王弟殿下の人形 後編
王弟殿下の人形 後編 (近日刊行)
婚約が決まってから、婚約者が来る日を狙ったように体調が悪化した。自分を早く追い出したい母がこんな嫌がらせをするとは思えなかった。何とかごまかして薬を処分しても眠気が収まらず、考えはまとまらなくなり、体がふらつく。食事に混ぜられているのだろうか。
せっかく来てくれた婚約者が自分に呆れ、無駄足だったと怒っていたと聞かされた。謝りたいのに意識は遠のいていき、心の痛みだけが残った。
結婚すれば薬を飲む必要はなくなるはず。薬を飲み続けているせいで日々弱っている体も、時間をかければきっと元気になる。家から離れ、夫になる人に味方になってもらえれば普通の生活ができる。
自分の願いとは裏腹に、婚家に自分を見張っていた侍従の男が執事としてついてくることになった。決めたのは男の父親でもある家の執事だった。大して優秀でもない自分の息子に役職を与えたかったのだろうか。何度も不要だと訴えたが、決まったことだと一蹴された。男がいなくなることを喜ぶ者は少なくなく、誰も味方してはくれなかった。やっかいな者は追い払われる。男もだが、自分もまたそうだ。
薬を盛っているのはこの男としか考えられなかった。薬で少女を操り、何かしようと企んでいる。
王城に行かされたあの時と同じ絶望感が胸に広がった。
できるだけ薬を飲まないようにしてはみたが、結婚式当日には立っていられないくらいひどいめまいと倦怠感に襲われた。どうしても式を挙げたいと父親に頼み込み、父は式を継続することを承知してくれた。
しかしそれは父親もまた早くこの家から娘を追い出したい一人だっただけだ。
「自己管理もできないとは、無様な…」
そうつぶやいた父親に少女への愛情など感じられなかった。薬を盛られていることを知らないのだとしたら、この企みに関わっていないだけましなのかもしれない。
執事になった男は頼みもしないのに少女の体を支え、父と共にバージンロードを歩いた。腰に触れる手が不快で、脇腹に強く食い込む指に痛みを感じた。
式を終えると新居ではなく元いた実家の別棟に連れ戻された。執事になった男の独断だった。
薬を飲まされて新居に行かせないよう足止めされていたが、隙を見て自力で新居に向かおうと家を出た少女は男に捕まり、事故を装って両足を折られた。
「今度逃げようとしたら、おまえの夫も殺してやるぞ。騎士だろうが薬で眠らせれば一刺しであの世行きだ」
身動きがとれなくなった少女は夫が傷つけられないことを選び、言われたとおり薬を飲み、新居への移動も執事の言うままに従った。
薬がきついものに変わったのか、これまで以上に霧の中にいるように頭がぼんやりしていて、体の自由がきかず、とかく眠気がひどい。夫と共に朝食を取りたいのに起き上がれない。目覚めても自由にならない足では移動できず、密かに夫の元へ行くこともできない。
数日後、ようやく夕食を共にしたが、誰も少女が同席することを夫に伝えていなかった。先に食事を始めていた夫は気まずそうにしていて、言伝もなく遅れてきた妻に不機嫌になっていた。それでも同席できただけでも嬉しかった。
ちょっとしたことでもいい、何か話をしたいのに考えがまとまらない。食欲もわかず、早く切り上げるよう耳打ちされて仕方なく退席すると、階段の手前で抱きかかえられた。いつもは荷物を運ぶよりも乱雑なのにその時に限って丁寧だった。男は甲斐甲斐しく介護する姿を夫に見せつけたかったのだ。
「しっかりしがみつかないとここから落とすぞ。何度も折れると歩けなくなるかもな」
にやりと笑う執事は夫から見えない方の手を緩め、まだ折れたまま、添え木もされていない足をぶらぶらと揺らした。痛みが走った。
歩けなくなるのは嫌だった。言われるまま執事の首に手を回したが、距離が近すぎて気分が悪くなった。
夫はこの結婚の意義をなくし、家を出て騎士団の宿舎で暮らすようになっていた。いつか夫に捨てられる。それが怖くて仕方がなかった。
夫に帰ってきてほしいと密かに手紙を出した。何通目かが見つかり、執事は自分の言うことを聞かなかったと逆上した。服に隠れた部分を蹴られ、うめいていると、外から声が聞こえた。夫が戻ってきたのだ。
