼れるのはお前だけだ。昨日からずっと寝ていない。寝てしまったら、周りの人間に殺されてしまう」
「ずっとお前と一緒にいろって言うのか」
「助かる方法を考えてくれ。俺は原子炉に答えがあるように思う。だから、原子炉に行こ……」
確かに夢の中で原子炉に向かって行ったのだとしたら、『クスルー』は原子炉に興味があるか、興味のあるものが原子炉の近くにあるのだろう。
だが、原子炉に行ってどうする。俺たちが原子炉に行ったために、クスルーを誘導してしまい、結果、原子炉を破壊されたら、漏れ出す放射性物質で地域に大災害をもたらすことになる。
いや、だからそれはすべて小説の中の話だ。空想の世界なんだ。
俺は憑りつかれたこの妄想を、自分の中で必死に否定した。
「……寝やがった」
いや、周囲の人間に殺されるという緊張から、田村は今まで寝れなかったのだ。
あの管理人が、包丁を握りしめて襲い掛かってくるほどだ。見ず知らずの人間が寄ってたかって襲ってきたとしたら、どれほど恐ろしいことか。車を盗んだコンビニに至るまでの間も、周りの人間に襲われただろう。タクシー運転手の車や、さっきの管理人の刃物のように、何か武器になるようなものを持っていなかったとしても、そいつらから逃げるのは簡単なことではない。
周囲に人がいないことを確認しなければ寝れない訳だから、悪夢のような時間だったに違いない。
「俺が見ててやるから、ぐっすり寝てろ」
椅子をつなげて田村の体を横に寝せてやる。
田村と距離を取って、管理人も同じように椅子を並べたところに寝せた。
俺は深呼吸して田村の近くに座った。
「お父さん?」
食堂の入り口に管理人の娘が現れた。
学校がないらしく、模様の入った淡いベージュのセーターを着ていた。
まずい。田村の近くにくると、この娘も殺しにくる。それに食堂に入られると、管理人を縛り上げていることがバレて、不審に思われてしまう。
俺は慌てて娘の方に駆け寄った。
「管理人さんなら、外に出て行ったよ」
すぐばれるようなウソだ、と言ってから後悔した。
「あっ、そうか。あの車を見に行ったんだ」
「あの車って?」
「申請がないのに勝手に車止めてる奴がいるってお父さん怒ってた」
そうか、田村が盗んできた車のことか。
「そう。じゃあ、その車を見に行ったんじゃないかな」
「ありがとう」
娘は建物の外へ出て行った。
俺はほっとため息をついた。そして食堂に戻ろうとした時だった。
施設の外に、車が入ってくるのに気付いた。
白と黒に塗り分けられ、屋根に赤色回転灯が付けられている。
「なんだパトカーか」
俺は何げなくそう口にして、食堂に戻ろうとした。
そして考えた。
なぜ警察がここに来たか。
田村がコンビニで車を盗んだとしたら、警察がここに来る可能性がある。この国の道という道にはナンバーを読み取る装置があって、どっちの方向のどの車両が移動したかはすぐに分かってしまう。
とくにこの施設の周辺にはろくな建物や住居がない。ここを確認しにくる可能性は非常に高い。
俺は考える。警察が田村を連れていくとすれば、警察官が田村の夢の影響を受けることになる。
いくら田村が武芸を習得していたとしても、人数に勝る警察官とやりあえるほどは強くないだろう。加えて、警官は拳銃を所持している可能性がある。この国の警官なら、よっぽどの事態でない限り銃は撃たない。だが、今回の場合、夢の影響がある。拳銃を持っていたら夢で狂い、即座に射殺されてしまうだろう。
「おい、田村、起きろ!」
「……わっ、な、ななんだ」
「警察がきた」
目はほとんど開いていなかったが、頭は働いているようだった。
「……なら、すぐ逃げないと、射殺されるな」
「だが、表の駐車場には警察がいるぞ」
田村は立ち上がった。
「管理人の車は施設の裏においてあるはずだ」
俺は寝せている管理人の所に行き、ポケットを探った。
いくつか手を入れると、鍵束が手に触れた。
「……あった」
鍵の頭に車のメーカーが刻まれていた。
俺と田村は調理場を通って、施設の裏手に出る。
ほぼ同時に、施設の中に管理人の娘の声が響いた。
「お父さん、警察の方が表の車のことで聞きたいことがあるって」




