第3章
翌日の午後、横川は医学部志望者対象のハイレベルクラスで、前回の授業の復習テストを行っていた。
かつては浪人生の医学部志望者だけでも百名の二クラスあったが、今は三十名の一クラスしかない。
しかしそれなりに優秀な生徒が集まっていて、この予備校の中で一番優遇されているクラスだ。授業料半額免除の生徒も五名はいた。
現役高校生のクラスには、医学部に現役で合格できそうな生徒は、どう考えても二人しかいなかったから、副校長が言う二ケタに届くには、この中から八人は合格させなければならない。
横川はテストに取り組んでいる生徒一人一人の顔を見回りながら、ほぼ合格圏内にいると思われる、授業料半額免除の五人以外の三人を探そうと思ったが、残念ながら見当がつかないでいた。
成績優秀な浪人生は、授業料減免でかろうじて引き留められていると言ってもよく、大多数は都会の大手予備校に流れて行ってしまうようになってしまった。
それもこれも、かつて医学部志望者クラスを主に担当してきた、教科主任たちの退屈なくそ面白くもない授業のせいだと横川達は思っている。
横川や中田や宮本が受け持つようになった時には、すでに生徒は半減していた。
医学部クラスだけではなく、主要な授業は、「ベテラン講師」が古めかしい指導法で昔ながらの退屈な授業をしていたから、大々的に人気講師の楽しい授業を前面に押し出している大手予備校や衛星予備校などに生徒を持っていかれたのだ。
それでも何とかあと三人を見つけなければならない。
そもそも横川は、生徒を区別して優遇するのは好きでなかった。しかし副校長の言う医学部二けたを達成するには、少しでも見込みのある生徒を徹底的に鍛えるしかない。現段階で合格がとても見込めない生徒は、来年もうちの予備校で頑張ってもらえるようにするしかない。
横川はテストの答案を回収しながら、何とか可能性のありそうと目を付けた三人に、後で職員室に来るように命じた。
「おい井田、この調子だと、もう一年はかかるぞ」
横川は二浪目である井田に少し冷たい口調で言った。井田は、県で難易度から言うと五番目くらいに位置する県立高校出身で、その高校からは何年かに一度は国公立大学の医学部に合格する生徒もいることはいるが、世間的に見て、その高校から難関大学への合格は難しいだろうと思われている。
しかも井田は、その高校を真中くらいの席次で卒業したわけで、二浪しても国立の医学部などには到底届かないのが普通かもしれない。
しかしテニス部のキャプテンとして、殆ど部活オンリーの高校生活を送っていた井田は、元々は頭も良い生徒だったのだろう。一浪目には、医学部以外だったら合格できる共通テストで七十パーセントのレベルまでは伸びてきた。だがさすがに医学部となると、共通テストで八十五パーセントは必要だ。英語、理科、社会はかなり伸びているが、数学と国語は頭打ちで、もう一年で届くかどうかは分からない。
「共通テストはなんとかなると思うんですが、二次試験は全く自信がありません」
確かにマーク式の全国模試では順調に伸びているが、記述試験型模試は全然伸びが見られず、総合判定になると余計に悪くなる。
「土曜日の午後に補習を組むから受けろ」
「えっ、土曜日の午後ですか?」
秀英アカデミーの高卒生クラスは土曜日も午前中は授業を組んでいたが、午後は現役生対象クラスの授業が詰まっていて、授業は無かった。
横川は、夜間に高校三年生の授業があったから、少し早く来れば、夕方に補習の時間が持てる。
これ以上労働時間を長引かせたくなかったが、こいつらを合格させるには、それくらい我慢するしかないと横川は諦めた。
次に呼んだ女生徒の古館は、私立女子高出身の小柄な娘である。
父親が医者で、兄である長男は、東京の大手予備校に通って一浪で地元国立大学の医学部に合格し、もう四年ということである。
