第2章
職員室の自席に戻ると、斜向かいに座っている教務主任の北村が、そろそろミーティングの時間だと目配せする。
横川は鞄から手帳を取り出して、北村の後に続いて二階の会議室へ向かった。
「今日集まってもらったのは、緊急に検討してもらいたい事態が発生したからだ」
副学院長の笹川貫が重々しく口を開く。
会議の出席者は、教務主任の北村、教務副主任である横川の他、本部校舎長の田口、経理部長で笹川貢の姉である石田美幸、それに英語科・数学科・国語科の各主任である。
経営に関わるこんな会議に教務主任や教科主任が出席していること自体、この予備校の体質を表している。
秀英予備校では、経理の事務員を除いては、この規模の予備校としては普通いるはずの営業やチューターとかいった一般職員がおらず、「専任講師」と呼ばれる先生たちが、教えること以外にも多くの仕事を分担していた。
一応「主任」とか「副主任」とかの役職は設けられていたが、学院長・副学院長・経理部長の同族以外は皆横並びで、企業というより学校に近かった。
「四予備の件ですね」
教務主任の北村が話を継いだ。
北村は一番の古株で、学院長の側近である。自分自身で番頭と位置付けている。
秀学アカデミーの急成長時代に入ったから、給料はうなぎ上りで、一時は一部上場企業の部長クラスの年収を得ていたと噂されている。
もう六十を超えていて再雇用という身分だから、今はその半分もないだろうが、逃げ切り組の一人であることに違いない。
秀英アカデミーが拡大を続けていた頃は、英語の授業の傍ら広報担当者と言うことで新聞広告やテレビCМなども手掛けていたから、その成長が、自分の手柄と思っている。
しかし横川に言わせれば、生徒が減少し始めた頃にも、それまでと同じような広告経費をかけたのにちっとも効果が無く、そもそもあんなありきたりの広告など意味がないじゃないか、ということになる。
しかし北村は、自らの責任とは全然思っていない。副学院長の経営手腕が衰退の原因だと考えているようだった。
横川達若手から見れば、成長していったのは、確かに校長の笹川和孝のカリスマ性もあるが、何と言ってもそういう恵まれた時代に負う所が大きく、今の体たらくは、その時代を読み切れなかった経営者自身の見通しの甘さと、「古き良き時代」に甘んじて何もしてこなかった北村のような年代の職員たちの責任だと感じている。
「そう、四国予備校が来年入って来る」
四国予備校は、いわゆるかつての「御三家」に次ぐ準大手予備校で、四国や中国地方ではトップシェアを保っていて、高卒生だけで一万人、グループ全体では一万五千人以上の生徒数を誇っている。数年前から九州地区にも進出を始め、二年前には東京にも校舎を建てて注目された。
東京では、御三家の包囲網に会ってさすがにそれほど生徒は集まらなかったようだが、校舎を維持できるだけの収益は上げているようだ。
その四国予備校が、今まで秀学アカデミーが踏ん張っていたために一種の空白地帯だったこの県にも、いよいよ本格的に攻め込んできたという訳だ。
「どこからの情報ですか?」
横川が尋ねる。
「全国予備校連盟の城田事務局長からだ。新聞社に探らせてみたら、駅前の羽田商会が入っていたビルの一二階を借りるそうだ」
全国予備校連盟は、昭和五十年代に「御三家」の全国展開が物議をかもし始めた頃組織された一種の調整組織だが、御三家のうちの一つ「原宿ゼミナール」はすぐに脱退し、四国予備校は元々加盟していない。
「一等地じゃないですか。家賃も高いはずですがね」
「それなりに自信があるということだろう」
「どのくらいの規模で募集するつもりでしょうか?」
田口校舎長が副学院長に尋ねる。
「他県の例から言うと、初年度は二百人くらいではないか。教室のキャパもそれぐらいだと聞いている」
「二百?」
二百人をごっそりと四予備に持っていかれたら、秀学アカデミーの高卒生の生徒は半減してしまう。
「そんなに集められますかね」
英語科主任の佐藤が暢気そうに言う。
「高卒生で東京や大阪に流れていた生徒がターゲットなのでは?」
国語科主任の吉田も何の根拠もない楽観的な見通しを述べる。
「横川先生、ところで来年度の合格実績の見込みは?」
副学院長から唐突に質問されて、横川は言葉に詰まった。
「見込みといっても、まあ、今年並みじゃないか、と」
「医学部は?」
「ええ、高卒生から五人は確実かと、それに現役生からは二人……」
「そんなに少ないのか? なんとか二ケタにもって行けないのか」
そう言われても、もう九月だと横川は思ったが、「何とか頑張ります」と言うしかなかった。
結局そのミーティングでは、営業を強化するとか広告戦略を見直すとかといった対抗策が出ないまま、今いる生徒の出席率を上げるとか、合格実績を上げるための授業内容の見直しとか、内向きの話ばかりで終わった。