すると突然何かを思いついた男はにやりと笑った。
「王弟の人形は、服を脱がせなければやったことにならないらしいな? おまえの夫に見せつけてやるか?」
かつて王弟にされたようにドレスを着たまま裾をめくられ、下着を引き裂かれ、男の性欲を満たすだけの行為を強いてきた。それを夫に見られた。
絶望を感じたが、立場は一転した。執事は浮気現場を見せつけるつもりだったが、妻と浮気している使用人への制裁に変わった
あの男のそばに剣が刺さった時、夫が素敵すぎて、自分の姿も忘れて見惚れていた。そのままあの男を突き刺してほしいと願った。そして自分を自由にしてほしいと。
しかし夫は、自分の妻は不貞をしていると思っていた。
本当に夫を思うのなら、離婚の言い訳を与え、自分の元から立ち去ることを許すしかない。
それには夫の思い描くふしだらな女になればいい。身を売り、愛を請うだけの愚かな妻だと。本気で愛してほしいと願い、本心を口にしながら伝わることはない。愛しているのはあなただけだと、語れば語るだけ偽りになって響いた。
さらには家も、爵位も、夫のものになっていなかったと聞かされた。全て執事が横取りしていたのだ。
何の約束も果たされていない。そんな結婚に未練があるわけがない。
そして夫は戻ってこなかった。
予想と違ったのは、離婚さえもできなかったことだ。式を挙げながら、結婚した事実さえもなかった。
少女の夫の名は執事に変えられていた。本当なら夫に与えられていたはずの全てが、執事のものになっていた。
少女の父親は家の執事に騙されたと言いながらも訂正はしないと言った。夫だった男も了承していると聞かされた。
ふしだらな…、愚かな…、ばかなことを…。少女の言い分を聞くこともなく、少女の罪をあげつらい一方的に罵倒する父親もまた、あの王弟と変わりはしなかった。
少女はそのままその家で執事との結婚生活を続けることになった。
実家に連れ帰られることはなくなり、実家から薬がもらえなくなったのか、薬も飲まされなくなった。おかげで少しづつ体調は良くなり、頭もクリアになった。
新たな夫は少女を妻にはしたが、この家を乗っ取るためで元々興味はなく、すぐに自分の恋人だった女を屋敷に連れ込んだ。いちゃつくところを見せつけてきたが、何の感情もわかなかった。
少女に手を出したことを恋人に問い詰められ、夫は少女が誘惑したせいだ、この家を手に入れるための演技だと理由をつけてごまかしたが、女の怒りは収まらなかった。おかげでその後一度も関係を持たずに済んだのは救いだった。
女主人の部屋を追い出され、質素な部屋に移されたが、一階になったことはむしろありがたかった。何とか自力で車椅子に乗り換えて家の中を移動し、使用人に手伝ってもらって少しの距離なら出かけることもできた。こんな状態になって初めてほんのわずかながら「自由」を手に入れた。
元執事の男は調子づいて恋人と共に贅沢な暮らしを続けていたが、少女の実家である伯爵家からの支援が打ち切られていることに気付いたのは三ヶ月後だった。
伯爵家を騙し、所有する家と爵位を奪い、娘の結婚を偽ったのだ。娘の夫だろうとそんな男に支援を続ける訳がない。支払いが滞るまでそんなことにも気付かなかった。
領地もなく、執事としての給与もなく、収入は何もない。
使用人は元々雇われていた伯爵家に戻り、新たに雇用された者は給料が支払われなくなると辞めていった。
伯爵令嬢をお飾り妻にし、贅沢三昧な生活を期待していたが、宛ての外れた男は、恋人が勧めるまま妻を売ることにした。
足は不自由だが、品のある若い貴族の女を買いたい男はすぐに見つかった。邪魔なだけの女に高値がつき、男は喜んだ。
手に入れたこの家も父親ほど思い入れはなく、売ることにした。家財も高値で売れた。
思いがけない大金を手にした男は、このまま国外に出て気ままに暮らす計画を立てていたが、家を明け渡す前夜、煙草の火の不始末で屋敷は炎に包まれた。
焼け跡から男女の遺体が見つかった。年格好や身につけていたものから、その家に住む子爵夫妻と思われた。




