第4章
四国予備校が進出してくるという情報は、生徒たちの間でも広がり始めていた。
「あそこの古文は良いらしいぜ」
「高木だろ?」
「ああ。現役時代に五十点満点で五点しかとれなかったやつが、一浪して満点取ったってよ」
「まあ宮本も悪くはないけどな」
「数学は?」
「横川も良いけどな」
生徒間で色々な情報がやり取りされているようだ。
「横川先生、ちょっと時間をもらえないか?」
教務主任の北村が声をかけてきた。
「ええ、五時までなら」
その日も現役生対象の夜間の授業があったが、その時間までならば、なんとかなりそうだった。
北村は、職員室隣の応接室に横川を招き入れ、錠を下ろした。
「古館の件だが」
「和泉のことですか?」
「そう、実際のところ、あいつは見込みあるのかね?」
「まあ微妙ですね。数Ⅲはきつそうですから、それのない所を狙わせます」
「あそこか」
「入学金や授業料は高額ですが、和泉の家庭ならば、問題は無いでしょうから」
「まあそうだな」
「で、和泉がどうかしたのでしょうか?」
横川はいぶかしげに田中を見やった。
「実は古館の父親から相談があってな、父親は俺の教え子でもあるから」
確かに和泉から、お父さんが昔北村に英語を教わっていたという話を聞いたことがある。
「どんな相談を?」
「大きな声ではせることではないが、実は、ある私立大学の医学部にコネのある人物から、入学を斡旋してくれるという話があってね」
横川は顔をしかめた。
「北村先生、眉唾物じゃないんですか?」
「いや、確かだ」
北村は断言した。十数年前、横川がまだこの予備校に勤め始めて間もないころ、「どうしてこの子が?」というような生徒がとある私立大学の医学部に合格したとき、北村が自分のコネを自慢げに言いふらしていたことを思い出した。
「昔はそうだったかもしれませんが、今は難しいんじゃないですか?」
「いや、それなりにルートはある」と自信ありげに言ったが、小声で「ただ、一千五百万円かかる」と付け加えた。
「一千五百万?」
横川は驚いた。
「それは大学への寄付金ですか?」
「まあ、形はそう言うことだろう」
理事枠なるものもあると聞いてはいるから、それは無くもないんだろうと横川は考えた。
「でもそれは、まあしいて言えば『裏口入学』ってことになるんでしょう?」
横川は席を立ちかけた。
「いや、大学入試制度上、そう言うのが認められているんだから、『裏口』とまでは言えないだろう。古館をどうしても医学部に押し込めなければならないのは、お前も分かっているのだから、正攻法だけではなく、いざという時のことも考えておかなければいかんだろう」
横川はもう一度ソファに腰を下ろしたが、北村への不信感が余計に増してくる。
「それで君の方から、古館のお父さんに、そういう話があるということを伝えてくれないか?」
横川は、首を傾げた。
「和泉のお父さんから相談を持ちかけられたと言っていましたよね? その話はお父さんら持ち込まれた話だったんじゃないですか?」
「いや、噂話を聴いただけらしくて、具体的な話を聞きたいらしい……」
北村は口を濁しながら言い訳した。
「まあ、是非とも娘を医学部に入れたいが何とかならんか、という相談を受けたものだから」
横川はようやく事情が掴めた。和泉の父親の弱みに付け込んで、北村の方からこの話を持ちかけるつもりである。
「ご自分で提案されたらばいいじゃないですか。向こうのお父さんも、北村先生のことを信頼されているようだし」
横川は、少し皮肉を込めてそう言った。
「いや、そうも考えたのだが、娘さんの今の直接の担任は君だし」
「担任なんて、別に気になさらなくても良いですよ。僕は聞かなかったことにしますから」
横川は、再び立ち上がろうとした。
「まあ、待ちなさい。俺の話を少しは聞いてくれ」
北村は横川の肩をポンポンと叩き、座るように促した。
「これは、秀学アカデミーの将来にも関わる話だから、少し落ち着いて聞いてくれ」
北村は低い声で横川に言った。
「俺もそろそろ引退だ。まあ、もう定年していて再雇用と言う身分だが」
横川は、北村が何を話そうとしているのか見当がつかないまま、仕方なく腰を下ろす。
「だから、そろそろ俺の跡継ぎを探さねばならないと思っている」
「どんな跡継ぎを?」
横川は、怪訝そうな表情で田中を見返す。
「まあ、色々な面でな」
北村は胸ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。五年前から、一応校舎内は全面禁煙になっていたはずだったが。
「まあ、俺も立場上、色々な大学と付き合いがあってな」
確か北村は、教務主任と言う肩書で、多くの大学の入試関係者と接点があるのは知っていた。
横川も、教務副主任ということで、北村に代わって何度か私立大学の入試説明会に行ったことがあるが、そのときは一万円の図書券やらのお土産も持たされたし、地方の大学のオープンキャンパスに招待されたときなどは、旅費・宿泊費が大学持ちなのは当然で、夜の懇親会の二次会までセットされていて、少し特権意識をくすぐられたのは事実だ。
北村は頻繁に大学関係者と会っていたから、それ以上の見返りがあるのかとは、薄々感じていた。
近年、私立大学の入学生集めは、競争が激化している。定員割れにでもなれば国からの補助金に影響が出て、たちまち財政的に立ち行かなくなってしまう大学が、多数存在するからだ。
そのため、特に入試難易度の低い私立大学などは、以前はAО入試と称していた総合型選抜入試や推薦入試の拡大による受験生の抱え込み、入試科目の軽減化や入試形態の多様化などによって、あの手この手で受験生及び入学生確保に躍起になっている。
総合型選抜入試とは、元々は教員とは別個に入学者選抜を専門とする組織を有するアメリカの大学入試制度を真似て、日本でもAO入試などと称していたが、本来あるべき姿とはかけ離れていて、ただ単に、自己推薦入試と変わらなくなっているので、「総合型選抜」と名称が変わってきている。
そんな私立大学の一部に、そこそこの謝礼金をばらまいても、自分の大学に受験生を送り込んでくれればありがたいと考えているところがあっても、確かに不思議ではない。
しかし医学部となれば、少し事情が異なる。今の時代、資格が取得できる学部学科が大流行で、その中でも最高に価値が認められる医師の資格に結び付く医学部は、多額の授業料を払ってでも進学させたいという経済的に余裕のある家庭が、いくらでも存在する。
だから、そこへの進学のため、多額の授業料を必要とし、合宿してとにかく詰め込み教育をする「医学部進学セミナー」なる予備校も、今では多数存在する。
しかしそれは逆に、金さえ出せば医学部に合格できるという神話が崩壊していることを意味している。
「秀学アカデミーも、曲がり角に来ている」
教務主任の北村が、勿体着けて切り出した。
「このままでは、秀学アカデミー、いや、笹川和孝校長の経歴にも傷が付く」
秀学アカデミーの番頭を自負している北村らしい言い回しだった。
横川は、まだ北村の言葉の意味がつかめないデイタ。
「だからどうだって言うんですか?」
「だから、今までとは方向性の違うことにも向かわねばならない」
「方向性が違うって?」
「だから、今までとは違う方向性だ」
横川は、北村が何を言い出すのかと、しばらく沈黙した。しかし北村は「そういうことだ」と勝手に話を収めて、立ちあがった。横川は拍子抜けして、北村が去って行った応接間で、しばらくソファに深く腰を鎮めながら、深いため息をつくしかなかった。