確かに予備校と言えども教育機関の一角を占めている訳だし、校長に言わせると、「一角を占めている」どころではなく、学校と同等かそれ以上に全人教育を担っているということで、授業の質を上げるとか、それによって合格実績を増やすとかは、もちろん予備校にとって最も重要なことぐらい横川も理解しているつもりだ。
だがそもそも合格実績が予備校選択の最大の基準なら、かつてあれだけの実績を上げていた秀学アカデミーの凋落した理由は何と説明がつくのだろうかと、横川はやはり割り切れないものを感じた。
夜の授業が終わってから、まだ残っていた英語の中田と国語の宮本に、横川は久々に飲みにいかないかと誘った。翌日は三人とも午前中の授業が入っていなかった。
三人は駅裏の盛り場まで繰り出して、居酒屋の暖簾をくぐり、ビールをジョッキで三つ注文した。
「久しぶりだな、こうやって三人で飲むのも」
中田がおしぼりで顔を拭きながら言った。
「そうだな、昔はよく行ったものだけどね」
「まあ、俺たちもう若くもないしな。それに横川と中田は妻子持ちだしな」
三人で一人だけまだ独身の宮本がしみじみと言った。
「そう言えば最近、日本史の山田と会ったぜ」と中田。
「あいつは県庁に採用になったんだっけ」
横川は一杯目のビールを早くも飲み干しながら言った。
「ああ、いいタイミングだったよな。それにコネもあった様だし。結局俺らだけ、行きそびれたということか」
それをきっかけに、かつて同僚だった若手講師たちの噂話が続いた。
誰それは自分で塾を立ち上げたが生徒が集まらず、地元の広告会社に何とか職を見つけて営業員になっているとか、誰それは給与が二割増しだという条件で競合他社に転職したものの、そこがすぐに倒産して結局自分で細々と塾をやっているとか……。
「上手く行っているのは山田と川本くらいか。辞めるも地獄、残るのも地獄というところかね」
川本は教員免許を持っていて、県の教員試験に合格して、今は県立の高校の教諭として勤めているとのことだった。
「全くだ」
横川も頷いた。宮本は黙って冷酒を飲んでいる。
横川は旧帝大の理学部、中田は国立の外大、宮本は有名私大の仏文科出身である。三人ともそれなりの高学歴だから、まともに就職活動をしていれば、確かに三人が大学を卒業した時は就職氷河期などとも言われていたが、普通の企業には就職できただろう。
横川は研究者の夢を抱いて大学院に進んだが、やはり無理だと思い知らされて、途中でドロップアウトした。
結局中途半端な経歴になってしまい、時期も逸したから、普通の民間企業に就職するのは無理だと諦めた。
一応教員免許はあるから、いざとなれば高校の教師になれば良いかと、地元の教員採用試験でも受けてみようかとも思った。しかし横川の大学の学生たちには、大学の研究者以外の教師なんて、とい妙なプライドがあった。
結局、いずれ採用試験を受けて公立高校の教師に収まるのだろうと思いながらも、二三年は自由にしてやろうと、縁もゆかりもないこの土地で、たまたま募集していた「予備校講師」の職に応募して採用され、それからあっと言う間に十五年が経ってしまった。
それぞれに何らかの事情があって、結局腰掛けのつもりで勤め始めた予備校に居座ってしまっている。
「ところで今日のミーティングって何だったの?」
中田が横川に尋ねた。
「四予備が来年進出してくるんだって」
「まじか、ヤバいんじゃないの」
「ああ、俺もそう思う。宮本もそう思わないか?」
横川は、ただ聞いているだけの宮本に話を向けた。
「僕は聞いていたよ」
「えっ、誰から?」
「大学の同期が、四予備の講師をやっていてね、高木っていう古文の講師だが」
「あの高木か?」
中田は驚いた。高木隼人は、四予備の看板講師として、御三家や衛星予備校の有名講師ほどではないが、参考書も出したりして、それなりに名前は通っている。
「来年からお前たちの街でも授業を持つかもしれないって、夏期講習期間中に電話があった」
「親しく付き合っているのか?」
「いや、久しぶりの電話だったから驚いた」
「ひょっとしてヘッドハンティングとか?」
中田は冗談めかせて尋ねた。
「向こうは契約講師だから、人事には関わっていないってさ。でも、僕が希望するなら、親しくしている理事に口をきいてやるって言ってくれた」
二人は驚いて顔を見合った。
「それでどう返事したんだ?」
横川が興味深そうに聞いた。
「まあ考えてみる、って答えた」
「そうかもな。いい話かもしれないが、あっちも最初から今以上の収入を約束してくれるとは限らないからな」
まだこれ程まで生徒数が減少していない五年前に、中古ではあるが、二十五年のローンを組んで一戸建ての家を買った横川が頷いた。
「しかし、先のことをそろそろ本気で考え始めなければいかんな。給料が上がるとは思えないし」
「それどころか、潰れるかもしれないしな」
口数の少なかった宮本も含め、三人で今の幹部の無能ぶりを散々こき下ろしながら、杯を重ねて行った。