妹の古館和泉は、別に親は医者にさせたいとは思ってはいないが、父親や兄に憧れたというわけではなく、最近テレビなどでよく取り上げられる「美人女医」に憧れて、自分も医者になりたいと思ったようだ。しかし残念ながら「美人」女医には無理だと横川は思っていたが、そんなことは口には出せない。
親は開業医で経済的には裕福であるから、私立大学の医学部でも良いとのことである。しかし横川が高校生の頃ならまだしも、私立と言えども医学部となれば、かつてのように金で入れるようなものではない。
だから国公立だけではなく、私立大学の医学部合格実績も、今では予備校にとって大きな実績になる、入試科目が英数理の三教科と国公立に比べて少ない分、確かにやりやすい面はあるので、経済的に可能な生徒に対しては、積極的に勧めてはいる。
しかし和泉の通っていた女子高は、御嬢さん学校との評判は高かったが、決して学力で評価されるような高校ではなかった。卒業生の大半は、そのまま進学できる女子大に進んでいる。
「美人女医」に突然目覚めた娘に、両親は一応地元の予備校限定で、一浪までという条件で秀英アカデミーに通わせている。父親が秀英アカデミーで浪人して医学部に合格したという縁もあった。
「和泉、おまえもう数Ⅲは諦めろ。一浪しかできないんだから、数Ⅲのない大学に絞って受けろ」
「ええ、だったらあそこしかないじゃないですか」
数Ⅲというのは、世の中の人間を理系か文系かに二分する、あの「微分積分」という数学の教科である。
最近では、少し「物を知った」人たちの間では、「理系・文系」という言葉が「時代遅れ」と冷笑されているようだが、最近でも「りけじょ(理系女子)」なる言葉も生み出され、厳然と世の中の人間を、老若、男女、貧富などと同じくらいに二分する基準となっている。
しかもそれは、高校で数Ⅲを履修したかしなかったかで決まる。
横川は、数Ⅲの授業を受け持つときいつも、最初の時間にこういうことにしている。
「君たちがこれから学習しようとしている数Ⅲで、君たちは一生『理系』という烙印を押されることになる」
生徒たちは、何が話されるのか分からず、ぽかんと口を開けている。
「ところで、世の中をよく見てみろ。社会を取り仕切っている人間は、殆どが文系じゃないか。会社の社長しかり、総理大臣しかり。まあ珍しく、理系の総理大臣が二人続いたこともあったけど、大して長続きしなかった。この予備校の校長、副校長だって文系で、理系の僕なんかは、安い給料でこき使われている」
ようやく生徒たちは話の内容を理解し始め、苦笑している。
「数Ⅲなんていう、やたらめったら面倒くさい科目を苦労して勉強しても、君らより社会科をもう一科目多く勉強しただけの文系人間の下で働かされるだけなんだよ。今だったらまだやり直しがきく。悪いことは言わない、次回からこの授業には出ない方が良い」
生徒はここで爆笑する。
そして横川はすぐに次ぎ足す。
「でもね、文系人間は理系にコンプレックスをいつも抱いていて、だから、理系の専門家の言うことには、盲目的に騙されるか、逆に妙な反発をするのかのどちらかだ。『一+一は二とは限らない』なんて、理系人間がさも頭が固いと言わんばかりのセリフを吐くが、僕からすれば、文系人間のコンプレックスの裏返しにしか聞こえない。だって一+一が二になるようにして理論を組み立てているのだから、その前提をひっくり返すならば、非ユークリッド幾何学のように、新たな公理系を作ってから言えば良い」
少し難解な用語をわざと入れて生徒の反応を確かめる。案の定、ちょっと理解できていない雰囲気だ。
「君たちがそれでも理系を目指すのならば、たとえ仕事で文系の上司に理不尽な仕打ちをされても、『こいつは文系だから』というささやかな優越感しか、自分を支えるものはない。円錐や角錐の体積が、底面積かける高さになぜ三分の一をかけるかを、文系は説明できないのだから」
