第5章
夜間高校三年生の授業は、丁度各学校の中間試験の時期ともあって、欠席者が目立っていた。
横川の高校生時分などは、学校の成績なんて大学受験にあまり関係なかったから、定期テストなんかは赤点を取らない程度に準備しておけば良いと言った雰囲気だった。
しかし推薦入試や総合型選抜入試など、高校時代の成績が重要視さていくようになって、今の高校生たちは、学校の定期テストに真面目に取り組む生徒が多くなっている。まあそれが、まっとうな形なのかもしれない。確かに、昔のような一発勝負の大学入試に弊害が多かったのは事実だ。日頃の努力とかは関係なく、当日の出来不出来で決まってしまう。しかし誰もが、それで仕方がないと思っていて、ある意味でそれが公平だと思っていたのも事実だろう。
学校の成績を重視すると言っても、各高校でレベルはばらばらであるから、実際は、高校での評価を大学がそのまま信用する訳ではない。学校の成績は実のところ「指定校推薦」、つまり、大学が各高校に振り当てた推薦枠の獲得を目指す、校内での競争に過ぎない。指定校の推薦枠に潜り込めば、無試験で合格出来る。
だから、特に私立大学志望者では、一般入試をわざわざ受けようなんて受験生はどんどん少なくなってきている。やはりそういう意味では、教務主任の田中が言うように、「今までとは違う方向性」を持たねば、この先じり貧になっていくのは目に見えている。
だが、国公立大学の入試はまだまだ一発勝負であるから、その点でまだ予備校の必要性は続くだろうが。
夜九時過ぎに最後の授業が終わって、鞄に授業中にやった小テストの答案を詰め込んで校舎をでた横川は、駅前の居酒屋に一人で寄って、生ビールを注文した。
夜の授業があるときは、真直ぐ家に帰っても十時半になるから、すでに妻と子供は寝ていて、一人で夕食をとるのも侘しいから、居酒屋に寄って、晩酌がてら軽い夕食をとることにしている。それは妻にも認めさせていて、「夕食代」として、月々の小遣いにいくらかは上乗せさせている。
点き出しの揚げ出し豆腐を肴に生ビールを飲みながら、横川は夕方北村の提案を思い出した。
確かに泉水を合格させるのには、考えても良いことかもしれない。でも何故北村が直接提案するのではなく、自分に押し付けたのかが分からない。
仮にそんなことが実際に可能ならば、いくらかは紹介者への謝礼として支払われる可能性もある。それならばあの北村のことだから、そんなうまい話をわざわざ自分に持ちかけたりはせずに、自分で和泉の父親に持ちかけるだろう。自分に話を振ってきたには、何か落胆があるはずだ。
横川は冷静に頭を働かせて考えた。
しかし、どう考えても詐欺っぽい話である。北村の魂胆を探る意味でも、少し話に乗ったふりをしてみようか。
横川は自分にいくらかの謝礼が入るなどは思わなかったし、とりあえず普通に暮らしていけるだけの収入があり、そんな犯罪めいた金など欲しくなかったが、少し退屈なこの頃の生活に彩りを添えるくらいの経験になるのではないかと思った。
「焼酎のお湯割りを一杯」
横川は、少しワクワクしてきた自分に気づいた。
翌日の授業も夜だけだったので、横川は午後からの出勤だった。
妻の瑞枝は市立小学校の教員をやっていて、子供を幼稚園に送ってから出勤するので、こういった日は遅く起きて、午後までの時間をゆったりと過ごせた。
しかし逆にそういった日は、掃除と洗濯、それに夕食の下ごしらえまでは横川の係りとなっていて、それほどまでに余裕があるわけではない。
昼前に北村から携帯に電話があった。
「横川先生、昨日の話だけども……」
北村が口を濁らしながら話し始める。
「今日午後、少し時間をとれないかな。授業は夜だけだよね」
「ええ、そうですが」
「じゃあ、午後三時に駅前のグランドホテルのロビーに来てくれないか。人と会わせたいから」
横川は昨夜飲みながら考えていたので、すぐに了解した。
「それじゃあ午後三時にね」
北村は機嫌よく電話を切った。
横川は、お昼過ぎに家を出て、牛丼屋で昼食を済ませ、書店で時間を潰してから三時前にグランドホテルに着いた。まだ北村は来ていないようだった。
コーヒーを注文して新聞を広げていると、見知らぬ男が近づいてきて声をかけて来た。
「横川先生ですよね」
「はあ」
横川は新聞を置いてその男を見た。五十過ぎくらいの、小太りで、髪の薄い男で、薄い色の入った黒縁眼鏡をかけてダブルのスーツという格好は、いかにも怪しげな雰囲気を醸し出していた。
「武藤と言います。北村先生からご紹介していただきました」
武藤と名乗る男は、名刺を差し出した。肩書は「武藤教育研究所所長」というもので、これも更に怪しげである。
「はい伺っていますが、北村先生はご一緒ではなかったのですか?」
そのとき横川の携帯に着信があった。見ると北村である。
「横川先生、武藤さんとはお会いできましたか?」
「ええ、今丁度。今日北村先生はご一緒ではなかったんですか?」
「ごめんごめん、行くつもりだったんだけど、急に用事が出来たのでね。とりあえず、武藤さんから話を聞いておいてくれないか」
北村はそう言うと、そそくさに電話を切った。
「北村先生から、私の方で話を聞いておいてくれとのことです」
横川は武藤に言った。
武藤もコーヒーを注文する。
「先生も大変でしょう。色々と厄介な生徒もいて」
武藤は大げさな口ぶりで話し始める。
「まあ、そりゃそうですけど」
横川は警戒しながらあいまいな返事をした。
「北村先生からお聞きしたんですが、どうしても医学部に入れたい生徒さんがいるとか?」
「まあ、入りたい生徒は、誰でも入れてあげたいですよ」
横川は苦笑いする。そして「何か特別な入り方でもあるんですか?」と、横川の方から話を振ってみる。
「まあ、そんなに簡単ではないですけどね、ふふふ」
武藤は、運ばれてきたコーヒーに口を付けてから、怪しげに笑った。
「横川先生は長年進路指導をされているからご存知だと思いますが、私立大学には、理事の推薦枠というのがありますよね」
「いいえ、そんなこと知りませんよ」
実際横川が指導してきたのは、学力に見合った大学を選ばせることくらいで、そんな裏事情など知りもしなかったし、知ろうとも思わなかった。
「まあ私立大学は、国公立と違って独自の建学の理念と言うのがありますから、入学者を決めるにも、それぞれの大学で独自の方法をとっても許されていますからね」
確かに、国公立大学の得点至上主義の厳密な入学者選抜方法に比べると、私立大学入試は多様だ。一芸入試という、何か得意分野があれば入学できるところもあったし、もちろんスポーツ推薦などは普通だ。
「ある大学の医学部の理事で、その方はその大学のOBで、学内でも力を持っていらっしゃる教授なんですが、その方がね、近年の入学生の質の悪さを嘆いていましてね」
武藤は煙草の箱を取り出したが、禁煙だと気付いて、棟ポケットに再び戻した。
「最近はどの私立大学でも医学部は難しいから、昔に比べて優秀な学生が多いと思いますが」
横川は反論した。
「いやまあ、頭は良いんでしょうけどね、医者は頭だけじゃありませんからね」
「適性が欠けているとか?」
「そういうことのようでしょうね。ですから、高い入学金を払って入学したものの、途中でやめたり、国家試験に合格出来なかったりといった学生が増えているそうです」
ある意味正しいのかもと、横川は思った。
「それでね、その理事は入試改革の一環としてね、もっと医者にふさわしい学生を、独自に集めたいと思ったわけです。立派な見識ですよね」
武藤は横川に同意を促す。横川は仕方なく頷くふりをした。
「でも、入試方法を変えるとかは、学内の意見も色々あるから、手続き上、難しい面もある。でもその先生は、どうしても早急に改革しなければならないという危機感を持っていらっしゃってね、そこでね、OBの推薦枠を、身内のご子息とかではなく、そういった優秀な学生集めに利用しようということで、まったく見上げた志ですよね」
武藤の淀みない話は、それなりに本当に聞こえてくる。
「でも、いくらかの金銭が必要とか聞きましたが」
横川は核心部分を突いてみた。
「ええ、OB推薦でも、大学への寄付金は必要ですから」
「大学への寄付金ですか?」
それならば不自然ではない。
「でも、あからさまに公表できる種類のお金ではないので、それなりに処理しているようですがね」
武藤は口を濁した。
「それに、そういった優秀な学生をスカウトするにしても、それなりに経費がかかりますから」
結局武藤の話に一時間弱ほど付き合ってから、横川は予備校へと向かった。
確かに全くあり得ない話ではないかもと、横川は思った。しかし、金額は最後まではっきり言わなかったが、一千万円を超える額が必要となるのは、やはりどうしても怪しいと思わざるをえなかった。
予備校に着くと、北村から会議室に呼び出された。
「武藤さんの話はどうだった?」
禁煙のはずのその部屋で、北村は煙草を一本取り出して火を着けた。
「ええ聞いてきましたが、具体的にどうのこうのという話ではありませんでしたよ」
「まあ和泉のお父さんに話してみて、関心があるようだったらば、武藤さんと相談してみたらいい」
「僕がですか?」
「横川先生が話す方が、自然だと思うからね」
どこが「自然」なのかさっぱり分からなかったが、横川はそれ以上、北村を追及する気にはなれなかった。それにあんな話など、まだ眉唾ものだと考えていたから、話すつもりもなかった。