それから横川は授業に入って行く。それも、「無限」という概念からである。
「1+1/2+1/4+1/8分+……というように、半減したものを無限にたし続けていくと、どうなると思う?」
横川は生徒の一人を指名する。
その生徒が、無限等比級数の公式を持ち出してちゃんと答えられる場合もあるし、沈黙している場合もあるが、どちらの場合でも、横川は次のような説明をすると、生徒は熱心に耳を傾ける。
「二つの考え方がある。一つは、『塵も積もれば山となる』的考えだ。つまり、1/2、1/3、1/8と、たしていくものは限りなくゼロに近くなっていくが、『限りなく』たしていくのだから、そりゃ無限に大きくなっていくという考え方」
生徒の半分は頷く。
「もう一つの考え方は、『骨折り損のくたびれもうけ』的考え方。つまり、無限にたしていくんだけど、どんどんたす数が小さくなっていくのだから、最終的には殆ど何も変らないだろうという考え方」
やはり半数の生徒は頷いている。
「で結果は、残念ながら『骨折り損のくたびれもうけ』なんだな。いくら頑張ろうが、限界がきてしまう」
横川はそこで、わざとため息をつく。
「いくら頑張っても、乗り越えられない壁があるという訳さ」
横川は黒板に一本の数直線を水平に書き、0と1と2の目盛を書きこむ。
「1+1/2とは、数直線上で次の長さを表す」
横川は、黒板に書いた数直線で、と1と2の目盛の真中に点を打ち、0からの距離を示す。
「1+1/2+1/4とは、次の長さを表す」
横川は、先ほど打った点と、更に目盛2との真ん中に点を書き加え、0からの距離を示して確認する。
「すると、更に1/8を足しても、目盛2との真ん中までの距離、1/16を更にたしても0からこの真中までの距離、つまりこの作業を延々と続けても、2までの真中をとりつづけるわけだから、この足し算をいくらしても、2を超えることはない。2に限りなく近づいていくだけだ」
生徒たちはようやくその仕組みを理解して、興味深そうに黒板に集中する。
「しかし似たような足し算で、一+1/2の一+1/3+1/4+……とやれば、さっきと同じで足していくものは限りなく0に近づいていくのに、結果は無限に大きくなっていく。まあこれは、後の授業で積分を使って証明します、とにかく!」
横川はここで声を大きくする。
「『無限』というのは、不思議なものなんだ。一昔前までは、『無限』なんて神様しか考えられない領域だと思われていた。だって、人間は生きている時間だって限りがあるんだから、無限のことなんか考えることは無理だと。しかし、今示したように、有限の人間だって、論理的に無限のことを考えることが出来るじゃないか。それを勉強しようっていうのが数Ⅲ、つまり『微分積分学』というやつなんだ。だから、理系に進むっていうことは、そういうことなんだ」
横川は、どのレベルのクラスでも、数Ⅲの最初の授業の時にその話をし、生徒はその話から学習内容に興味を示してくれ、一生懸命勉強をしてくれるという手ごたえを感じていた。
しかしこの古館和泉は、数Ⅲをこれ以上学習させても、後半年でモノに出来ないのは目に見えている。
「だから、数Ⅲの勉強時間を、理科や英語に振り替えて頑張りなさい」
「はい、分かりました」
横川は生徒から信頼されているようで、説得力があった。
三人目は、高野元である。こいつは県内一の公立進学校の出身だ。
その高校からは毎年東大にも二三人合格し、医学部にもそれくらいは現役で合格している。しかし高野は、部活もやらずに勉強ばっかりしていたはずなのに成績は中位で終わり、マーク模試の成績はずっと八割弱。頭打ちというか、伸びきった感じである。しかもひねくれている。こちらのアドバイスに一々反論して、素直に従わない。
多分医者には不向きだと思ったが、こいつが成績的には一番可能性がある。それに、今までも「こんなやつが医者に?」という疑問符の付いた生徒を何人も医学部に送り込んできたが、ちゃんと医者になっている。
そういう意味では、日本の大学の医学部教育は大したもんだと、横川は正直感心していた。
「おい高野。おまえには何かが足りない。だから八割のラインを突破できないでいるんだ」
「分かってますよ、化学と生物でしょ。まだ全範囲を終わらせていませんから仕方ないですよ」
「そういうことではない。数学も英語も国語もだ。数学だって、いつも同じ所で躓いているじゃないか」
「ああ、確率の所ですね。でも今仕上げていますから、大丈夫だと思いますよ」
こいつはプライドだけは高い。
「まあ聞け、お前のために特別補習をやるから、それを受けなさい」
「でも、自分の計画では……」
「文句を言わずに、素直に従え」
横川は有無を言わさず土曜日の補習のメニューを渡した。
次の土曜日がやってきた。横川は井田、和泉、高野の三人を集めて、小教室で補習授業を行った。三人に別々のプリントを与えての個別指導だ。
「先生、この問題が分かりません」
真面目な井田が、早速質問する。
「これはな、点と直線との距離の公式を用いて……」
横川が説明すると、井田はすぐに理解できたようだ。
「先生、これでいいですか?」
和泉が珍しく、真剣な声で質問する。
「ああ、ОKだ」
この古舘和泉という女生徒は、御嬢さんだけあって、いつもお洒落な格好をしている。だから、という訳でもないが、周囲の女の子たちからは浮き上がってしまっていて、容姿は「普通」だから、男の子たちから持てはやされるわけでもなく、女子高の同級生は殆ど現役で進学して行ったから、この予備校で、友達らしき存在はいない。でも、和泉はそれを気にしている様子もなく、授業の空いた時間は、自習室で黙々と一人で問題集に向かっている。
しかし、それで学習がはかどっているのかと言うと、誰かに尋ねればすぐに解決できるようなつまらない躓きに独りで悶々と向き合っていることの方が多く、決して効率的な学習という訳ではない。講師にも殆ど質問はなかった。
和泉は「ОK」と言われて、少し嬉しそうな表情を見せたような気が横川にはしたが、すぐに黙々とマイペースでプリントに向かう。
高野は、与えたプリントのあちらこちらに汚い字で計算を書き殴っている。
「おい、本番では計算用紙の使い方も重要だ。丁寧に書くことで計算ミスも少なくできるんだから」
横川が何度注意しても、高野の乱雑さは一向に改善されない。
「よし、時間だ。ここまでに出来た答案を提出しろ」
チャイムが鳴って横川は三人の答案を回収し、職員室に戻って早速点検してみる。
「あちゃー!」
理解してくれたと思っていた井田の解答は、全く見当はずれの答案で、和泉も、ОKを出したのと殆ど同じ問題で、再び躓いている。高野に至っては、一つの問題で三カ所も計算ミスを犯している。
こりゃ難題だ。横川は頭を抱えて、この先のいばらの道を想像せざるをえなかった。
翌週、この三人に英語と国語の補習を頼んでいた中田と宮本に、どうだったかを横川は尋ねてみた。
「井田はまあまあだが、和泉がどうもね。それに高野は長文を文脈を考えないで見当違いな誤訳が多い」
「古文と漢文はまあまあだが、三人とも現代文が滅茶苦茶だね」
どうやら中田と宮本も、横川と同じような感触だったようだ。
「しかし、あの三人をどうにかしないとな」
「だが果たしてあの三人が運良く医学科に合格したとして、それで来年度の生徒数が急増するのかな」
宮本が本質的な点を突いてくる。
「分からんけどな、でも副校長が二けたって主張するんだから、やらざるを得ないだろう」
「まあ、そうだな」
三人はため息をついた。
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